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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年2月号

ワールドナウ

パキスタン北部地震緊急支援報告

ムハメッド・シャフィク・ウル・ラフマン(報告者)
奥平真砂子(まとめ)

はじめに

2005年10月8日にパキスタンで大きな地震があり、新聞などの報道では死者は7万人以上だと言われている。生存者の中には、脊髄損傷などの障害を負った人が少なくないという。

その地震の被災者支援に、ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業(以下、ダスキン研修)やJICA障害者リーダーコースの卒業生が積極的にかかわり、大きな成果を上げている。パキスタンでは、障害者がそのような活動をすることは前代未聞だったらしく、各所で注目を集めた。

日本でもそのことを知り、彼らの活動を応援しようと障害者たちが立ち上がった。DPI日本会議や全国自立生活センター協議会(以下、JIL)が中心となり、取り急ぎ寄付金を集め彼らの団体に送ることになった。現地では日本からの支援を受けて、地震直後の緊急支援から障害者になった人たちのサポートを考える中期・長期支援へと移行して活動が継続されている。

その支援報告と今後の計画を話し合うために、中心的に活動しているシャフィクが昨年の12月6日から13日にかけて来日し、東京・名古屋・大阪の3か所で報告会を開いた。

ここで、東京で行われた報告会の内容をもとに、障害当事者によるパキスタン北部地震の被災者支援活動について述べる。

シャフィクの報告

今回の地震は10月8日の朝8時という時間帯に起きたため、家にいた女性、また学校にいた児童・生徒の多くが犠牲になった。

地震の起きた日の午後2時に、マイルストーンに被災地の団体から電話が入り、「300人以上の人が亡くなり、水や薬が必要である」と助けを求めてきた。マイルストーンのメンバーで周辺を手分けして歩き、必要な物資を集めた結果、3,500人分の薬、布団、食料、衣服などが集まったので、必要なものを選別してイスラマバードへ向かう準備をした。

イスラマバードの障害者団体と協力し合い支援体制を確立した。すでに大きい街には、メディアが入り、赤十字や世界中から支援団体が駆けつけていたので、支援・援助の届きにくい山奥の小さな街や村に入ることにしたが、地震の2日後に雨が降り、さらに苛酷な状況になっていた。余震が続き、二次災害が起きてもおかしくない状態で、道中何度も山の上から落石があり、危険を冒しての救助となった。救援物資は全員に支給することは不可能だったので、家にいて支援の届かない、女性や子どもを中心に配ることにした。

支援に赴いた地域は一昨年、大雪の被害を受けたところで、多くの障害者が避難できずに、取り残され凍死したところである。現地に入ったときはすでに、寒さが厳しくなっていた。宗教観、文化的背景から男性は女性に直接触れたり、話しかけたりできないので、女性に直接物資を手渡すことができなかった。支援部隊は男性だけだったので、女性には物資を投げて渡した。物資を届けに入った山奥の街はりんご園を営み、出稼ぎに行き外貨収入のある比較的豊かな都市であったが、一瞬にしてすべてを失ってしまい、我々が入った時にはテントも届いていないような状況だった。多くの人が生き埋めになり、救助を待ちきれずに住民は穴を掘り、紐などを使い自力で救助活動を行っていた。1番被害の大きいバラコットという風光明媚な観光地では、人口30万人の8割である24万人が命を落とし、残りの1割の3万人が障害者となり、ひとつの街がつぶれてしまったという感じであった。川の両斜面が崩れ、川までもが消えてしまった。

パキスタンの家は石造りであるため、下敷きになり、多くが圧死し、頭に外傷を受け障害になる者も多くいた。一瞬にして親を失くした子どもたちの中にはショックで口がきけなくなったり、行き場所がなく途方に暮れたりする者もいた。とにかく、テントを張り滞在して、ニーズを探ることにした。不思議なことに女性の姿、特に、障害者となった女性たちの姿を全く見かけなかったので、家を訪ね歩いた。街中、突然、脊髄損傷になり、どうしていいかわからない人々で溢れかえっていた。多くの人はトイレに行くのに不便を感じて、トイレに行くのが嫌になり、水を口にしなくなった。我々は、「腎臓を悪くするから水を飲むように」と、アドバイスして歩いた。

そして、Mobile Independent Living Center(移動自立生活センター)を立ち上げ、データ収集に努めた。イスラマバードに70人、ラホールに25人、障害者になった人を連れて来た。現在、ラホールのマイルストーンから2人(女性)のピアカウンセラーがイスラマバードに手伝いに行っているが、まだ、カテーテルの使い方などの方法を教えてくれる女性が足りない状態である。

今回の地震では上肢、下肢などの切断を余儀なくされた人、頭への外傷から障害を負った人、そして下敷きになり、脊髄損傷を負った人が特に多く見られた。ただ、外に出て来られた人たちは障害を負ったとしても幸せなほうで、ほとんどの人は下敷きになって命を落としてしまった。中には、まだ家から出て来られない状況にある障害者も大勢いる。障害者となった多くの人々は、地震前に障害者がどのように扱われていたかを思い出し、希望を失くし、死んだほうがよいと思っている。だからこそ、車いすで十分生活していけること、たとえば、トイレの行き方、シャワーの使い方などを、今回新たに障害者となった人々に教えてあげたい。

パキスタン政府は海外から多額の支援を受けたが、それが障害者に使われることはなかった。政府は、時間が経てば脊髄損傷は治ると信じている。そして、施設を造るなど古いタイプの支援を考えている。そうではなく、自立生活運動について知らせ、「人生は楽しい」ということを教えてあげたいと考えている。

これから必要なことは、障害者のロールモデルを見せること。地震で突然、障害者になった人たちは、自分の身体が今までと違うことに気づき、自分の身体をどのように管理したらよいかが分からないので、情報やエアーマットと車いすなど必要な機器の提供と、重度障害者になった人には介助者を派遣することなどが必要である。

おわりに

シャフィクが報告会の中で述べているように、今は脊髄損傷の女性障害者の支援が大きな問題となっている。大阪滞在中に、事故で脊髄損傷になった人と話す時間を持ったが、傷のケアや導尿のことなどを具体的に聞き、彼女から得た情報を熱心にノートに書き取っていた。そして、彼はパキスタン帰国後の次の日にはイスラマバードに移動し、それら日本で得た情報を地震の被災者に伝えたと言う。

長期支援計画として、これからは適切なリハビリや当事者によるエンパワメントを継続的に行っていかなければならないだろう。そのため、JILなどではピアカウンセラーを派遣することも考えていると聞く。今回のことが、災害支援における障害者支援に一石を投じることになればよいと思う。

(シャフィク・マイルストーンプロジェクトマネジャー、おくひらまさこ・本協会研修課)