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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年1月号

文学にみる障害者像

生田葵山著 『団扇太鼓』
―ハンセン病・迷信が支配していた時代の悲劇―

関義男

ハンセン病がどのような病気か知らないと言う人たちがいることに、驚く人がいる一方で驚くにあたらないと言う人がいる。「ハンセン病」という呼称になじみがない人でも「癩(らい)病」を知らないと言う人はなく、昔ながらの誤った知識を温存している人たちは「ハンセン病」をわざわざ「癩病」という言葉に置き換えて否避しようとする。

適切な治療法が確立していなかった時代、この病気に対する恐れと憶測が伝統的な仏教思想とないまぜになって「業病」と呼ばれたり、「賤しき血」「前世の報い」「触れれば感染」等の迷信や誤解を生み出し、迷信や誤解が偏見と差別を醸成して現在もなお鞏固(きょうこ)に脈打っているのだ。

その意味で暗い過去を引きずる「癩病」をらい(癩)菌発見者の名をとって「ハンセン病」と呼称を変えたことは正しい。現在では全く恐れる必要のない疾病となったからだ。

しかし以下の記述で、私があえて「ハンセン病」としなかったのは、迷信が支配し、人々を恐れさせそして苦しめた時代の呼称にふさわしくないと思ったからで他意はない。

近代文学の出発点となった明治期、遺伝もすれば感染もすると恐れられた「癩」は「結核」と同様に悲劇小説の好材料であっただろう。

文学は作者が生きた時代から逃れられず、その時代の社会風潮を写す鏡のようなもので、そこから生み出された作品は読まれることによって力を増幅し社会に逆影響を及ぼす。

生田葵山(いくたきざん)の『団扇太鼓』は、まさに「癩」についての誤った知識を敷衍した典型的な作品の一つであっただろうと私は想像する。明治32年4月に発表し、24歳の生田葵山が初めて文壇で注目された作品であった。

ここで『団扇太鼓』のあらすじを紹介したい。

著者とおぼしき人が東海道富士川沿いを旅していた折り、癩を罹患しているらしい巡礼姿の若者に出会う。年齢はいくつと問えば17歳と答え、お題目の声の嗄れたところが、この骨晒す場所と冷やかに微笑む。

巡礼の名は宗太郎。遠州浜松に近い村の資産豊かな家に生まれ育った。両親は仲睦まじく、母は宗太郎の姉となる女子2人を続けて産み、次はぜひに男の子をと村はづれの塩釜様に日参するのだった。ある日いつもの時刻より遅れて共もつれず1人でお参りに出かけた母が、家に灯火の灯る頃帰宅した時、なぜか顔色青ざめてひどく恐ろしい目にあった風情だった。母はその日限りに日参をやめてしまう。やがて母は身重になり10か月後に生まれたのが宗太郎であった。彼には乳母がつけられ何不自由なく豊まれた環境の中で育てられるが、なぜか養育は乳母にまかせきりだった。

学校に通学する身となった宗太郎は、ある日餓鬼大将に「宗さんの顔は三次の顔に能く似ているよ」と、大勢の友達のいる中で嘲られる。

「三次とは此村にて人は蛇よりも厭ふ破落戸者(ごろつき)の、其上而も恐ろしや癩病の血統(ちすじ)ある男」で、辱められた宗太郎は口惜しく、以後そのことが頭に残って忘れ去ることができない。三次は塩釜様の地内に住み、千代と名付けた三毛の牝猫を可愛がっているが、「千代」は宗太郎の母の名と同じなのであった。

ある朝、三次が池に投身自殺して大騒ぎになった。宗太郎が見に行くと、亡骸となった三次の胸に三毛猫が抱かれ、猫は心地良げに目を瞑(ねむ)っている。村人たちは猫と情死せし物好者よと、誰一人涙する人がいない。

それから間もなく、宗太郎を可愛がってくれた乳母が急病で死んでしまう。ある日、母と墓参りに行くと乳母の墓のすぐ近くに三次の墓があるのを見て驚く。母は三次の墓の前で「よしやいか程の悪人でも、死んでしまえば同じ一つの道…、お前も真実真心籠めて囘向してお上げなさい」と言うのだった。

