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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年2月号

文学にみる障害者像

エドガー・アラン・ポー
『タール博士とフェザー教授の療法』

高橋正雄

エドガー・アラン・ポー(1809~1849)が1845年に発表した『タール博士とフェザー教授の療法』1)は、19世紀におけるフランス南部の精神科病院を舞台にした物語である。

この物語の主人公は、たまたま旅行中に、ある知り合いの紹介でフランスの片田舎にある私立の精神科病院を見学することになるのだが、その病院は雑草の茂った間道に入り、陰気な森を二マイルも行った先にあって、「いかにも荒れ果てた、風変りな館で、古びて手入れも行き届かぬため、人の住めそうもない家という感じさえした」。

院長は「風采も容貌も堂々とした昔風な紳士で、洗練された物腰に、重々しく印象的な威厳と権威をかねそなえていた」。また、主人公が案内されたのは整然として塵一つない客間で、そこには洗練された趣味を示す多くの書物や花瓶、楽器などが置かれていた。

主人公は、この病院では「鎮静療法」を採用しているという噂を聞いていたが、それは、「処罰は一切避け、監禁もほとんど用いない―患者には蔭からの監視は加えるが、一応の自由は大幅にあたえて、常人の普通の服装で室内も構内も勝手に歩き廻らせておく」という治療法だった。

このように書くと、それは現代における精神科病院での対応を一部先取りしたような印象を受ける治療法であるが、意外にもこの先進的な治療法に対する院長の見解は否定的なものだった。院長は「鎮静療法の危険は、つねに恐るべきもので、その長所が過大評価されていた」として、この治療法の内容を次のように説明する。「鎮静療法というのは、一般的には、患者をあやして―ご機嫌をとってやる方法なのです。狂人の頭に浮ぶいかなる空想にも、反論を加えない。それ所か、大目に見て、しかも奨励してやるのです」、「たとえば、自分をひよこと思いこんだ患者がいる。これに対する療法は、患者の幻想を飽くまで事実として強調する―患者がこれを事実として十分認めない愚かさを非難して、丸一週間ひよこにふさわしい食糧以外は一切あたえないのです」。

こうした説明に対して、主人公がそれでは患者の言いなりになるだけなのかと問いかけると、院長は反論して、「簡単な娯楽、たとえば音楽、ダンス、体操一般、トランプ、ある種の書物など、大いに有効でした」と、今日でいえば作業療法やレクリエーション療法などの有効性を指摘しながら、次のような説明を付け加えた。「我々は各人を、何か平凡な病気の治療をしてやるんだという風を装って、『狂気』という言葉は、一切禁句にしました。とくに力を入れたのは、患者にそれぞれ他の患者全部の行動を見張らせるという点です。狂人の頭、いや無分別を信頼して見せること、これこそ彼らの心身を支配する道なのです」。

院長はこのように鎮静療法なるものを説明した上で、現在ではフランスのあらゆる病院でこの治療法は破棄されていると述べて、それまでフランス全土で鎮静療法が行われていると信じていた主人公を驚かすのである。

もっとも、この後、実は院長自身が発狂していて、他の入院患者を煽動して病院職員を閉じ込めていたということが判明するため、こうした院長の説明をどこまで信じていいのかという疑問は残る。また、この作品だけでは、ポーという作家が当時の精神科病院での治療をどの程度理解し、どう評価していたかについても不分明である。

特に、すでに発狂していた院長の言葉とは言え、「狂人が、完璧に正気のごとく見せかける時、これこそ正に彼に狭窄衣を着せるべき時です」、「分別のある人間なら、狂人が特別おとなしいという点から、何か忌まわしい計画がもくろまれつつあると、当然勘づいたはずでしょう」といった表現があるところを見ると、ポーもまた、いささか非現実的で空想的な精神障害観の持ち主だったのではないかと思えてくるが、しかし、この作品が発表されたのが、フランス革命の最中にピネルが精神障害者を鎖から解放してからおよそ半世紀後であることを思うと、この時代に一般の小説レベルでも精神障害者に対する開放的な処遇がテーマとして取り上げられていたという事実は興味深い。それはおそらく、ピネルによって始められた新しい治療法がフランスの片田舎の精神科病院にも普及していたことや、その治療法の効果や限界に対する一般社会の関心の高さを示すもので、とりわけ「鎮静療法」の結末が戯画的かつ否定的に描かれているところをみると、当時の先進医療たるピネルの開放的な処遇にも、さまざまな誤解や批判があったのではないかと推測される。

