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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2008年2月号

障害を理解するとはどういうことか

倉本智明

1 障害を理解してくれる人??

障害をもつ年少の友人たちと恋愛や結婚について話しているとき、よく耳にすることばがある。「障害を理解してくれる人をみつけなくちゃね」というのがそれだ。聞くたびに、ちがうだろ!、と言いたくなってしまう。親しい間柄にある人物だと実際に、「そんなこと言ってるから、いつまで経っても彼女ができないんだよ」とツッコミを入れたりもする。

彼らとしては、こう言いたいんだろう。障害は日々の暮らしに、そして人生に深く関わってくるものだ。その理解はふたりの関係を良好に維持するのに不可欠である。けれど、残念ながら、すべての人が障害についてよく分かっていたり、理解しようという姿勢をもっているわけではない。ぜひとも、分かってくれるパートナーと出会いたいものだ……。

気持ちは分からなくはない。不安もあるのだろう。が、ここにはふたつの勘違いがある。

ひとつは、あらかじめ「理解している人」や「理解しようとしている人」がいるかのように錯覚している点だ。たいていの場合、ことは逆で、関係が進展する中でこそ、何か分かったり、分かろうという気が起こったりするのではないか。

もうひとつは、理解されるべきは果たして障害なのかという点である。理解が必要なのは、障害などという「部分」ではなく、あなたという「全体」なのではないか。

そもそも、プライベートな関係の中で現前する障害は、具体的な関係と場所の中に置かれることで、障害以外のものとの境界線をあいまいにしている。切り出すことなど不可能な状態にあるのだ。特定できない対象について理解することなど、最初からできっこない相談なのである。

2 不思議なことば

「障害の理解」というのは不思議なことばだ。上のような文脈で使われることがあるかと思えば、制度的な差別を問題にする場面でも用いられる。指示される内容もひとつではない。

あらためて周辺領域を見渡してみると、「障害の理解」に相当することばというのは意外と見当たらないものだ。たとえば、先住民族・少数民族としてのアイヌの人々について語るとき、「アイヌの理解」という言い方をするだろうか。ジェンダーに関わる問題を考える際に、「女性の理解」というような表現をすることがあるだろうか。「アイヌ問題の理解」とか「性差別についての理解」といった言い方はあっても、「アイヌの理解」「女性の理解」なんてことばが使われることはないように思う。

それは故あってのことだ。社会問題の解決に向けての取り組みの中で用いられるとき、「理解」という語には辞書的な意味を超えた特別な意味が付加されている。ただ、分かる、察するというだけでなく、その結果生じる意識の変化や行動変容、さらには社会の変化そのものをもそこに含んでいるのだ。「性差別についての理解が拡がる」とは、性差別というものがあることやその実態について単に知る人が増えるということではない。それを放置すべきものでないと考え、是正に向けての取り組みがなされることをも意味するのである。

だから、目的語としてくることばは、解決されるべき課題を指し示すものでなくてはならない。「アイヌの理解」「女性の理解」では意味をなさないのだ。これだとまるで、和人がアイヌを、男性が女性のことをもっとよく知り受け入れれば問題は解決するかのように誤解されてしまいかねない。不公正な取り扱いを常態化する社会制度を問い、同時に、その維持に加担してしまっている私たち自身をも問うという、本来の問題意識を表現することばとしては明らかに不適当である。

だとすると、「障害の理解」という言い方はどうなのだろう。やはり不適当であり、より適切なことばに置き換えた方がいいのだろうか。答えはイエスでもありノーでもある。置き換えた方がすっきりするかもしれないが、そのままでも間違ってはいないのである。なぜそのようなややこしい答えとなるのか。

3 ふたつの用法

先に述べたとおり、「障害の理解」という語はさまざまな文脈のもとに、さまざまな意味で使用されている。「障害の理解」ということばが複数の意味でもって用いられる背景には、障害という語そのものがもつ多義性と、それらが指し示す問題解決のプログラムの多様性がある。

大まかに分けると、ふたつの見方に類別することができる。ひとつは障害を個人の上に起こった不幸な出来事とみなし、その克服をサポートするという立場であり、「障害の理解」もそのための手段として位置づけられる。「理解」の対象は、主に個別のアクティビティとなる。

いまひとつは、障害を特定の身体的特徴をもった者の上に集中する不利益とみなし、そのような不利益をもたらす社会制度や文化の組み替えを目指すという立場だ。そこでは、障害者が経験する現実を、個人的なものとしてではなく社会的な視野から読み解くことが求められるとともに、自分自身もまたそのようにして一部の人たちに不利益を押しつけるような不公正な社会を構成しているひとりであることへの自覚が促される。

障害をどのようなものと捉えるべきかは、扱われる主題・目標設定によって異なってくるものかもしれない。けれど、「障害の理解」を社会問題の解決手段、あるいはその進展具合を確認するための指標とみなすならば、前者のような立場に合理性を見出すのは難しいように思われる。

それはいわば、「アイヌ問題の理解」を「アイヌの理解」に、「性差別の理解」を「女性の理解」にすりかえるようなものである。理解しなければならないのは、問題を生起せしめる原因であり、社会の構造なのだ。問題の根幹を見誤ったのでは、解決への扉はいつまで経っても開かれないことになる。

