岩坪奇子*
重度障害者といえば一般的には身体障害者福祉法の1、2級に該当する人々を指しているが、ここではそのような範囲にとらわれず、他の人の介添えなくては日常生活および社会生活を営むことが困難な人々を対象として考えてみたい。このような人々のなかには、限りない工夫と努力を重ね自分の持てる能力を発揮して、俳人、作家、塾教師、精神科医などのように社会の第一線で活躍している人もいるが、その多くは、最重度障害者として病院や在宅で療養生活を継続するか又は療護施設へ入所することを余儀なくされているのが実状である。
いずれの生活形態を送ることになろうとも、そして介護の種類や量に多少の差はあろうとも、常に他の人の介添えを必要としなければならないわけであるから、介護する人とされる人との間に生ずる諸々の心理的交流に関する考察の重要性については改めて言うまでもないことである。
しかしながら重度障害者がある一定の方式でもって処遇されているということであれば、両者の関係を分析することは比較的簡単であろうが、現在のように障害状況の多様化、障害者のニードの多様化、介護者の種類の多様化、福祉機器の開発による介護方法の変化など、あらゆる面において変動が起こりつつある状況においては、なかなか困難な課題である。
そこで今回は、介護を必要としている人の状況と介護者の置かれている立場を概観したうえで、具体的な事例を参考にしつつ、そこに見られるいくつかの心理的な問題について検討してみることにしたい。
昭和55年に厚生省で実施した身体障害者実態調査によれば、「食事」「排便」「入浴」「衣服の着脱」「室内移動」といった日常生活動作の基本的項目に関して、「一部」あるいは「全部」介助を必要とする障害者の割合は表1に示すとおりであった。
日常生活動作 | 総数 | 一人でできる | 時間をかけ ればできる |
一部介助が 必 要 |
全部介助が 必 要 |
無回答 |
食事をする | 100.0 | 81.4 | 9.3 | 4.1 | 4.2 | 0.9 |
90.7 |
8.3 |
|||||
トイレを使う | 100.0 | 77.5 | 9.8 | 4.7 | 7.0 | 1.0 |
87.3 |
11.7 |
|||||
入浴する | 100.0 | 71.6 | 7.7 | 8.5 | 11.2 | 1.1 |
79.3 |
19.7 |
|||||
衣服の着脱をする | 100.0 | 71.0 | 11.4 | 7.5 | 9.2 | 1.0 |
82.4 |
16.7 |
|||||
家の中を移動する | 100.0 | 76.2 | 11.8 | 4.1 | 6.8 | 1.2 |
88.0 |
10.9 |
つまり、「食事」については8.3%、「排便」については11.7%、「入浴」については19.7%、「衣服の着脱」については16.7%、「室内移動」については10.9%の人が介助を必要としているのである。全国の18歳以上の身体障害者数が1,977,000人と推計されることからすると、「全部介助が必要」とする人だけを考えてみても、「食事」については8,300人、「排便」では138,000人、「入浴」では221,000人、「衣服の着脱」では181,000人、「室内移動」では133,000人という多くの人々が存在していることになる。又、「全部介助が必要」とする人は何種類の動作について介助を必要とするかというのが表2である。
日常生活動作の 種類 |
推計数 | 構成割合 |
総数 | 千人 241 |
% 100.0 |
1 種類 | 53 | 22.1 |
2 〃 | 44 | 18.2 |
3 〃 | 28 | 11.6 |
4 〃 | 49 | 20.4 |
5 〃 | 67 | 27.8 |
「全部介助が必要」な身体障害者数は241,000人で全体の12.2%を占め、更に5種類全部の日常生活動作について「全部介助が必要」な障害者数は67,000人にも及んでいる状況である。
それではこのような日常生活の介護を実際には誰が行っているのであろうか。前記実態調査の結果によれば表3の通りであった。これは「主な介助者」ということで問うているので、実際には「入浴」などの動作については複数の人が携わることがあるであろうし、時によって別の人が代わりに行うこともあると思われる。主な介助者は「配偶者」が43.1~50.7%と半数に近く、次いで「子供」が約20%、「親」や「その他の家族」を含めた家族の介護が実に90%近くを占めている。
主な介助者 | 食事をする | トイレを使う | 入浴する | 衣服の着脱 をする |
家の中を移 動する |
|||||