なお、この作品には、主人公が職員を装った患者たちと会食する場面も描かれているが、その時の様子は、「彼らの服装は華美にすぎ、昔の古い宮廷風の物々しい装飾が目立ちすぎた」、「現在のパリの基準からして、どうにも良い趣味とは申し兼ねる服装の人々もあった」、「つまる所、食堂に集った連中みんなの服装には、どこか妙な所があった」など、患者の服装センスの不自然さが強調されている。

このあたりの描写は、ポーが実際に当時の精神障害者を観察していたのではないかと思わせる具体性を帯びているが、もう一つこの場面で注目されるのは、これらの患者たちが語る精神障害者の姿である。すなわち、ここで話題になるのは、自分が茶瓶になったと思いこんだ患者、驢馬だと思いこんだ患者、蛙だと思いこんだ患者、独楽だと思いこんで片足で何時間も回り続けていた患者、自分がコルドバ・チーズだと言い張って仲間にふくらはぎの所を一切れやってみないかと勧めた患者など、ほとんどが変身妄想とでも呼ぶべき症状の持ち主である。

ポーは、今日の精神障害者に一般的な幻聴や被害妄想、うつ状態などの症状は描いておらず、狂気とは自分自身を誤って認知することだと考えていたようであり、ここにもポーの精神障害観の一端を垣間見ることができる。

いずれにせよ、『タール博士とフェザー教授の療法』は、『アッシャー館の崩壊』2)とともに、精神障害というものに対するポーの強い関心をうかがわせる作品なのであるが、この作品は、精神科病院における治療者と患者の立場の逆転を描き、治療する者とされる者を相対化する視点を含んでいるという点において、チェーホフの『六号室』3)や武田泰淳の『富士』4)の先駆をなす作品である。

また、同じ19世紀の精神科病院を描いた作品としては、チェーホフの『六号室』のほかにも、ゴーゴリの『狂人日記』5)やガルシンの『赤い花』などが有名であるが、これらロシアの精神科病院を描いた作品では医療関係者による暴力的な処遇が描かれているのに比べれば、フランスの精神科病院を舞台にしたポーの作品では遙かに人道的な処遇が描かれているわけで、このあたりには当時の両国の精神医療状況が反映しているのかもしれない。

そういえば、この作品同様、19世紀の南フランスの精神科病院に入院していたゴッホの手紙を見ても6)、病院職員による暴力的な対応は記されていない。ゴッホは、サン・レミの精神科病院に入院中も画家としてかなりの行動の自由を得ていたようであり、そんな開放的な処遇の中から『糸杉』や『星月夜』などの傑作も生まれたのであるが、そうした当時のフランスの実情に配慮してか、ポーのこの作品も最後は、「病院では、重大な変更を加えつつも、再び「鎮静療法」を採用して、現在に至っている」という終わり方をしている。

ちなみに、この作品の『タール博士とフェザー教授の療法』という奇妙な題は、病院の職員を襲った患者たちが、彼らにたっぷりとタールを塗り、鳥の羽根(フェザー)をつけて監禁したことから命名された題であるが、この作品を書いてから4年後の1849年、アルコール依存症に陥っていたポーは、ボルティモアの酒場で泥酔状態になっているところを発見され、その4日後に亡くなっている。ポーもまた、彼を崇拝していた芥川同様、自ら病める人間であるがゆえに、精神障害や精神科病院に関心の高かった人物の一人のようである。

(たかはしまさお 筑波大学人間系)


【参考文献】

1)エドガー・アラン・ポー(佐伯彰一訳):『タール博士とフェザー教授の療法』、『ポオ全集第2巻』、東京創元社、1969年

2)高橋正雄:「ポーの『アッシャー館の崩壊』」、総合リハ39(8)、814、2011年

3)高橋正雄:「チェーホフの『六号室』」、医事新報3596号、61―64頁、1993年

4)高橋正雄:武田泰淳の『富士』、医事新報4257号、58―62頁、2005年

5)高橋正雄:ゴーゴリの『狂人日記』、ノーマライゼーション30(8)、50―52頁、2010年

6)高橋正雄:ゴッホの入院体験、病跡誌45号、20―32頁、1993年