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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年7月号

文学やアートにおける日本の文化史

カラクリと俳諧の、天の川

坂部明浩

水学も乗り物貸さん天の川 芭蕉

季節柄、天の川の句を冒頭に掲げてみた。が、芭蕉といえば、

荒海や佐渡によこたふ天の河 芭蕉

こちらのほうが、よほど知られている。あえて前者を冒頭においたのは、時代の早い順ということもあるが、今回の主役がまさに、この句に登場する「水学」だから、なのだ。

水学、こと水学宗甫(すいがくそうほ)の横顔は生い立ちも判明していないが、カラクリ師である。寛永13年(1636年)には長崎で難破したポルトガル船から、カラクリを用いて銀六百貫余を引揚げたということが『長崎志』に紹介されているという。

実は、このカラクリ師のことは、芭蕉と同時代の井原西鶴も紹介している。浮世草子という新しい小説分野を切り開いた西鶴のスタートは俳諧師(はいかいし)であったが、その俳諧の中で、水学に触れている。特に晩年の『西鶴独吟百韻自註絵巻』には、

(しろがね)の下照蔓(したてるつる)のさかへぬる
細谷川や智恵の水抜
碓に不断白玉砕かれて

少し難しいが、最初の句、銀の下照は、金銀の鉱脈(蔓(つる))のあるところは他の山と違って光り、その採鉱を請け負った山師たちが山の神に安全を祈願しているようだ。その句に付けるかたちで「細谷川~」では、吉備の国の川の水抜きを工夫して行なったと続く。

次は、碓(からうす)を使って人の力でなしに(?)白玉を砕いたということだと思うが、そこに西鶴の自註解説があって、近年、水覚(=水学)という盲人が工夫して、大阪の淀川などにカラクリを用いた早船を仕掛けた、という記述もあり、冒頭の句も同様の乗り物と判(わか)るし、細谷川の知恵の水抜きも水学がカラクリで行なったということが判る。

さてここからは、水抜き、いわば排水ということに絞って彼の足跡を考えてみる。

『佐渡年代記』等によると、承応2年(1653年)に盲目の水学宗甫が大阪から佐渡にやってきて、佐渡の鉱山を掘る際に湧く水の排水のため、水上輪(すいしょうりん)というものを地元の番匠(大工)に伝授したことが記録に残っている。

水上輪は、どんなものか。『佐渡相川郷土史事典』に「ギリシャのアルキメデスが考案したアルキメデス・ポンプが祖型とされる。木製の細長い円筒の内部に螺旋竪軸が装置され、上部についたハンドルを回転させると、水がじゅんじゅんに汲み上げられる」とあるように、円筒の中のラセンが回ることで水が上へと上がっていく。ここでいうラセンの動きとは、ちょうど木ネジなどを緩める方向に回して行なった時のネジ山の動きをイメージしてもらえばいいであろう。

さて、佐渡での水学宗甫の活躍に辿り着いたところで、再度、芭蕉の句に戻って考えてみたい。

冒頭の、延宝6年(1680年)の「水学も乗り物貸さん天の川」は、まだ、芭蕉が風雅の旅に出る前の、いわば点取り俳諧、談林俳諧と言われ、技巧や目先の新しさだけを競ったような時期の句だと言われてきた。そう考えると物珍しい、ハイカラな象徴としてカラクリ師の水学はうってつけで、芭蕉もそんな軽い気持ちで取り上げたのだろうとも思うのが普通なのかもしれない。

しかし、と思う。これは昨年、「芭蕉の泪」という題で本誌(3月号)に書かせて頂(いただ)いたことの繰り返しにもなるが、この時期、俳諧においてはそうであっても、芭蕉の別の側面としての経験が重要な意味を持つということ、それをここでも再度取り上げてみたい。

それは、延宝5年から延宝8年まで、芭蕉は東京の関口で、神田上水という上水道の維持管理のような仕事をしていたという事実である。識者によってはこの事実はあっても、芭蕉は片手間にやっていたのだろう、ということで簡単に済まされてしまうのだが、『神田上水工事と松尾芭蕉』(大松騏一著)にみられるように、ここでの経験は芭蕉にとっては大きなものであった。

「芭蕉の泪」では、私(坂部)自身の経験から、日雇労働者らが神田上水の浚渫(しゅんせつ)工事などに関わった可能性を指摘した。彼らの中には今でも、障害認定を受けることすら気づかなかったり、障害をもちながらも隠しながら、あるいは、行政に訴える術(すべ)をも持たない人たちがいるという現代の事実を敷衍(ふえん)して、芭蕉の時代にも同様に、芭蕉が目にしたり接したであろう体験の数々を類推してみた(そのことで、門下のろう者杉山杉風を見る目も変化したと)。