「障害の理解」というときの「障害」は、社会的不利益とそれをもたらす障壁を意味するものとして把握される必要がある。障害ということばにはそのような意味も含まれている。障害学(ディスアビリティスタディーズ)では、むしろ、この意味で用いられる方が主流である。

「障害の理解」とは、つまりは社会的不利益の所在を理解することであり、社会的障壁の理解なのである。そのように考えてはじめて、この語は、「アイヌ問題の理解」や「性差別についての理解」といったことば同様、本来の目的にかなったものとなるのだ。

4 軽度障害への理解

では、そのような意味での障害の理解はすすんだのだろうか。どの分野をとり、何を指標とし、どのようなスパンで比較するかによっても答えは違ってくるだろうし、障害の種類や性別、エスニシティなどの障害者本人の属性による差も小さくないにちがいない。それらの一部については、本特集に寄せられた論考の中で、具体的な回答が示されているので参考にしてほしい。

ここではふたつの点についてのみ指摘しておく。まずひとつは、いわゆる重度の障害者にくらべ、軽度障害者への理解の立ち遅れが相変わらず目立つ点だ。近年になって、当事者による発言は多少活発になってきたものの、社会的な認識はまだまだである。

軽度障害者が置き去りにされがちであることの理由のひとつに、経験される障壁の高さや不利益の大きさと、医学的な基準に基づく障害程度理解とが照応すると考える、旧来の障害認識の影響を挙げることができる。そうした単純な理解が破棄されて久しい現在にあっても、軽度障害者が経験する不利益は重度の人より小さいとの見方は、一般の人たちから専門家、行政に至るまで、いまだかなりの程度共有されている。

皮肉なことに、こうした状況が生み出される過程で、障害の理解を促進することを目指して取り組まれたはずの活動のある部分が否定的な役割を果たしてしまったという事実も指摘しておきたい。「重度の障害者にとって使いやすい○○は、すべての障害者(人々)にとって使いやすいものでもある」といった、あてはまらない事例が多数ある命題を、あたかも常に真であるかのように語り続けた人たちの存在などはその典型だろう。

軽度障害者と重度障害者の間にあるのは、一見したところ量的な違いだけであるかのように見える。だが、量的な隔たりは質の差を帰結することもあるわけで、両者の前には共通のものとともに、異なる障壁がたちはだかってもいるのだ。そこから独自なニーズも生まれてくる。現実を十分に把握するための努力と枠組み、技術を持たぬまますすめられる障害理解への取り組みは、ゆがんだ障害像、架空の見取図を人々に提供する結果となってしまったのである。

5 コミュニケーションを阻むもの

ふたつめは、私的なコミュニケーションをめぐる問題についてである。冒頭において、私は恋愛や結婚に関わって、障害の理解を言うことへの懐疑について記した。それは恋人間や夫婦間についてだけでなく、友人や家族などプライベートな関係一般にも言えることだと思う。

人が人と出会い、関係を築いていく過程には、数限りない分かりあえなさとの格闘が控えている。そのひとつひとつを乗り越えたり、やりすごしたりすることにより関係は深められていく。そこはすべてがオーダーメイドの世界なのだ。障害のあるなしにかかわらず、時に傷つけ、傷つけられながら、手探りでつながりを確かめ合うしかないのである。

ところが、障害の理解を促進する取り組みの一貫としてすすめられてきた福祉教育や啓発活動の一部には、そうした人間関係のダイナミズムと複雑さ、他者理解の難しさに想像力を働かせることなく、プライベートな関係にまで障害の理解という概念を機械的に持ち込もうとする傾向が認められる。障害とは…、障害者に接する際には…、といったこわばった知識の眼鏡をとおして視線をよこしてくる人たちほどつきあいにくいものはない。おまけに、その知識が間違っていたり、適応範囲を見誤っていたりすることが多いから余計にやっかいである。

あまりに偏見が強かったり誤解がまん延しているような障害や場所に関しては、あらかじめなにがしかを知っておくことにも、一定の意味があるとは思う。ただし、それとて限定的な効果が期待できるだけだ。入口に立ちはだかる障壁が多少低くなるだけであって、そこから先にまでポジティブな効果が及ぶわけではないだろう。

再度記しておくが、本節で述べてきたことはあくまでプライベートな関係についての話である。駅員やウエイターや銀行員といった不特定多数を相手にする仕事に従事している人たちには、障害を理解するための学習がある程度有効に機能するものと思われる。彼らとのつきあいはあくまで特定の目的を遂行するためのものであり、友人や恋人とのように分かり合おうとすることは要求されない。必要最小限のコミュニケーションがとれれば問題なしなのである。人と人とが分かり合うための手段としては不適当と思える取り組みも、こういった場面では関係の円滑化に寄与するものと予想される。彼らが知識をもつことで、鉄道やレストランを利用する際の障壁が低くなるなら喜ばしいことである。

(くらもとともあき 東京大学特任講師、本誌編集同人)