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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年5月号

文学にみる障害者像

水上勉著 『椎の木の暦』―脈打つヒューマニズム

山県喬

1 成立(なりたち)とストーリー

この作品は、作家水上勉の実体験にもとづいて書かれた八百枚に及ぶ長大編である。作品は渡(わたり)政三(代用教員)の一人称で書かれている。

渡は昭和19年の4月から昭和20年敗戦の秋まで、福井県の辺境の分教場で、二十数人の児童を受け持った。教員の資格もなく、素人がいきなり複々式学級を持ったので大変だった。場所は、京都府境に近い青葉山という三百メートルほどの小山の中腹の部落である。

子どもたちは在郷の子のほかに、京都・大阪などからの疎開者の子、朝鮮籍の子もいて、「疎外」の要素もあった。智恵おくれの女の子も一人いた。その他、先生たちの中には、週1回音楽と裁縫を教えに来る小児マヒの女の先生もいて、人間関係は多彩である。

物語の舞台は、戦争の末期であって、生活状態は極めて異常であった。学校の授業も教室学習はごくわずかで、軍からの指令で子どもたちは蕗を刈ったり、野鳥を獲ったりして、舞鶴軍港の食堂に納入した。

このスケールの大きな作品は、冒頭の「赴任の日」という章から、読者を飽きさせることなく、ぐいぐいと物語の世界に引きずりこんでゆく。そして作家の熱いヒューマニズムの息づかいに感銘の度を深めてゆく。

この作品は、昭和54年、七つの地方新聞に9か月にわたって連載された。戦後34年が経っている。この間、作者は『雁の寺』で直木賞を受賞後、長女が重度障害者となり、福祉行政の遅れの中で大変苦労された。やがて「拝啓池田総理大臣殿」を発表し、世の反響を呼び、福祉立ち上がりに一石を投じた。昭和54年といえば、全国に障害児の施設や養護学校も行き渡った頃である。国民の目はかなり「共に生きる」という視点を持ち始めた頃である。

2 智恵おくれの子

以下、作品に即して智恵おくれの子と、小児マヒの女先生の様子を紹介してみる。

渡が初めて赴任したとき、児童名簿にタミコの名はなかった。後日、おそるおそる訪ねてきた母親が懇願する。

「タミコは、長いこと休んでおりまして、みんなの仲間に入れてもらえません。(前任の)三木先生にご迷惑をおかけして、休ませたままにしておったのでございます。新しい先生がおいでたのなら、もう一ぺん学校仲間に入れてもろて、勉強できんにしても、みんなと一緒に遊ばせてやってもらえんやろかと、お願いにあがったようなわけでございます」

渡が学籍簿をめくってみると「智能発育に致命的欠陥を有す。記憶力、筆力、読解力の衰弱甚だし。身体は健康なるも集団生活に支障をきたすと認められ休学せしむ」とあった。

渡は「背すじに風がうごくような」気分を味わった。「わかりました。一緒にがんばりましょう」とはげます。

渡はそれから、まず年長の子らに会ってタミコの事を話す。

「きみたちは上級生だ。タミちゃんを連れてくる責任がある。いろいろわけがあっただろうが、きみたちがのけものにすれば、いっそう学校がきらいになるからね。先生は、そういう事はきらいだ」

