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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年3月号

1000字提言

自立生活とほどよい見通しのある生活

渡邉琢

最近、とある事情で、いくつかの保育園を見学する機会があった。保育園といってもけっこうばらつきがあり、全員に同じ時間、同じカリキュラムをこなさせる一斉型保育から、個々人の生活リズムや発達、主体性に応じてクラスの流れをつくることを重視する保育まで、さまざまだ。自分として、勉強になったのは、やはり後者のタイプの保育。「子どもの主体としての心を育てる保育」と言われているそうだ。

そういう保育が行われている保育園では、子どもが安心して過ごしている。安心して遊んでいる。保育士が大声を出して全体を動かそうとしたり、子どもが泣きわめいたりしていない。静かな雰囲気だけど、それでいて子どもたちの楽しそうな様子は伝わってくる。

発達の度合いももちろん個々様々だし、起床時間や登園時間もそこそこばらつきがあるわけだけど、そうした発達や生活リズムに応じて、保育士一人ひとりが丁寧に関われるよう、たとえばお昼ご飯の順番が設定されている。そうした流れが、一人ひとりの状況にあわせて丁寧につくられているから、子どもたちは「見通し」をもって保育園で過ごしているようだった。見通しがあるから、安心してのびのび自分のやりたいことをできている、という様子だった。

こうした自分にとってのほどよい見通しというものが、安心感があり自分のやりたいことのできる日常生活には不可欠なんだろう。逆にそうした見通しがもちにくい状態が続けば、当然生活は不安定になる、自分の心身の調子も崩しやすくなるだろう(この辺は、けっこう熊谷晋一朗さんが、「予測誤差」「痛み」などの言葉を使って説明している状況と同じことを述べているのだと思う)。

そして、言うまでもなく、障害のある人の「自立生活」というのも、そうした自分にとってのほどよい見通しのある生活になっているのかどうか、ということがとても大事な要素だろう。たとえば介助者がころころ入れ替わる状態だったり、次に来る介助者が安心できる人かどうか分からない状態だったりしたら、あるいは交通機関やお店が安心してアクセスできるかどうか分からなければ、生活はどんどん縮こまっていってしまう。いつもびくびくして、生活の彩りも薄れていくだろう。

「自立生活」というと、しばしば自己決定とか自己管理能力といった点に目が向きやすい。けれども、個々人が自分の状態にあった見通しをもてるようなサポートを利用できているかどうか、そして、社会全体が、障害のある人にとって見通しをもって暮らしやすい社会になっているかどうか、そういった側面にも目を向けていく必要があるだろう。


【プロフィール】わたなべたく。京都在住。日本自立生活センター(JCIL)事務局員、介助コーディネーター。ピープルファースト京都、支援者。著書『介助者たちは、どう生きていくのか』(生活書院、2011年)、論文「障害者介護保障運動と高齢者介護の現状 高齢者介護保障運動の可能性を考える」(『現代思想』2016年2月号)。