同様に、神田上水の維持管理の中での浚渫工事、堀浚(ほりさら)いということを考えた時に、水を扱っている、しかも樋を流れる水に泥が溜まるのを取り除くためには、上流で一度水を止める必要もある。水学同様、水との格闘だ。ただ、この時点ではまだ、水学宗甫のカラクリ(水上輪)の存在までは芭蕉も知らなかったであろうから、ちょうどその頃に詠んだ冒頭の「水学も乗り物」の句(延宝6年)の段階では、水上輪ではなく早船などのカラクリの方にしか芭蕉の目が向いてはいないものの、それでも水学のことが仕事柄、気にはなっていたことは間違いない。

そして、その句から、約9年後、芭蕉はあの有名な「奧の細道」の旅に出、東北各地を回って、最上川からいよいよ、北陸路の旅にさしかかり、7月の七夕の季節を芭蕉は迎えたのであった。

天の川といえば七夕の夜ということになるが、一般に言われているように、この句自体は、披露されたのは、7月7日前後であっても、着想されたのはたぶん、それ以前の7月4日の新潟の出雲崎であろうことは、奥の細道と別に書かれた「銀河の序」など芭蕉の俳文を読むとわかる。また、時間帯にもよるが、実際の天の川は、おおむね夜空からあたかも日本海に流れ込むような角度の配置になっていて、「よこたふ」とは程遠いという指摘もよく聴く。そこは芭蕉の想像力のなせるワザによるところが大きい。また、そもそも荒海であったかどうか。現実より真実といったところだろう。

荒海の佐渡として、そこに天の川を横たわらせた芭蕉の想像力は一体何であったのだろうか。そのヒントも「銀河の序」を読むと判る。ここに芭蕉が、佐渡が黄金を産出する島である一方で、大罪を犯した人や朝敵となった人たちの流刑の島であることに思いを馳せ、宿泊先の出雲崎からみる佐渡に胸が締め付けられた、と書いているからだ。やはり、先人たちの無念の思いを重ねたことが、「荒海」という表現に至ったことは間違いない。

その上でのことだが、私にはもう一つ、ここに水学宗甫のことが重ねられているように思えてならない。もちろん、確証はない。旅に出るまで、佐渡での30年ほど前の盲目の水学の活躍を知らなかったであろう芭蕉ではあるが、一方で、カラクリ師として大阪で西鶴らにあれほど水学の足跡が騒がれていたこと、その彼が当時鳴り物入りで佐渡に入ったのであれば、佐渡に近い旅先の宿でその足跡を芭蕉が聞いたとも限らない。そこまで思い切り類推すると、「荒海」は鉱山で突発的に噴出した水で、洪水になった坑道の光景にも思えるし、「横たわる」のは水脈に置かれた水上輪だとも思えてくるのだ。では、なぜ天の川?

実は、江戸時代の家々の年中行事の一つに、井戸に溜まったものを浚う「井戸替え」という風習があったが、それがなんと七夕の日に行われていたのである(『井戸と水道の話』堀越正雄著。西鶴の『好色五人女』にも七夕の日の井戸替えが登場する!)。

関口で神田上水の維持管理の仕事をしていた芭蕉が、七夕の日には自分たちの仕事としての浚渫と同様に、各家庭で井戸替えの風習が行われていたこと。まさに七夕の日こそは、天の川のイメージを地上の水脈と重ねて、人々の想像力に“横たわらせる”に格好の日であったに相違ない。七夕の日の旅先で芭蕉は一人それらを思い出す。

以上のように、天の川の句に常に洪水や荒海が伴うのは、芭蕉の仕事の経験が生きていたに違いないと思った。新潟で目を閉じて聴こえてくる内なる水の音。その瞬間の佐渡よ、水学よ!

※本稿は、荒海の句についての仮説に過ぎない。第一、佐渡での水学のことを地元新潟で聴かなかった可能性のほうがずっと大きい。

ただ、芭蕉の「奥の細道」自体、推敲に推敲を重ね、元禄5年頃になってやっと完成したとすれば、その推敲の期間のいずれかにおいてでも、(水工事に関心のある)芭蕉が「佐渡の」水学のことを聞いたかもしれない可能性は残る。たとえ、それが荒海の句作に直接は影響をもたらしたものではなくとも、たとえば、奈良の唐招提寺に失明した鑑真像を訪ねた時に、像を前にして、

若葉して御目の雫ぬぐはばや 芭蕉

と、芭蕉自身が若葉で鑑真の目の雫をぬぐってあげたいと思ったように、佐渡の勇猛な男たちの前で、盲目でそのカラクリを地元に伝えた水学を思い、そして時として、洪水に呑まれてしまう水上輪(実際に1680年頃には洪水で何十艘もの水上輪が流された記録がある~小葉田淳氏)に自然の猛威を思い、その数々を芭蕉が救って(いや、掬(すく)って)あげたいと思ったのなら、つまりは、この句が芭蕉にとって我が事として思えた瞬間がたった一度でも訪れていたのなら、その瞬間に私も寄り添えたことになる。

元禄6年には、七夕の日のこんな句もある。

高水に星も旅寝や岩の上 芭蕉

※本稿執筆にあたり、東京都水道歴史館での神田上水の展示が役に立った。

(さかべあきひろ 介助業&著述業)