子どもらは、ハイ、とすなおに返事する。教室で全員に話した時も、全員が、ハーイ、といっせいに答えた。

3 小児マヒの女教師

大雪の日、松井照美訓導が朝家を出たきり学校に到着していないという事がわかって、騒ぎになった。ある教師は言う。

「子どもの事を考えると、こんな雪に負けて休む気持にはなれません。松井先生も同じ気持だったと思うんです」

すると校長は、感心して言った。

「そういう気持は非常に尊いと思いますよ、ねえみなさん」

渡は校長の言いように腹が立った。今、松井訓導は行方不明になっているのではないか。こんなときには、足の悪い訓導には校長命令ででも出勤を阻止すべきではなかったのか。

ともかく総動員態勢で捜査が行われた。しかし、渡の日記には次のように記された。

「大いなる悲劇は起これり。松井訓導は、海岸道の窪地にて発見されたるも、すでに凍死体なりき。先生は、黒き洋傘をさしたるまま雪のへこみに腰をおろし、片手に傘の柄をにぎり、片手を膝にあて、考える姿にて死せり。先生は風呂敷包みを持ちたり。中に4枚の雑巾あり。生徒の教材なりき。これを見て泣かぬ者は一人もなかりき」

4 33年目

渡は、時代の困難の中で情熱をこめて山の分校につとめ、やがて敗戦の日を迎える。

昨日まで、「お国のために、勝つまでは何事も辛抱してがんばろう」と、それだけを心の目標にして指導してきた教師たちの、精神的混乱は並大抵のものではなかった。

昨日まで「にっくきアメリカ兵」と呼んでいたものを、これからどう呼べばいいのか、自分たちの生きる目標をどこにおけばいいのか、具体的な例を示して話さねば子どもたちにはわからないだろう、と教師たちは煩悶する。

「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)じゃ。忠臣蔵にたとえればよい」と校長は苦しそうに言う。

「これから耐えしのんで、いつの日か米英に仕返しをする。これしかなかろう」

渡は、このような状況に納得ができず、子どもたちへの思いを残して、自分の生きる道を求めて東京へ去った。

そして33年が過ぎる。

出版社の人と同行して、分校のかつての教え子たちと面会することになる。

かつての子どもたちは、みんな中年の男女になり、それぞれの人生を過ごして先生と会い、それを語るのだった。

みんなから少し離れて、年老いた母とぼってり肥った40年嵩の女がいる。渡は、懐かしさに小走りに寄った。赴任してまもない日、椎の木の下にしゃがんで、就学させてほしいと懇願した母親が今70を越した老女としてそこにいた。

老母は言う。

「ただ一つ、先生にお訊きしたくてここへ来ました。タミコは、先生が去った後、また学校へは行けなくなってしまったのです。先生が東京へゆきなさったのは、タミコのような子がいたからですか」

渡は絶句して否定したが、もちろんその重い事実は今さらどうすることもできない。

そして翌朝、渡がすでに帰ってしまったのを知らぬタミコが、庭でつんだ花束と、蕗の佃煮を持って会場だった寺へ尋ねてくるのだった。

5 作家の思想

この長編を読み進めながら、頭のどこかで次第に思い出されてくる別の作品があった。壺井栄の『二十四の瞳』である。こちらは四国の小さな島の分教場の話だが、一人ひとりの子どもが先生に注ぐまなざしの輝きがとても似ている。純真な子どもたちには、物事を正しく見つめ、公明正大に対応してゆこうとする大人を直感的にとらえることができるのであろう。愛情の豊かな、正義感の強い教師は、まちがいなく子どもの信頼をかちうる。

作者水上勉は、貧困な宮大工の家に生まれ、10歳くらいからお寺の小僧に出され、大人の醜い姿に打ちのめされて、何度も寺を飛び出すという苦労をした。作家修業時代も洋服生地の行商などの辛酸をなめた。そしてようやく直木賞をつかんだら、今度は娘さんの大患に合ったのだった。

辛酸をなめつくすと、多くの人は人相が悪くなり、根性がねじくれてしまう。しかし、真に賢い人は、そのことによって人間洞察の力を深め、人々の師表になることができるのであろう。

水上勉の『椎の木の暦』は、分教場の経験及びその後関わった障害児問題の貴重な体験を総動員して、読者に強く訴えるものを感じる。それは物質や制度の問題をも越えて、最も重要なものは「ヒューマニズム」の心であるということであろう。

(やまがたたかし 東京都生涯学習講座「生活と文学」講師)