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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2004年11月号

報告

障害者スポーツ「2004アテネパラリンピック競技大会」報告

岩坪勝

はじめに

「もう一つのオリンピック」2004アテネパラリンピックは、8月のオリンピックに続き9月17日から28日まで、ギリシャのアテネで、12日間にわたる競技が行われました。

パラリンピックは、1960年にローマで開催されたのを第1回とし、第2回は東京大会で、アテネ大会は12回目となります。

今大会の規模は、参加国136か国・地域から約4000人の選手が参加し、過去最大の規模となりました。日本選手団も過去最多となる271名(選手163名、監督コーチなどのスタッフが108名)が参加しました。

1 選手村

市街地から北西に15キロのところに建設され、総面積は約1.2平方キロメートルあり、そこに住居棟約300棟が建っていました。2、3階建で地下室とエレベーターがあり、総数約2,200戸。各戸に寝室が3~4部屋、浴室とトイレが2か所ずつ、冷暖房完備で、寝室1部屋に2人が入居できるようになっていました。

日本選手団の宿舎は、5か所に分かれ、3棟は専属、2棟は他の国と共同で使用しました。専属棟のうち1棟の地下室は本部事務所としました。車いすの選手にあっては、エレベーターが故障した際に、閉じ込められない策として、1階への部屋割りとしました。

日本選手団の宿舎近辺には、平屋建ての巨大なレストラン、売店、郵便局、美容室、式典会場、NPCサービスセンター、競技情報センターなどが近くにあり、大変便利でした。

2 競技会場

競技会場は、選手村から一番近いオリンピックスタジアム(開・閉会式、陸上競技)には車で約30分ほどで行けますが、自転車ロードレース会場へは、1時間から1時間30分程度かかりました。

市内に入ると渋滞に巻き込まれる可能性があるので、監督・コーチなどスタッフは、時間的余裕をもって選手村をスタートしていました。競技会場は19会場に分かれ、会場と本部との連絡は携帯電話が活躍しました。

3 競技成績

競技は18日からスタート。オリンピックと同様に柔道からと気合を入れて臨んだ柔道チーム。男子66キロ級に出場した藤本聡選手(徳島県立盲学校職員)は、お母さんの声援が効き、延長の決勝戦でスペインの選手に優勢勝ちとし、今大会の日本金メダル第1号となりました。

藤本選手は、これでアトランタ、シドニーに続き3大会連続優勝。「金メダルを生徒に見せることができる」と喜んでいました。

そのあと柔道は、60キロ級の広瀬選手と81キロ級の加藤選手が銀メダル、100キロ級の天川選手が銅メダルで、前回のシドニー大会を超えました。

水泳では、成田真由美選手(日本テレビ放送網(株))の泳ぎには圧倒されます。選手村に入村した当初、朝晩寒くて風邪を引いた選手が続出、成田選手も例外ではありませんでした。競技2日目、100m自由形は「調子はいまひとつ」としながらも、スタッフに抱えられプールに入ると、「競技に没頭する」切り替えは、素晴らしい集中力の泳ぎで、1分25秒07自己の世界記録を更新、三連覇を決めました。その後出場した種目でも大会記録や世界記録を出して7つの金を獲得、最終レースの4×50mメドレーでも「4人で喜びたい」と銅メダル、自身8個目のメダルは大会参加全選手の中で最多メダルを獲得しました。

一方、水泳の主将を務める河合純一選手(早大大学院生)は、平成4年バルセロナ大会から4大会連続出場し、今まで金4個、銀7個、銅4個の合計15個を獲得しています。今大会は、成田選手のゴールドラッシュに刺激を受け、9日目50m自由形は、26秒64で金メダル、これで銀2個、銅2個の計5個となり、総メダル20個となり、成田選手と肩を並べたことになります。そして水泳の成績は、金8個、銀6個、銅9個、計23個のメダルを獲得しました。

陸上競技では、高田稔浩選手(福井市役所職員)は、初出場ながら、400m、5000m、マラソンといずれも大会記録をマークし、三冠達成、その他1500メートルでも銅メダル、計4個を獲得しました。障害者スポーツは「素質とか、才能で決めるのではなく、まじめに取り組むこと、日々努力すること」と高田選手。

土田和歌子選手(セイコ・ハシモト・インターナショナル・コーポレーション)は、長野パラリンピック大会で、1000m、1500mで金メダル獲得しています。今大会は、陸上競技5000mに出場、先頭グループにいた土田選手が、畑中選手らと接触して後輪がトラックの縁石に入り込んだため衝突、立て直して走り出した時は、先頭から80m離されていました。しかし残りの7周を慌てることなく鍛えた腕を高く上げ、振り下ろす力強い走りで、観衆も大声援、あと2週目のところで先頭集団に追い着き、鐘が鳴った残り1周、4コーナーを回り、ゴール寸前身体一つ抜き出ました。11分59秒51は大会新記録で金メダル。夏冬の両大会で金メダルを獲得しました。

畑中和選手((株)ワールドストアパートナーズ)は、5000mの競技で接触し転倒、途中棄権となり、何もかも投げ出したくなった気持ちを抑え、マラソン一本にかけ、5日後の競技9日目、マラトンの丘(マラソナス)に立ちました。オリンピック女子マラソンで優勝した野口みずき選手(2時間26分20秒)と同じ所にいました。車いすマラソンは男子、女子とも8時にスタート、1分遅れで視覚障害者がスタートします。

