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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2017年8月号

「権利」と「迷惑」の狭間から

渡邉琢

知的障害のある人と街に出かけるとき、何に大変さを感じるだろうか。車いすを使用する方と一緒の場合、車いすを押したり、段差を乗り越えたり、エレベーターを探したり、入れるレストランを探したり、といった、ハード面での課題が前面に出てくる。けれども、車いす等を使わない知的障害の方の場合、そうしたハード面はさして困難にはならないだろう。

むしろ、気になるのは、公共交通機関やレストラン、映画館の中で、大きな声を出して人から何か言われたらどうしよう、とか、突然、小さい子どもの手を力強く引っ張ってしまったらどうしよう、突然、車やお店の看板を蹴っ飛ばして物損を起こしたらどうしよう、などといった対人関係に関わることだ。

もちろん、知的障害(あるいは自閉症)の方と言っても一律に語ることはできない。特に、人とやりとりすることなく静かに街に出ている人もいれば、人が大好きであれこれ運転手や店員、あるいは道行く子どもや妊婦さんに話しかけまくる人もいる。

さらに、レストランの中で大きな声を出すと言っても、たとえば、子どもたちも騒ぎまくっているファミレスとかだったら、そんなに問題はないだろう。子どもの手を突然ひっぱるといっても、握手の感じで丁寧にやさしくそれができたら、さして問題にはならないだろう。トラブルになるかどうかは、TPOに応じて変わってくるところも多々ある。

ただ、どの行為も、度が過ぎて、相手の心身に何らかのダメージを与えるとしたら、それは相手にとって許容されがたい「迷惑」な行為となってしまう。

「迷惑」という言葉はとても慎重に使わないといけない言葉だ。たとえば、満員電車の中に車いす使用者が乗車しようとする。まわりの乗客にとってはそれは「迷惑」とうつるかもしれない。けれども、差別のない社会を目指すルールがつくられつつある今の社会では、それを公然と「迷惑」というのは許されない。車いすを理由に乗車拒否されてはならず、他の者と平等に、あたりまえに乗車する「権利」がそこには認められる。

それに対して、乗車中に大声を出し続けることは、どこまで許容されるだろうか。障害の特性でなかなか静かにできないとしたら、基本的には許容されなければならないだろう。けれども、障害の特性だから、どんな声でも許容されねばならない、とどこまで言えるだろうか。たとえば、運転中の運転手に対して、大声で声をかけ続けていて、それが次第に怒声に変わり、運転手が動揺して運転しにくくなったらどうだろうか。

街の中で出会った赤ちゃんや子どもに対して、頭をなでなでするのは許されるかもしれない。けれども、髪の毛を引っ張ったら、どうだろうか?相手次第で、許容されることも許容されないこともあるはずだ。なんらか他者を傷つけてしまったら、警察沙汰になっても致し方ない。

ぼくがガイドヘルプ(移動支援)で知的障害の方と街に出るようになって、15年近く経つ。前記のような、「権利」か「迷惑」かの狭間に立ち、思い悩むことはしばしばある。

映画館で、大声を出し続けているから出ていってほしいとスタッフから言われたけれども、他の乗客も笑って声出しているだろうと突っぱねつつ、それでもなおかつ、本人にやっぱり静かにしようね、という仕草を丁寧に出し続けたこともある。

バスの運転手に対して怒声を出し、イライラがつのって近くにいる子どもたちにも怒鳴るようになり、警察沙汰になったこともある。

知的障害者が直面する困難は、身体障害者の困難よりも目に見えにくく、解決の糸口がつかみにくいものが多い。他者とのコミュニケーションがうまくとれなかったり、他者の身体や所有物との適度な距離感がつかめなかったりして、他者に不当な介入をしてしまい、そしてトラブルになることがある。

もちろん、そうした対人関係の困難があるからこそ、他者との橋渡しをうまくとりもつヘルパーや支援者の役割はとても大切だ。本人の行動や社会との接点を制限することなく、どのようにこの社会の中で知的障害のある方が暮らし続けていくことができるか、その模索をたゆまず続けることが、ヘルパーや支援者の大事な役割だろう。そうした努力を怠ったら、人に「迷惑」をかける障害者は施設という限定された環境でしか暮らせない、ということになってしまう。

知的障害の人たちがどれだけゆとりをもって街に出かけていけるか、街で暮らしていけるか、それは社会の成熟度を示すものだとも思う。そのためには社会の人々の理解も必要だし、支援者たちの関わりの努力も必要だ。本人が、この社会でさまざまな経験を積むこともとても大事だ。

知的障害者のガイドヘルプが公的に制度化されてから、まだ15年にも満たない。本人が街に出る機会はこれまでなかなか与えられてこなかったし、街の人々も知的障害者と出会う機会はほとんどなかった。今、「迷惑」とみなされる行為も、出会いを不当に奪われてきたことに起因するものも多いはずだ。

かつて、身体障害の人たちがバスに乗るだけでも「迷惑」と言われた時代があった。知的障害の人に関わる「迷惑」も、人々の経験と努力、出会いの蓄積を通して、だんだんと「迷惑」とみなされないものになっていくことを願う。

(わたなべたく 日本自立生活センター事務局員、ピープルファースト京都支援員)