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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年3月号

ワールドナウ

チェシャホーム・ブランタイヤでの2年間

河野眞

アフリカ南東部の内陸にあるマラウイ共和国へ私が青年海外協力隊として派遣されていたのは2000年7月から2002年7月のことです。

マラウイという国をご存じない方は多いと思います。私自身、自分が派遣されるまで、そんな国がこの世界にあることすら知りませんでした。実際に行ってみると、人口の65.3%が貧困層(2000年)、平均寿命が37.9歳(2002年)という指標が示すとおり、特にこれといった産業もなく、貧しくて医療状況も整っていないけれど、穏やかで呑気な人たちの多い国でした。

私はマラウイで最大の都市ブランタイヤにあるチェシャホームに作業療法士として勤務しました。

チェシャホーム・マラウイは国内に二つの施設を持っていましたが、私の働いていたチェシャホーム・ブランタイヤは発達障害児のための通所施設でした。

利用している子どものうち、60%ほどが脳性マヒなどの中枢性運動障害をもち、30%程度が知的障害をもっていました。いずれの場合も原因はマラリアの後遺症であることが多かったと記憶しています。

利用料が無料だったこともあってか、施設を利用する子どもたちの大半が貧しい家庭に暮らしていました。施設に通う交通費もままならない家庭が多く、そのため、施設で送迎車を出していました。曜日ごとに決められた地域から、施設のワンボックスカー1台に多い時は10組以上もの子どもとそのお母さんたちがすし詰めになって通ってきたものです。

しかし、チェシャホーム・ブランタイヤの経営自体は決して楽ではありませんでした。ガソリンを買うお金がないために送迎車を出せない日が年に何度もありました。また、マラウイの主食であるメイズ(とうもろこしの一種)収穫前の、国中で一番食料が乏しくなる季節には、母親たちが食料を探すのに忙しく、子どもたちは施設へ来られなくなるということも珍しくありませんでした。

チェシャホーム・ブランタイヤは三つの部門からなっていました。一つは訓練部門、もう一つが特殊教育部門、そして最後の一つが職業訓練部門です。

特殊教育部門は、知的障害や身体障害のある子どもたち向けのこういったサービス機関は全国でもここしかないという貴重な機能でした。

職業訓練部門には、洋裁・製パン・木工という三つのコースがありました。私はほとんど毎日のように、製パン部門で作っていたドーナツやサモサをおやつにしていたものです。

私は訓練部門の配属となりました。

主な業務内容は日本のこういった施設の作業療法士と変わりません。子どもの訓練をしながらお母さんの話を聞いたり、座位保持装置や車いすなどの機器の採寸をしたり、CBRやペアレンツ・サポート・グループといった地域での活動を手伝ったりなどです。

ただ、実際の仕事の様子を細かく見ると、日本とは異なる、マラウイのお国柄がよく現れているかもしれません。

たとえば、家事の訓練。マラウイでは薪の探し方や薪割から練習しなくてはなりませんでした。当然、日本の文明社会で安穏と暮らしてきた私だけの手に負えるものではなく、お母さんたちや現地スタッフと協力しながらの指導になります。

また、お母さんの相談ごと。知的障害をもつ、ある女の子のお母さんが言うには、「うちの子は5歳になるのにまだしゃべれない。近所の人が、舌の裏側にある膜みたいな部分をハサミで切ればしゃべれるようになるって言うんだけど、切ってみてもいい?」。このように日本人から見ると、迷信としか思えないようなことを信じている人は多く、子どもの障害の原因を魔女の呪いのせいと考えている人もまだいました。

あるいは、車いす。マラウイには車いすを作れる団体が一つしかありませんでした。そのせいもあってか、注文してから完成するまでに1年もかかるのです。もちろん、1年たてば子どもは成長しますので、その車いすは身体に合いません。そこで、マラウイの車いす注文には特有の工夫が必要になるのです。

2年間の滞在中、途上国で障害者の生活を改善していくことの難しさを感じたことは少なくありません。

たとえば、原因不明の四肢マヒをもつ、ある女の子。彼女は、チェシャホームがCBR活動を行っている、ブランタイヤ郊外の農村の出身でした。

チェシャホームが探したスポンサーのお金で彼女は街中の私立高校で学ぶことができました。全国民の1割程度の人しか義務教育を修了できないマラウイで、彼女はそれだけ運にも恵まれていたし、頭もよかったのです。

しかし高校卒業後、生まれ育った村に戻ると、できる仕事がありません。それどころか、彼女はアメリカの慈善団体から寄付された立派な車いすに乗っていたのですが、農村の道路は石ころだらけの泥道で、自宅の庭から出ることも難しい状態です。

彼女への支援は一体何だったのかと考えさせられました。

一方で、リハビリテーションの有効性・必要性を実感させられることもありました。

ウィリアムは、マラリアが原因で四肢マヒになった15歳の男の子でした。言葉は単語しか出ませんでしたが、私が慣れない現地語で替え歌を歌うとよく笑ったのを覚えています。訓練中に嫌なことがあると、「アズングー(『外人』という意味の現地語。直訳は『白い人』)、アズングー」と泣きながらこぶしを振り上げたものです。

そのウィリアムが、家庭の事情でチェシャホームに通えなくなりました。そして、ほぼ1年間のブランクの後、久しぶりにチェシャホームへやってきた彼は変わり果てた姿になっていました。

父親の話では、この1年間、ほとんど家の片隅で横たわっているだけの暮らしだったとのことでしたが、確かにひどくやせ細り、関節拘縮も進み、辱創すらできていました。それだけでなく、1年ぶりに外に出る彼にとってはあらゆる刺激が不快なのか、ずっと泣き叫び続けています。

リハビリを続けていればと思わずにはいられない痛ましい姿でした。

マラウイから帰国してからも、私は途上国と関わる活動を続けています。あの2年間の重みがその原動力になっているのだと思います。

(こうのまこと 国際医療福祉大学)