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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2005年7月号

報告 災害を体験して

新潟県中越大震災:新潟県知的障害者福祉協会の取り組み

斎藤広子

はじめに

あの時一瞬何が起こったのか分からなかった…。山古志村で遭遇した人は「巨大怪獣の襲撃だと思った」と回想した程、今までに経験したことのない大きな地震でした。多くの地域でライフラインが断たれ、大きな余震も頻発、ほとんどの人はパニック状態でした。そして徐々に明らかになる被害の甚大さに皆茫然となりました。

現地調査

当福祉協会では数日後、被災施設のニーズ把握のため現地調査に入りました。どのような支援がどの程度必要なのかが具体的には図りかねたからでした。余震が続く中、恐怖を感じながら、また道路が寸断(決壊、土砂崩れ、大きな亀裂)しているところが多く、迂回路を探しながらの現地入りになりました。被災地は県内でもグループホームが多い地域なので、最終的に被害の遭った施設は児童・知的障害者更生施設・知的障害者通所授産施設・グループホーム・小規模作業所を合わせると58施設にも及びました。グループホームの中には全壊や半壊になり、今も仮設住宅に住んでいる利用者の方々もいます。

支援活動

調査後はすぐ、会員施設に対し、日常活動が営めない施設への人的支援の派遣と義援金の依頼を行い、多くの施設の協力を得ました。被災施設は自分たちでやりくりしようと努力していましたが、職員の多くが被災し、しかもかなり疲労していて、職員の休養を確保することも必要な状況でした。受け入れ施設での活動は畑や授産作業(納期があるのです!)・壊れ物の片付け・利用者への対応等さまざまでしたが、「被災施設が必要とする仕事を支援する」ことを基本にしました。またグループホームは夜間世話人さんが不在になるため、余震時の対応と利用者の不安軽減のため宿泊職員の派遣も行いました。職員の派遣協力は45施設、延べ364人、受け入れ施設は9施設に及びました。

入所施設では多くの短期入所の受け入れを行ったことは言うまでもありません。

支援の中で見えてきたこと

市町村はかなりの間混乱が続き、細やかな対応はできない状態でした。小さな自治体で安否確認をとるのがせいぜいでした(激震地はそれもできない程でした)。

そんな中で行動障害がある方の場合は、特に大変でした。避難所での集団生活が送りにくい、周囲の理解が得られない、また初めから無理と判断し車中泊をされていた方が何人もおられました。養護学校が障害児の避難所になりよかったのですが、情報がなく利用できなかった方もいましたので、混乱時の情報周知の難しさも感じました。

また、「日頃」の大切さにも気づかされました。グループホームでは近所の方が利用者の避難を助けたり、炊き出しを分けてくださったりと、地域の一住民として暮らしているそのままに避難することができました。また入所施設では、「日頃」の避難訓練により災害の大きさの割には避難時の混乱が少なかったと振り返っています。

養護学校学生・通所作業所の利用者は、早く今までのように通学・通所できるようになりたいと切望(作業所休所、避難所からの通所困難、交通機関のマヒによる通学・通所困難等すぐに利用できなかった原因はさまざまですが)し、日常生活への復帰希望はかなり多くありました。

安否確認・支援ニーズ把握の訪問活動の大切さも多く聞かれました。職員が顔を見せ、直接話しをすることで利用者の方のみならず保護者の方にとっても安心感を与えました。

被災地障害者相談支援センターが果たした役割も大変大きかったです。地域で被災した一人ひとりに声をかけて励まし、また変化するニーズにきめ細かく対応して避難生活を支え続けました。

今回の震災は、個々の施設の災害対応では通常想定できない程の大災害になりました。職員が駆けつけられない・連絡が取れない、非常食はライフラインが断たれた状態では使えなかった等々の問題が多くありました。

当福祉協会では今回の災害の経験を記録に残すため「災害記録集」を発行し、またより俊敏な対応ができるよう体制を検討しました。今後は対応マニュアルも作成する予定です。

おわりに

今回の震災に際し、全国から言葉では言い尽くせないほど、本当にたくさんのあたたかいお見舞いや励ましをいただき、どれだけ勇気づけられたかわかりません。この紙面をお借りし改めて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

(さいとうひろこ 新潟県知的障害者福祉協会事務局長)