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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年7月号

重度知的障害/自閉の息子の自立生活

岡部耕典

東日本大震災から4か月後の2011年7月、東京都・三鷹市のアパートで、息子・亮佑(1993年生まれ・療育手帳2度・行動援護対象者)は支援付きの自立生活を開始した。2回目の契約更新時に引っ越し、そこもこの7月で3年目を迎える。

環境の変化に弱いといわれる重度知的障害/自閉の息子が、「特別支援学校高等部卒業」「引っ越し」「親との別居」という大きなライフイベントをほぼ同時に3つもこなしてなんの動揺もなかったことを話すと驚かれることが多い。いろいろと理由はあるだろうが、すでに彼が9歳のときから在宅のままで東久留米の自立生活センターグッドライフの介護を月に50時間~150時間使っており、介護者を使った生活に慣れていたこと、さらに介護コーディネーターも含め、現在の介護者たちの多くが自立前から亮佑の介護に入っていたことは大きいと思う。

自立前は、日曜日以外毎日曜日ごとに異なる介護者が6人入っていたが、自立後は、通所のない土日の日中も含めて10人以上がローテーションを組み、彼の自立生活を支えている。介護は午後4時ごろに通所施設に迎えにいくところから開始され、翌朝8時に通所の送迎車まで送って終了する。そのかん、遊び、買い物、食事、入浴、就寝、すべて介護者とともに過ごす生活である。

2014年4月に重度訪問介護が使えるようになるまでは、行動援護・身体介護・家事援助の合計で354時間の支給決定を受けていた。知的障害者に対する介護の支給決定としては、地元の自治体でも前例のない時間数であったが、それでも通所する時間を除き就寝8時間相当が不足する。その部分は全体の支給総額を「伸ばして」使うことによって介護者の給与を確保し、自立当初より24時間の見守り介護を実現した。

重度訪問介護に移行してからは、総支給時間は531時間となったが、1日のうち、夜間の2時間相当は介護者の実質的な休息時間とみなし、あえて支給を受けていない。

土日等で通所が休みのときの介護者以外は交代時に会わないので、情報の共有は基本的に介護ノートによって行われている。毎週金曜日はコーディネーターを務める介護者の担当日であり、彼が環境面を含む生活状況全体のチェックを行い、財布に1週間分の生活費を入れる。日々の買い物などはこの財布から介護者が支払い、溜められたレシートが次の金曜日に確認されるというルーチンである。

いうまでもなく、自立したからといって行動障害がなくなるわけではない。自傷他害はもともとあまりないほうだが、介護ノートを見ると睡眠障害は相変わらずだし、調子が良くないときは、奇声を発したり、突然大声を挙げたりすることは現在でもよくある。

しかし、24時間のうち、寝ている時間も含めて、平日通所施設に行っているとき以外のすべての時間に介護者が付き添い、隣近所の人たちとの関係、道路・公園・コンビニでの環境との調整役、本人の安心基地として機能していることで、息子は行動障害と“ともに”生きることができるようになった。

食事、買い物、家事、入浴とすべての生活において「常時介護が必要」な息子であるが、生活支援に加えて常時の「見守り」があるからこそ、地域生活の継続ができているということは強調しておかねばならない。

自立までは、介護者が入る以外の時間の見守りは親が担っていた。私が現在の大学に嘱任された当初は夜の授業が多く、介護者が帰ってから私が帰宅するまでのあいだ、息子はつれあいと過ごし、風呂と夜の添い寝が平日の主たる私の役割だった。荒れる夜は抱き合って眠り、朝は車で特別支援学校まで送り届ける。今となっては懐かしい想い出だが、つれあいがその激しさを「冬の日本海」にたとえた思春期のころの彼のエネルギーの爆発はすさまじく、自宅は文字通りボロボロになってしまったので、自立後に全面リフォームをした。

現在、親元への帰宅は原則として月に1回、土曜日に1泊し、日曜日を一緒に過ごして、夕方車で10分足らずのところにある彼のアパートに送り届けている。来るときには満面の笑みだが、帰るときに嫌がったことは自立開始以降一度もない。すでにここは彼にとって「実家」であって「自分の家」ではない、ということだと思う。

(おかべこうすけ 早稲田大学教授)