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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年4月号

ワールドナウ

フィンランドのインクルーシブ教育で学ぶ知的障害のある子どもたちを訪ね、考えること

品川文雄

1 オーロラ学校のインクルーシブ教育の土台

通常の学級で、障害のある子どももない子どもも共に学ぶ取り組みを行なっているオーロラ学校と関連する学校を4回訪ねている。そこで考えたことを報告したい。

フィンランドの社会には「一人でも学力を遅れさせるのは社会の損出」の考えがあり、これを受け、最も重要な教育目標として「平等」をおいている。

基礎教育法は、1.教育は子どもの年齢と能力に応じて供給されるべきである。2.一時的な学習の遅れや学習における短期的な支援の必要性のある子どもは補充教育の権利がある。3.学習や修学に困難のある子どもは、他の教育と関連させたパートタイム特別ニーズ教育を受ける権利がある。4.特別ニーズ教育は子どもの興味や教育を提供する施設、他の施設との共同や部分的・全体的な特別ニーズ学級もしくは他の適切な施設を考慮して提供される。と述べている。

フィンランドの通常の学級の在籍児童は18~22人程度であり、学級規模を小さくし、どの子どもにも目が行き届くようにしている。

これらを基礎に、全児童生徒の約30%が特別教育(2011年)を受けている。内訳は、在籍を異動しない補充教育21.7%、パートタイム特別教育4.8%、フルタイム特別教育(特別学級・特別学校)3.3%である。通常の教育との連続性を保ちつつ、子どもの実態に即し多様な特別教育が行われている。こうしたシステムの中で、遅れる可能性のある子どもや障害のある子ども等を手厚く教育する試みが行われている。私たちが定点観察するオーロラ学校(エスポー市)もその一つとして、障害のある子どももない子どもも共に学ぶ取り組みを行なっていた。

保護者の強い要望で始まったオーロラ学校の取り組みだが、教育条件の整備もなく、教育課程や教育内容、教育方法はそのままといった乱暴なことは行なっていない。専門的知識や授業技量の高い学級担任、障害のある子どもを主に指導する教員、アシスタント数人という日本では考えられない体制の中で行われていた。オーロラ学校のあるエスポー市(人口25万人)には、各校に特別教育専門教員、看護師、心理職、ソーシャルワーカーが配置され、450人のアシスタントが働いている。

2 オーロラ学校の授業風景

幅広い発達段階の子どもを受け入れる許容範囲の広い授業づくりが試みられていたが、2009年のオーロラ学校の授業の様子を紹介する。その日の授業は「シアター授業」と呼ばれ、先生が順番にグループにお題を与え、それを表現、その表現から動物の名前や物語の題名を考え答える、ジェスチャークイズのような内容である。物語なら、長いストーリーの中の物語を象徴する場面や動きを表現しなければならない。表現する側も答える側も物語への理解が共有されていなければ、この授業は成立しない。一見やさしいように見えるが実は難しく、これまでの学びを踏まえた総合的な力が試される授業である。能力差があっても同じ教材を使い、学級集団の学ぶべき内容とねらいが追求でき、同時に個人個人の力量に応じた学ぶべき内容とねらいが追求できる質を持つ、幅広い発達段階の子どもを受け入れる許容範囲の広い授業づくりが試みられていた。

では、この授業を障害のある子どもはどのように学んでいたか。4人中2人はグループの子どもの動きを模倣しながら表現に参加していたが、他の2人はグループの相談に参加せず、表現も行わなかった。低学年の頃は、もっと授業に参加していたが、学年進行とともに学習内容が難しくなり、参加が困難になっているそうだ。2010年、通常の学級での彼らの学びはさらに厳しくなり、同じ場にいるが、別メニューの学習をアシスタントと多く行うようになっていた。

3 マルティンカッリオ総合学校の苦悩

オーロラ学校を卒業した障害のある子どもはマルティンカッリオ総合学校(中学校)に転学する。2015年、参観した地学の授業は、グループで調べてきた惑星と月の特徴を順番に発表し意見を交わすもの。グループごとの発表と質疑・回答がなされ、授業は淡々と進んだ。その間、障害のある子どもは発表を聞いていたが、討論に参加せず、あくびも出ていた。2人の障害のある子どもが発表した。パソコンの操作はアシスタントが行い、スクリーンに月の映像を映し出す。1人が5行の解説文をゆっくり読み上げ、もう1人は何もせず席に戻った。

この学校は障害のある子どもへの支援や配慮がなかったが、オーロラ学校から障害のある子どもが転校してからは、2010年にアシスタントとコーディネートする先生を採用した。2013年には特別支援教育推進職員を採用するなど障害のある子どもを受け入れる体制を整備し、障害のある子どももない子どもも共に学ぶ取り組みを始めた。同時に、週の3分の1は障害のある子どもを対象に、数学と言語の授業を行なっている。校長は、障害のある子どもを知る上で障害のない子どもや教師にとって良い機会であったと述べたが、障害のある子どもにとってどういう意義があるかは語らなかった。障害のある子どももない子どもも共に学ぶ取り組みに意義と成果を感じつつも、戸惑いとともに苦悩が見られた。こうした取り組みは、“教科を学ぶこと”が中心の中学校の教育課程では特に難しいのではないかと感じた。

4 日本とも共通する課題であり、一緒に深めていきたい

では、障害のある子どももない子どもも共に学ぶ取り組みは失敗だったのか。私はそうは思わない。通常の教育との連続性を保ちつつ、子どもの実態に即し多様な特別教育の一つとして貴重な取り組みだったと思う。障害のある子どももない子どもも共に学ぶために必要と思われる体制の整備~特に教職員数は十分であることを基盤とし、「幅広い発達段階の子どもを受け入れる許容範囲の広い授業づくり」によって、障害のある子どもが受け入れられ成長発達したことは確かであると思うからだ。

これらに加え、私は教職員のチームとして力量やスキルを発揮するための実践力、チームワーク力の向上、障害のある子どもを授業に導く手立ての工夫や創造などが必要であると思う。授業を進める先生が求めるねらいや意図を橋渡しする手立てや翻訳する人がいれば、彼らは動き始め学べたのではないか。授業を進める先生の教材選定や教材提示の仕方、アシスタントの学習内容に関わるサポートの方法、グループ分け、環境なども工夫すれば、もっとこの授業のねらいに迫れたのではないかと思う。

学年が進むにつれ、参加が困難になった彼らに対し小集団での指導を多くしたことは、形式に固執せず、子どもの最善の利益を優先した変更として評価できる。

これらは、日本の特別支援教育とも共通する課題であり、一緒に深めていきたいと思った。私たちの学びの旅は、これからも続く。

(しながわふみお NPO法人発達保障研究センター理事長、前全国障害者問題研究会委員長)