総 数 | 100.0 | 100.0 | 100.0 | 100.0 | 100.0 | |||||
配 偶 者 | 43.1 | 87.9 | 45.8 | 87.7 | 44.8 | 89.2 | 50.7 | 90.0 | 44.1 | 87.0 |
親 | 9.4 | 9.2 | 8.5 | 7.4 | 7.2 | |||||
子 供 | 20.8 | 19.3 | 22.5 | 18.9 | 22.2 | |||||
その他の家族 | 14.6 | 13.4 | 13.4 | 13.0 | 13.5 | |||||
親 戚 | 0.8 | 1.0 | 1.0 | 0.8 | 1.0 | |||||
家庭奉仕員 | 0.3 | ― | 0.6 | 0.1 | ― | |||||
隣人・知人 | 1.3 | 0.2 | 0.6 | 0.4 | 0.2 | |||||
雇 人 | 3.0 | 2.7 | 1.6 | 1.9 | 2.5 | |||||
そ の 他 | 3.8 | 4.4 | 3.2 | 2.7 | 4.3 | |||||
不 詳 | 3.0 | 4.0 | 3.9 | 4.0 | 5.0 |
こうした介護者は、介護以外にも家事や育児など様々な仕事を担当している場合が多く、肉体的精神的に大きな負担となっている。
さらに又、介護はその性質上昼夜の別なく必要とされるため、介護者自身の行動に制限が加わることになる。外出が不自由となるため親戚付き合い近所付き合いに義理を欠くようになるのを始め、介護者自身が病気や腰痛になっても治療のために病院へ行くことさえ困難な場合が起こってくるのである。筆者の周囲にも、どうしても行かなければならない外出先まで被介護者を同道するようなことが見られたが、介護者に与える拘束の大きさには計り知れないものがあると思われる。
このようなことから、介護をする人とされる人の間には精神的緊迫状態が生じ易いことは事実であるが、相互に満足感をもたらす場合も存在しないわけではない。以下、それらについて考察してみよう。
人間はあるニードを持ったとき、そのニードが満たされれば快感情が生じ緊張感は消失する。満たされない場合は、不快感情が生ずるとともにそのニードが何らかの形で満たされるまで、あるいはそれに代わるもので埋め合わせがされるまで緊張感が継続するものである。
介護者が介護をするについての動機には、立場上自分がやらざるを得ないという義務感から、報酬をもらいそれで生計をたてるための職業として、相手の役に立てることが嬉しいという奉仕の精神から、自分の方が励まされたり教えられたりすることがあるからという相互関係などが考えられる。
たとえ義務感や経済上の必要性から出発したとしても、そこで留まってしまうかそれ以上の意義を見い出せるかによって、介護の態度もそこから生ずる心理的交流の中身も違ったものとなってくるのである。
前述のように、介護者の日常生活は肉体的、精神的に強い拘束を伴なう。従って、休息をしたいと思っても現実にはなかなか不可能で、ストレスがたまり易い。一方、介護をしてもらう人の方でも、実はもっと多くのことをやってほしいとか、同じことでももう少し別のやり方でやってほしいのだが、つい気兼ねから我慢をしてしまうというようなことは、よくあることである。このように一方的に自分のニードを抑圧してしまうことは相互に心理的緊張感を高め合うことになりがちである。
ある療護施設へ入所中の脳性マヒ者が、なるべく自分のことは自分でしたいと考えていて、わずかでも自分で出来ることが多くなることに限りない喜びを感じていた。そこでトイレへ入るときも、床の上に坐って出来る特殊便所を使えば、一連の排便動作のうちで最後のズボンを上げることを除けば時間はかかるがなんとか一人でやれるまでになった。そこのところだけ介助してほしいと頼むのだが、介護者にしてみれば、時間がかかる、間に合わず汚すことがあるなどの理由で、全面介護の入所者として扱うことにした。この介護を受ける人と介護に携わる人々の間には絶えず精神的緊迫状態が続くことになった。この入所者にしてみれば自分の意志を無視されているのだし、介護者からすればいつも逆らういやな入所者ということで、施設における不適応者という見方までされるにいたったのである。
このように介護をしてもらう人のニードが無視されたり、あるいはわかっていても現実には実行され難いような場合、さらに又、個性ある一人の人間として扱ってほしいと考えている障害者に対してその「人」よりも周辺の「定められた業務」遂行に熱心な介護者、自分達の生活をあまりのぞかれたくないと願っている障害者のところへボランティア活動と称して自分達の一方的な好意を示そうと訪れる人々というように、介護を受ける人と携わる人のニードが食い違っているような場合にも心理的緊張感が生ずることになり易い。
