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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年7月号

1000字提言

障害者の「加害」について

渡邉琢

障害者の「被害」ではなく、「加害」に関して、今回とりあげたい。

近年、障害者虐待防止法や障害者差別解消法が、成立、施行されている。それらは基本的に、障害者が虐待されやすい、あるいは差別されやすい立場にある。つまり「被害」を受けやすい立場にあるから、制定されたものだ。ぼく自身もこれまで、そうした障害者の権利擁護の観点から、自立生活運動に関わっている。

ただ、そうした障害者の被害からの救済、あるいは被害の予防の活動に取り組む一方で、日々の生活の中で、障害者が他者を傷つける場面、つまり「加害」を行う場面に向き合うことも少なからずある。その際、被害は、介助者や家族に及ぶ場合や、あるいは街中の一般の人々に及ぶ場合もある。

障害のある人々も、「人」である以上、加害者の立場にもなりうるというのは、ある意味当然のことだ。けれども、その加害の側面については、障害者と健常者がいまだ対等な立場にないからだろうが、あまり口に出してはいけない雰囲気があるようにも思う。そして、障害者と関わる中で、この加害の問題についてあまり表に出すこともできず悩んでいる人も少なからずいるように思う(その一方で、そうした良心的葛藤抜きに、障害者と健常者の非対称な関係を考慮することなく、障害者の責任を追及する人ももちろん少なくない)。

ぼく自身は、身体障害者、知的障害者、双方の自立生活支援に関わっているが、加害の問題に関して深刻に頭を悩ますのは知的障害者の場合が多い。小さな迷惑行為の積み重ねの場合もあるし、あるいは直接激しい暴力や暴言に向き合わないといけない場合もある。難しいのが、それらの行為が、社会の無理解ゆえに迷惑とされるものや、あるいは過去に当事者が受けた虐待や差別の傷がそうした行為を起こしている場合があることだ。

実際に迷惑をかけ、あるいは暴力、暴言によって、人を傷つけることがあるのも確かだ。他方、そこには障害者への合理的配慮の欠如、あるいは過去の虐待や差別の傷が見え隠れする。それらは被害と加害の層が幾重にも重なるミルフィーユみたいなものだ。多くの場合、とても一言で解決できるものではない。

身体障害者の自立生活支援はある程度進んできた。これからは知的障害者の自立生活支援が大きなテーマだろう。その際、必ず、前記のような加害と被害のミルフィーユという課題に向き合わないといけない場合が出てくる。隔離された施設ではなく、地域でオープンに生きる時代だからこそ、その加害も被害も顕在化してくる。その際の葛藤をより多くの人と共有しつつ、課題に取り組んでいけたらと思う。


【プロフィール】 わたなべたく。京都在住。日本自立生活センター(JCIL)事務局員、介助コーディネーター。ピープルファースト京都、支援者。著書『介助者たちは、どう生きていくのか』(生活書院、2011年)、論文「障害者介護保障運動と高齢者介護の現状 高齢者介護保障運動の可能性を考える」(『現代思想』2016年2月号)。