宗太郎は14歳になり、生涯の中で最も幸福な楽しい日々を過ごしていたが、梅雨の頃から顔の筋の釣るような不快感で気分が鬱ぎ、学校へ行く気力も失われていく。体調がすぐれないのは時候のせいで養生が必要だろうと言われ、母に付き添われて箱根の温泉へ出かける。しかし50日余の療養も改善の兆しが見られず、顔の容貌はしだいに醜さを増していく。ふと癩病ではないかと気付き、宗太郎はさまざまな妄想に苦しめられるのだった。

温泉療養を諦めて故郷に戻ると、豪農に嫁いでいるはずの姉の窶れた姿があった。「穢れた血すじの嫁はいらぬ」と離縁されていたのだ。

翌日の未明、宗太郎は母が自害して果てているのを発見する…。

『団扇太鼓』が葵山の出世作として評価を受けたのは、母が秘密を胸の奥底に抱いて苦悩する様子や、悲劇的結末に至るまでの過程が、地縁血縁の中でしか生きられぬ女の哀れさを描いて読者の胸を打つからであろう。また人生の最も活動的な年齢を迎えるさなかに発病する宗太郎少年の、さまざまな妄想に悩まされ鬱の状態に落ち込んでいく心理状態もよく描かれている。村人から疎外されて孤独に生きる三次の存在も印象的である。

しかし癩病の男に犯されて生まれた子が、その血を受け継いだために同じ病になるという物語の骨格は、現代の私たちから見れば荒唐無稽としか言いようがない。

明治の時代、遺伝するという誤った認識に疑義を挟む者はだれもいなかった。作者自身、癩は遺伝すると固く信じていただろうし、人々もまた癩病=賤しい血の流れという偏見に満ちた図式に何ら不自然さを覚えることはなかっただろう。ノルウェーの医師アルマウエル・ハンセンによって明治4年(1871)にはすでに病菌が発見されていたにもかかわらず、当時の民間レベルでは、癩は遺伝病であるとの思い込みは根深く残り続けた。

「我家にはさる賤き血流(ちすじ)ありとは聞ざりしがと…」「其処より穢れし癩病の血を注ぎ込むよと…」「世の中は畜生よりも厭ふ病の血流(ちすじ)に繋がる嫁はと…」等々、ここにわざわざ抜き書きすることさえ憚られる表現は、癩病への誤った先入観と偏見を助長させる以外のなにものでもない。

もちろん当時の他の作家たちの作品にも迷信や憶測に基づく偏見差別的表現は数多く見られるし、『団扇太鼓』はその一例にしかすぎないが、書物となって広く市販され、その活字が読まれることによって、迷信が迷信でなく、偏見が偏見でなくなり、人々の意識の中に真実そのものとして取り込まれてしまうのだ。

問題の多い『団扇太鼓』の中にも唯一救いになっている部分があることはある。癩病の三次について、著者の眼差しは同情的で貶めていないことだ。

「誰とて母の胎内より悪念を持つはなし、…三次とて生まれながらにあゝした破落戸(ごろつき)に成らうなどとは、夢にも思ふたのでは御座んせぬ、悪しき病の血統に産れし身の不運は、世間の人が厭がりて、所詮交際ては呉れず、お茶一杯一所に飲まふと云う人もなければ、淋しい辛い境涯を、獨で暮らして行く内には、自づと心が邪僻むではなかろうが…あゝした病を憎む世間が悪いのか…云はゞ世の中の一番可哀相な人、真実の情は却てあの様な人にあるもの、口悪く謗る人こそ却て情知らず…」

酷い境遇に突き落とされても身の不運と諦め、心毅然と正直一筋に生きれば、世の人から憎まれることはない、寂しく悲しい時には神仏を信心すれば、変な心は起こらない…これは母が宗太郎に向かって話す言葉で、彼の近い将来への伏線にもなっている。

癩を罹患したがために、やむなく故郷を離れ巡礼行脚の身となった人が全国にどれほどの数であったか、私は不案内である。

『団扇太鼓』が発表された8年後の明治40年には、適切な治療法もないまま「癩予防ニ関スル件」が制定され、これが「らい予防法」へとつながっていく。以後、罹患した人たちが巡礼になることさえままならなかっただろう。そして国家規模の著しい人権侵害に苦しめられる長い時代が到来する。

生田葵山は多くの長短編を創作して終戦時まで生きた人だが、現在では文学史にかろうじて名をとどめているに過ぎない。癩病に対する誤解を省みることがあったか否か知る手掛かりは不明である。

(せきよしお フリーライター)

注『団扇太鼓』は明治文学全集(筑摩書房)第22巻「硯友社文学集」に所収