これに類することは通常の人間関係でもしばしば見られることで、一方が良かれと思ってした事が他方にとってはそうでなく、双方で不快な思いをしてしまうことなど、我々の経験するところである。このことは次の例のコミュニケーションとも関連するものである。
脳卒中や脳動脈奇型などで頭部損傷になった人や脳性マヒ者の一部には、言語的コミュニケーションに支障をきたす者がある。言いたいことが伝わらないもどかしさは想像に難くない。体験者の手記にも実によく記されている。通常の生活場面では、相手の言うことに耳を傾けるというよりも眼前の処理しなければならない作業の方に気をとられがちであり、途中で「わかった、わかった」と話そうとしているところをさえぎってしまう場合が多い。話を中断されても伝えたいことが十分伝われば問題はないのだが、反対に受けとめられたり微妙なところで食い違いが生じ易い。伝えたいことが伝わらなくてあきらめてしまうことは介護を受ける人に一方的に不快感を残す。伝わらなくていらいらし、それでも伝えたいと願い、介護者も一生懸命わかろうとするのだが結局十分には理解出来ないというような場合には、双方に不快感といら立たしさを残す結果となるであろう。
このようにコミュニケーションがスムーズにいかない場合も心理的緊張感を生ずる。
ある朝の通勤途上のことである。白杖を持った学生がバス停に立っていた。そこは2系統のバス停留所で、いつもはテープで行先案内があるのだがその時は作動せず、他の乗客が乗り終わったあともそこに立たずむ学生に向かって、運転手は身体をよじらせて行先を伝えた。ところがその学生は同じ姿勢のまま立ち続けていたのである。一瞬の間をおいて姿勢をもどした運転手は、ドアを閉じると同時に発進させ一気にアクセルを踏み込んだのであった。一連のやりとりを見ていてバスの発車でよろめいた乗客達はどのように感じたであろうか。手を振るなり首を振るなりして運転手の言葉に反応があったらと考えたのは筆者だけではないと思うのだが……。
逆の場合もある。「典子は今」で実験された例のように、障害者を困難な状況に置き、他の人の援助を求めなければならなくなったとき、そのサインを出しても受けとめてもらえなかったとしたら不安と緊張はどれ程高まることであろうか。
このように一方から発したサインなり行動に対してそれにふさわしい反応が欠ける場合にも相互の間に心理的緊張感を生ぜしめることになる。
以上を要約すると、介護をする人と受ける人の間に精神的緊迫状態を生じ易いのは、
1)自分のニードを限度以上に抑圧してしまう場合
2)相互のニードが食い違っている場合
3)言語障害などのために介護を必要とする人の意志が正しく伝達されない場合
4)相手の発したサインに適格な反応がなされない場合
などということになろう。従ってこうした状態が生じないようななんらかの配慮がなされれば心理的融和感が生ずることになる。
両者の間に好ましい心理的交流が実現するためには、なんといっても相互に相手のニードが正しく理解されなければならない。
近年、介護における肉体的負担を少しでも軽減できるようにと、各種福祉機器の開発にはめざましいものがある。専門家による研究もさることながら、現実に自分の問題として直面している人々の創意工夫を凝らしたもののなかには素晴らしいものがみられる。福祉機器の貸出しやホームヘルパーの派遣、専門職員による巡回指導などの公的制度の出現は、介護で疲労困憊し一家心中の手前まで追いつめられていた家族に、一条の光明となり生きている喜びを味わわせることがある。
ぎりぎりまで自分達のニードを抑圧し、緊張しきった関係においては、第三者からの援助や励ましは双方にとって好ましい影響を及ぼすものとなろう。又、家族の中で特定の人だけで介護の仕事に当たっているとき、ともすればストレスが高まると「なぜ自分だけが…」という心理的不快感を抱き易い。そのような場合も他の家族メンバーが可能な範囲で援助するとか主たる介護者へのねぎらいは、家族間の緊張状態を和らげ結果として介護をスムーズにさせるようになる。
先の療護施設の例では、障害者自身のなかに生まれてきた自立生活への激しい意欲を理解することがまず必要であった。
一般的に、施設では入所者の健康保持のために少しでも快適であるようにと、清潔さや能率よく介護することに意が尽くされがちである。そのためともすれば自分で出来ることにも手を貸してしまうこともあったのである。入所者にはその施設での特殊便所の利用状況、1人が使用を許される時間の長さ、生活時間の流れ、介護者の業務内容や量を正しく理解させたうえで、全部介助にならざるを得ない日もあるが望み通りに一部だけの介助にすることが出来る日もあるというように、柔軟な対応がなされることが望ましい。
