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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年8月号

発達障害:青年期の「生きにくさ」に寄り添う支援
―「人権」の視点から考える―

石渡和実

1 特集の主旨

2005年4月から発達障害者支援法が施行され、2007年度からスタートした特別支援教育では知的障害のない発達障害児が新たな対象となり、通常学級での支援のあり方などについてさまざまな論議が重ねられている。これまで「障害」と認識されていなかったがために、社会生活上の困難や対人関係でのトラブルなどが、親の育て方や本人の問題・責任と理解されてきたことが多い。

そうした体験が青年期のさまざまな課題と重なり、いじめの対象となったり、不登校・ひきこもりなどにもつながると指摘されている。「困った子」と問題児扱いされ、集団から排斥され続け、「生きにくさ」を感じ、自己否定せざるをえない状況に追い詰められてしまう。障害特性を的確に理解し、その「生きにくさ」に寄り添って、本人の社会参加、自分らしい生き方の実現をどのように支援すべきであろうか。

この特集では、医療・教育・司法・家族の立場など、それぞれの分野で経験豊富な方々から、体験に基づく、説得力にあふれた、意義深い論文を寄稿していただいた。これらの貴重な内容を踏まえて、本論文では福祉の立場から、「人権」を柱に論じてみたい。

2 青年期の発達障害の特徴

2008年3月19日の朝日新聞に、「生きづらさ なぜなのか」という見出しで、「発達障害とともに」という記事が紹介された。「人の気持ちや場の空気がわからない、人とうまくかかわれない…。ずっと抱えてきた生きづらさ」。アスペルガー症候群と診断され、「理由がわかった気がして、ほっとした」という26歳の青年の言葉が載っている1)

2006年8月、『困った子は困っている子』(大和久勝編著)という本が出版され、教育関係者に少なからぬ衝撃を与えた。学級崩壊の原因とされ、いじめられ、不登校となって、「困った子」と問題児扱いされている発達障害児。しかし、その子自身が、だれよりも辛い思いを体験し、生きにくさを感じて、「困っている子」となってしまっているのである2)。教育では、「困り感」といった言葉も頻繁に用いられるようになり、「子ども観の転換」と、その困り感に「寄り添う教育」の重要性が指摘されている。

金子論文では、心理学者エリクソンの青年期の発達課題、「アイデンティティー(自我同一性)の確立」が強調されている。青年期は自分という人間を見詰め、自分の生き方を見出して、社会人として歩み始める時である。具体的には、仕事に就く、結婚する、家庭を持つなど、その後の人生を左右する大きな選択を求められる。

発達障害をもつ青年の多くは、まず、仕事に就くところで大きなつまずきを体験する。学校時代以上に厳しさが求められる中で、「わがまま」「空気が読めない」などと誤解され、次々と転職を繰り返す。その結果、どこにも居場所が見出せず、NEET(ニート)や「ひきこもり」となってしまうことも多い。理解者が得られず、孤立して、大石論文に紹介されているような、取り返しのつかない罪を犯してしまうことすらある。

こうした厳しい状況、「生きにくさ」を抱えている青年の背景に、発達障害があることが注目され始めたのは、まだごく最近のことである。発達障害に対して的確な支援がなされていれば、これほどまでに厳しい状況に陥ることはなかったということは、各論者が指摘するとおりである。

3 「生きにくさ」に寄り添う支援とエンパワメント

「困った子」を「困っている子」としてみる「子ども観の転換」を指摘した大和久は、その子の短所も長所も含めて丸ごと受け止める「共感」が「転換のカギ」である、と強調する。幼小期からさまざまなつまずきを体験し、「どうせ僕はダメなんだ」と自己否定している子どもを、「ありのままの君でいいんだよ」と受容し、一緒に歩み出していくことである。その子の興味・関心に注目し、できることを褒め、チャレンジする気持ちを奮い立たせ、成功感を味わわせることが重要である。こうして自信を付け、次のステップへ向かわせる目標や希望を持たせ、新たな挑戦へと向かう姿勢を持ち続けることが求められる。

これは、福祉分野で言うエンパワメント(empowerment)である。「できないことをできるようにする」ことを強調したのが、従来のリハビリテーションであった。今は、本人の長所や強さ(strength)に着目し、それを伸ばすことが自信を付け、苦手なものにも挑戦し、発揮されていなかった力を引き出すことにつながっていくという立場に立つ。

田中論文で、息子さんが自閉症と告知された時の医師の言葉が印象的である。自閉症の課題を指摘した後、「しかし、正しいことを身につければ忘れず怠けずきちんとやります。それはご本人の大きな財産になりますよ」と、前向きな助言をしてくれている。このスタートがあったからこそ今の田中氏の活躍があるのだ、と納得させられたエピソードであり、胸にストンと落ちる言葉でもある。

4 ICFと人権

こうした「生きにくさに寄り添う支援」、エンパワメントの視点で支援を行うためには、環境・社会のあり方を変え、周囲の人の関わり方を変えることが求められる。これは、障害の克服を個人の努力に求めるのではなく、社会との相互作用で障害が生ずるとみなすICF(国際生活機能分類)の考え方とも重なる。

