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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年1月号

文学にみる障害者像

水上勉著 『五番町夕霧楼』

佐々木正子

『五番町夕霧楼』はある意味で夢物語である。それは読み終わった後も心の中に夏の夜の線香花火のようにいつまでも美しく残るような小説だからだ。

そしてまたこの小説、水上勉が明らかに三島由紀夫の『金閣寺』を意識して書いたものであることが、読んでいてひしひしと伝わってくる小説でもある。

主人公は、京都の西陣五番町の遊郭「夕霧楼」に働く夕子という一人の女性である。この夕子が海沿いの辺鄙(へんぴ)な与謝の村から、家族の生活を支えるために遊郭に身売りする。娼妓となった夕子のところには京都の禅寺に小僧となって修行している幼な友達の檪田正順という若者が通ってくる。そして二人の間にはだれにも知られない愛が育まれていく。しかし小説が、最後に近づく時、金閣寺が焼けるという事件によってすべてが集約されていくのである。一人の男性のために尽くし、その男の後を追って自分も死んでいくまでの1年間を京都という古い町の情景を織り交ぜながら、夕子を取り巻く夕霧楼のおかみや娼妓たちの温かい心に、読む者も包み込まれ、癒されていくような小説である。

金閣寺が一人の学生僧の放火によって全焼したのは、昭和25年の7月2日である。

放火したのは林養賢22歳。金閣寺を放火した直後に自殺を図るが未遂に終わり、翌日、金閣寺の裏山で倒れているところを発見される。

新聞は、彼が吃音という障害をもつがゆえに「差別を受けた恨みからでた行動」というように報道していったようである。しかし林養賢が事件後、禅宗門の堕落に対する粛清であるとか、美への反発である等の供述をしていることから、各界の識者にさまざまな反響を呼ぶことになる。しかし日によってさまざまに供述が変わるため、単なる狂気の行動だったとして、次第次第に世間からも人々の意識からも林養賢は消えていったようだ。

京都地裁で懲役7年の実刑が確定し服役した林養賢は、5年後の昭和30年10月に保釈されるが、すでに持病の結核が悪化していてそのまま京都府立洛南病院に入院、翌年3月7日にこの病院で亡くなっている。享年26歳であった。

そして三島由紀夫がこの年の10月に『金閣寺』を新潮社から出版、それから6年後の昭和37年9月の「別冊文芸春秋」に水上勉が“私の金閣寺”ともいうべきこの『五番町夕霧楼』を発表したのである。

三島由紀夫が書いた『金閣寺』の主人公は、幼い時から自身の吃音という障害のため、周囲から馬鹿にされ続け、次第に孤独地獄の中でもがき苦しむ。そして世の中で賞賛される美的な物への憎悪を募らせていき、その怒りを「金閣寺炎上」という劇場的場面を夢想し、計画していくという、ある意味で偏狭的性格の人物として表現されている。さらに三島由紀夫はこの小説の中で主人公の側に、柏木というもう一人の障害者を登場させ、三島由紀夫流の障害者論を展開しているのである。それは弱者としての障害者の姿ではなく、一方で強く、したたかに生きぬく障害者を描き出そうとしているのである。

しかし自身が、事件の6年前に実際にこの犯人とも会っているうえ、山陰の寒村で生まれ、9歳の時に京都の寺に預けられ、修行の辛さと坊主であるコンプレックスから脱走を企てた経験のある水上勉には、孤独な主人公をそのままにして、一人で金閣寺を焼かせてしまう三島由紀夫の『金閣寺』を認めることはできなかったのではなかろうか。そして別の「金閣寺」、癒される「金閣寺」を書かなければと思い始めたのであろう。だからどうしても放火犯を一人にしておくことはできず、この放火犯へ一途に寄り添う夕子という女性を主人公とした『五番町夕霧楼』を発表したのではないだろうか。

「どんな人にもその人を愛してくれる人がこの世には必ずいるはずだ」そんな水上勉の心情が、この美しい小説を作り出したように思われるのだ。

主人公夕子が夕霧楼の女主人かつ枝に連れられて生まれた与謝の地を後にするところを水上勉は、京都弁のあのはんなりとした優しい響きでこんなふうに書くのである。

「奥さん、浄昌寺が見えます」………

「あのお寺はんは、うちらァのいた三つ股のお寺はんどしたんや。きれいどっしゃろ。百日紅が咲いとります。」

その美しさがそのまま夕子の心の美しさを表現しているようなそんな京言葉に触れた瞬間、読者はすでにゆっくりと時が流れて行く京都の町にたたずんでいるのである。

日々の上がりを毎月故郷の家族に仕送りしていくだけの夕霧楼での暮らし。

その夕子がいつからか自分の身体を売って作った金を、吃音という障害のある檪田正順のために使っている事実を知ったかつ枝は、
「いくらどもりやからいうてもやな、世の中には出世してはる人もいくらもあるえ。人間どんな人でも欠点ちゅうもンはあるもンやな。その欠点を自分の力で逆に生かすのが生きるよろこびやおへんか。それを、ひねこびてしもうて、人さんを恨んでくらすなんて間違いやな」と諭すのである。

しかしいつもは物静かで控えめな夕子が、力強くかつ枝にこう言うのである。

「うちは苦労には馴れとります。お母はん。うちは檪田はんが、元気だしてくれはって、世の中を明るう思わはる日ィまで、つきおうていたげよ思てますだけですねん。お母はん、あの人には友だちは一人もおへん。あの人に相談してあげる人はどこにもおへん。ほんまに孤独なひとどっせ」

これが水上勉の人間に対する関わり方の答えなのであろう。

水上勉は『五番町夕霧楼』を書いた後、再度この主人公を書くことになる。『五番町夕霧楼』から7年後に発表した『金閣炎上』がそれである。彼の中でどうしても林養賢という人間を追及しないでいられなかったからだ。

裁判資料、供述記録など関係資料を調べあげ、林養賢の生まれた土地に何度も足を運び、地道に村人への取材を重ね、実に事件発生から29年の歳月をかけてそれを書き上げたのである。

それが水上勉の人間への関わり方であり、障害をもつ人への姿勢なのかもしれない。

だが、この事件が世に問うたものは何だったのか。障害ゆえに健常者とは異なった環境のなかで育ち、それがために孤独になったり、いじめにあったりすることは確かに多いことであろう。しかしだからといって事件を起こした人間の精神分析を、その障害によるものという観点から探っていこうとすることは危険なのではなかろうか。

それよりも昭和25年と言えば、まだ占領統治が終わって間もない時期であり、世の中がいまだ混乱が相次いでいた頃である。下山事件、三鷹事件など謎の事件も多く、林養賢が金閣寺に放火する1年前には法隆寺金堂が炎上しているし、その1か月後には国宝松山城がやはり放火で炎上しているのである。まして、この金閣寺を放火した林養賢も逮捕当時の供述調書にある「金閣の美しいと云うことが癪にさわった」というところを、後の問答速記録では「そんなことはないです。美しいと云うより、金閣を焼くんですから死ぬのならそこで死んだほうが英雄的ですので…」と述懐している。

林養賢はただ自身が死にたかっただけなのである。その死に場所として金閣寺を選んだだけなのである。現代ならば自分が死ぬ場所として国宝の金閣寺を選ぶ、などという考えは起きなかっただろう。

しかし戦争が人々の心を狂わせた時代である。国家が殺人と破壊を奨励した時代である。どうせ文化財など戦火で焼けていたかもしれない時代である。林養賢に金閣寺放火を促した闇の声、それは戦争だったと見るのが真実ではなかろうか。

(ささきまさこ 「しののめ」編集長)