日常生活動作の「排便」や「入浴」の介護は非常に個人的なものである。従って家族など身近な人で対応することが多くなるのであるが、施設などで生理中の女性がその介護だけは特定の人にしか頼まないというようなことがみられる。そうした場合、介護を依頼された者にとっては自分が強い信頼を相手から受けていることに喜びを感ずるものである。「この人は私の助けを必要としている」という自覚は自己の存在感を十分満足させてくれる。疲労や拘束感などから時によって生ずる心理的緊張感も、この自覚を促すことによって心理的融和感へと変化させることは可能になることもある。
頸髄損傷でベッドに寝たきりでありながら妹の介護を受けつつ筆を口にくわえて絵を画く青年、額に汗をにじませながら訓練に励む重度の脳性マヒ者など、動作的不自由を押して必死で目的遂行のために努力をしている姿には、見る人に畏敬の念を生じさせるものがある。逆に又、愚痴も言わず熱心に介護をしてくれる人には、介護を受けている人の心に自然に感謝の念を生じさせずにはおかないであろう。このように相互の行為が相手に心理的融和感を生じさせる場合がある。
以上介護をする人と受ける人の間に精神的融和状態が生ずるようになるためには
1)介護者に肉体的、精神的負担がかかりすぎないこと、
2)介護者に適当な報酬(感謝、称賛、理解など)が与えられること、
3)相互のニードが正しく理解し合えること、
4)相互関係にあることが理解されていること
5)相互に自らのなすべきことに熱心であること、
などが考えられる。
ここ数年来、重度障害者の自立生活運動が活発になり、従来の施設ケアそのものを見直す傾向が現われ始めた。施設や病院は勿論のこと、家族からも独立して一般社会の中に住居を構え、完全に自分の意志でもって自分の生活目標を設定し、必要な介護の種類を選択し、依頼の決定もおこなおうとするものである。これまでにも障害者自らの努力でそのような生き方をしている個々の例は、全国各地に見ることが出来たけれども、脳性マヒ者の団体である「青い芝の会」や札幌の「いちご会」のように、一つの社会運動としての活動は新しい動向である。東京都では「八王子自立ホーム」が作られるまでになっている。
施設運営にあたってもそのような考え方の影響を受け、「私、介護する人」「あなた、介護される人」という介護者主体の考え方から、「私、介護される人」「あなた、介護する人」と、介護を受ける人主体の考え方に変化し、入所者の投票で職員の責任者を選ぶ方法を採用している施設がある。又、入所者のプライバシーを尊重するために居室は個室とし、飲酒、夜更かし、訓練や作業への出欠など一切制限を加えない方針をとっているところもある。
介護をする人とされる人が一方的な関係にあるのではなく、相互に独立した関係にあろうとするとき、介護される人の自立と同時に介護する人の自立も要求されることになる。重度障害者の自立生活運動に共鳴しボランティア活動に参加していた学生が、「障害のない人は障害のある人の目となり耳となり手足となるべきである」ということを介護していた障害者から言われ、自分の気持が整理できなくなったことがあった。また、大学の卒業時期を迎え、就職先を決定するにあたって介護スタッフを辞退することができない悩みを訴えられたこともある。これらの例は、従来の与えられた介護生活から、介護を受ける人々が自らの生活に主体性をとりもどしてゆこうとしている過程に生じた問題といえよう。
障害者自身のニードが多様化し、それらに対する対策もいろいろ試みられているが、どのような場合であっても、人間の本質に対する理解と個々の対人関係における適格な反応、あるべき態様をきめつけるのではなく、より良い関係を求めてどうあったらよいかを探り続ける努力がなされなければならないのではないだろうか。
介護をする人とされる人の間にみられる心理的問題のいくつかについて考察してみたが、これまで障害のある人とない人の間に生ずる精神的緊張状態や障害の異なるグループの間に生ずる精神的緊張状態などについては、あまり検討されていないように思われる。さらにまた、介護の補助手段としてメカニックな機器を使用した場合に相互に及ぼす心理的影響なども調査されなければならない分野である。
こうした人間と人間の関係、人間と機械の関係というまさに最も基本的な問題を検討しないでは重度障害者の自立も介護者の自立もあり得ないのではないであろうか。
参考文献 略
*国立身体障害者リハビリテーションセンター
(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1982年11月(第41号)34頁~39頁