知的障害者の支援で大きな貢献を続けている岡田喜篤(川崎医療福祉大学学長)は、社会モデルとしてのICFについて、次のように述べている。「社会モデルとは『障害は個人の問題ではない』と考える立場である。障害者が不自由な生活を余儀なくされ、あるいは参加を阻まれるとすれば、それは社会環境によってもたらされると考える。したがって、環境を変え、支援を充実することが重要視され、その場合の課題は、社会変化を求める態度や思想の形成であり、究極的な目標は人権尊重である」3)。大石論文で、「生きにくさに寄り添う支援が保障されることは、最も重要な人権の一つである」と主張しているのは、まさにこの視点である。こうした支援が、長い人生を通して、確実に保障されることが求められる。

「人権」が問い直されていた頃、上智大学法学部教授であったホセ・ヨンパルトは、「人権とは、人間であるというだけでもっている権利」であると言いきっている。その人権を一つの言葉だけで表現すれば、「人間の尊厳(human dignity)」であり、これは「個人の尊重」に行きつくとの見解を示している。そして、1948年3月の最高裁判決、「一人の生命は全地球よりも重い」という言葉を引用している4)。このような視点から、「人権意識」とは、「人間は、一人ひとりがかけがえのない存在である」といった認識を持つことだ、と理解をすることができよう。

子どもの人権問題に関わっている弁護士が、子どもに「人権意識」とは何かを伝える時、「自分を好きであること」「自分を大切に思うこと」と説明すると聞いたことがある。こう考えると、発達障害児の自己否定は、「人権意識が持てない」ということにもなる。そして、青年期の生きにくさには、石井論文に示される感覚特性なども大きく影響していると考えられる。感覚体験とはまさに本人でなければわかりきれないものであり、こうした特性を家族や支援者が的確に理解し、本人の思いに共感し、周囲の人に伝えていくことも重要な支援となっていくであろう。

発達障害をもつ人を「丸ごと受け止める」ために、その障害特性を的確に理解することが必要である。市川論文では、発達障害についての最新の医学情報が分かりやすく整理されている。このような体系的な知識を踏まえておくことが、支援の前提として必要である。市川論文では虐待にも触れており、発達障害児が親などから虐待を受けやすいことは、学校や職場でいじめに遭いやすいことと合わせ、大きな人権問題である。

発達障害への社会的な関心が高まったのは、残念ながら、社会を震憾させた「事件」との関係も大きい。特に、自分を認めてもらえず、社会に対して漠然とした「恨み」を抱いた青年による無差別殺人などが大きな話題となった。また、思春期の少年による「親殺し」などの事件で、アスペルガーという言葉が広まってしまった感も否めない。進学や就職なども絡み、家族との葛藤が高まる中で身近な人が攻撃の対象となる、逆に行きずりの人を襲うといった事件にもつながった。発達障害をもつ青少年の葛藤、生きにくさがいかに大きかったかを象徴する出来事でもある。こうした厳しい事態を招かないためにも、常日頃の「寄り添う支援」、本人の辛さ・厳しさへの共感と適切な対応とが求められるのである。

虐待も犯罪も人権に関わる大きな問題である。そして、人権という言葉は、こうした深刻な状況と結びついて取り上げられることが一般的である。しかし、筆者が主張したいのは、「だれもがかけがえのない存在」であり、「自分を好き」になって、生き生きと毎日が送れるための支援という、むしろ、ありきたりな日常への「人権」の視点である。日々の積み重ねの中で、発達障害児・者が体験してきたことが「生きにくさ」につながってしまい、本人を追い詰め、厳しい状況が「日常」になってしまうことが、発達障害児・者の場合、あまりにも多いからである。

5 ライフ・サイクルをつなぐ支援

発達障害児・者のこうした閉塞状況を打ち破るためには、毎日の暮らしの中でのちょっとした気づかい、当たり前の、自分らしい暮らしの積み重ねが重要である。こうした関わりが、エンパワメントや「寄り添う支援」の本質だと考える。

そして、具体的な生きにくさの内容、その適切な支援は、本人の年齢や社会的な立場などによって変わってくる。市川や金子も指摘しているように、ライフ・サイクルに応じて、かつ一本筋の通った「ぶれない」支援が求められる。こうした支援が、医療・教育・福祉・就労・司法など多彩な専門家だけでなく、地域の人々も含めてネットワークが築かれることが重要である。

いわゆる「親亡き後」も考えて、田中論文にあるサポートブックのような、本人の成長の経過を情報として確実に伝えていくツールが必要となる。筆者は最近、神戸の親の会による「きずなノート」作成に関わる機会があった5)。このノートは、障害がある人が「地域で、自分らしく生きる」を貫くために、地域との「きずな」を基盤として、支援をつなぐために必要な情報を簡潔に網羅している。親だけが担うのではなく、地域で支えるという視点で一貫している。

どの論者も指摘しているように、これからは地域での支援のあり方を考えなければならない。それは、「障害」のみならず、支援を必要とするあらゆる人について、である。これが、「だれもがかけがえのない存在」だという人権意識の原点であり、障害者権利条約の理念であるインクルージョン、「多様性の尊重」でもある。

(いしわたかずみ 東洋英和女学院大学教授・本誌編集委員)


【引用文献】

1)「発達障害とともに 上 生きづらさ なぜなのか」、朝日新聞(2008年3月19日)

2)大和久勝編著:『困った子は困っている子』、かもがわ出版、2006年8月

3)岡田喜篤:「知的障害のリハビリテーション」『リハビリテーション』、全国社会福祉協議会、2002年5月

4)ホセ・ヨンパルト:「人権と正義―人間らしく生きるための哲学的考察―」『社会福祉研究』第70号、鉄道弘済会、1997年10月

5)神戸あゆみの会『きずなノート』、神戸新聞社、2010年7月