ゴール会場のパナシナイコスタジアムに小柄な畑中選手が右手を突き上げて、トップでゴール。1時間49分26秒。5000mで棄権したその悔しさを晴らした思いと、念願の金メダルを獲得したことが、本当にうれしかったのでしょう。その後、47秒遅れで土田選手が2位でゴール、女子マラソンで初めてワンツーフィニッシュを果たしました。表彰の競技場では、女子マラソンで国旗がメインポールに2本掲揚された時は、胸に熱いものが込み上げてきました。

続いて、高田稔浩選手(T52クラス)が、2時間00秒02の大会記録で1位ゴール。視覚障害者(全盲クラス)の高橋勇市選手((株)アイ・テイ・フロンティア)が2時間44分24秒で1位、初めてのパラリンピック出場で金メダルを獲得しました。視覚障害者の全盲クラスの競技は、伴走者がいないと一人では走れません。伴走者は命綱のようなもの、20キロまで伴走した神原さん、交代した中田さんにも金メダルをあげたいものです。日本は、マラソンで金3個、銀1個を獲得しました。

陸上競技車いす800m(T54クラス)の安岡チョーク選手(ひらた医院)は、タイ国籍を変更条件に日本代表で出場。アトランタ、シドニー大会は銅と銀メダルを獲得。4日前、1500mの競技で衝突し、途中棄権。レース用車いすは大破して、替わりの車いすを手配して競技に臨み、1分32秒45の大会記録で初の金メダル。「みんなのおかげ、日の丸、かっこいいね」と安岡チョーク選手。勤務先の家族も応援に駆けつけました。

車いすテニス男子ダブルス、齋田悟司選手((株)オーエックスエンジニアリング)と国枝慎吾選手(麗澤大学生)のコンビは、フランス組との決勝で、6対1、6対2のストレート勝ち、国枝選手が前後左右に動き、齋田選手は後方をカバーし強打を打ち込んだ戦いは、アジア勢で初めての優勝を果たしました。

団体競技では、初出場のゴールボール女子は、初戦勝ちを勢いに銅メダル。「やかましジャパン」は元気がよかった。

全競技の成績結果は、金17個、銀15個、銅20個、合計52個は、前回シドニー大会の41個を上回り、また、昭和63年のソウル大会の金16個を含む総メダル数45個を超え、過去最高のメダル獲得数となりました。

4 ボランティア

(1)NPCアシスタント

日本選手団には、ギリシャ人を含む4名のアシスタントと1名のサポートスタッフが協力してくれました。勤務時間は10時~17時と13時~20時までの二つのシフトを用意しました。業務は、主に本部にある総務班の手伝いをお願いしました。公用語は主に英語ですが、緊急に対処してもらうには、やはりギリシャ語での交渉のほうが解決が早いです。「心身ともにハードな業務ですが、直接選手に接しながら競技支援ができることは、アシスタントとして非常にうれしい」と言われました。

(2)選手村のレストラン

レストランは、4つのセクションに分かれていました。そのうちの一つにアジアコーナーがあります。料理責任者とその他5名の日本人がいました。皆親切で、日本選手に話し掛けてくれたり料理の要望を聞いてくれたり、食事提供に協力的でした。たとえば、ギリシャといえばオリーブ油を多く使う料理が代表的ですが、「日本人はオリーブ油に慣れていないから、胃もたれを起こしやすいので、油を控えてほしい」という要望にも快く応じてくれました。

また、毎日似たような食事の中、時々目先を変えてメニューを考えてくれました。日本食フェアと題して、いなり寿司とかき揚げを提供していただいた時は、日本選手のみならず、各国の選手たちが長い列をなして日本食を楽しんでいました。

5 交流

27日にパラリンピック見学に来る途中の高校生7人の交通事故死という事件があった中、アテネ日本人学校長から、見に行けない生徒のために、学校に来て話をしてもらえないかという依頼がありました。そこで、陸上競技の花岡選手、土田選手、笹原選手が学校に出向き、障害のある選手が競技に生きがいを感じ、夢と目標を持って取り組んでいることを自由にトークする形式で、生徒と対話交流しました。

「生徒は、障害に負けない生き方、競技に対する選手の心の強さ、だれもがスポーツを楽しむことができる等々を感じることができました」と菊池修校長から感謝されました。

6 まとめ

閉会式で日本選手団は、高校生7人の事故死を思い、喪章を付けて入場しました。

今後の障害者スポーツは、さらに競技力が向上するものと思います。選手、監督、コーチの皆さんは、ゲームの結果を自己評価しつつ科学的に分析し、具体的な今後の方策をしっかりと立て、さらに上をめざして挑戦していただきたいものです。

IPCの新しいエンブレムがオリンピックスタジアムにひるがえりました。モットーは、スピリット・イン・モーションです。それは「パラリンピックの選手が卓越した競技者の域に到達し、世界中を興奮、鼓舞させることができるように」という新しいビジョンを象徴しています。わが日本選手がパラリンピックで世界中を興奮、鼓舞させられるよう、より一層ワザを磨き、今後の活躍を期待します。

むすびに選手団の派遣費は、福祉医療機構のスポーツ支援基金、日本自転車振興会補助金、選手の出身地の都道府県・指定都市からの支援、そして個人、企業、団体等の寄付金からと、多くの国民の方々からのご支援をいただき誠にありがとうございました。

(いわつぼまさる 財団法人日本障害者スポーツ協会理事・事務局長、2004アテネパラリンピック日本選手団団長)