特集/世界精神保健連盟1993年世界会議 コミュニティケアをめぐるイギリス精神保健の200年

特集/世界精神保健連盟1993年世界会議

コミュニティケアをめぐるイギリス精神保健の200年

Overview of the Development of Alternatives to Community Care-200 Years Experience

John B. Jenkins

1.200年前のコミュニティケア

 18世紀の後半まで 精神保健問題をもつ人々に対してはコミュニティがサポートしていた。しかし特に手当や特殊なケアをされていたわけではなく、他のケアを要する人々、つまり老人や身体障害者や不治の病をもつ人々と同じように扱われていた。

 一般に家族は一時的または恒久的な金銭的援助を教区(parish)からもらっていた。民間の慈善団体による私設救貧院(almshouse)も作られてはいたが、それはいわば家庭の代わりのようなものであり、本当にひとにぎりの「危険で厄介な狂人」(dangerous and troublesome lunatics)だけが矯正施設に入れられ隔離されていたのであった。

 工業化、商業化が進んで社会が大きく変わった。小地主がエンクロージャーという囲い込みによって追い出され、農奴は労働者になった。仕事のできない人たちは家族にとっても教区にとっても重荷になった。1803年には9人に1人が貧困手当(poor relief)を受けるに至った。

 こうして貧困に対応するためには制度的な対処が必要だということになり、とくに救貧院(workhouse)が増加した。真にそこにしか行き場のない人しか行かないようにするために、そこでの生活条件は極めて劣悪なものとされた。

 また労働市場が広がり労働力への需要が増えるにつれて、働ける貧困者(able bodied poor)と働けない貧困者(non-able bodied poor)とを区別する必要がでてきた。このため従来はひとまとめにされていた「依存的・逸脱的集団」をいくつかのカテゴリー区分する必要がでてきた。働ける人にまで援助を与え続けることは、当時登場しつつあった市場経済の足を引っ張るものであった。

 しかしながら深刻な問題をかかえる人々はいろいろな施設にうまく適応できなかった。救貧院のルールに従わず、監獄でも困るといわれ、一般の病院も受け入れなくなった。そこで裕福な民間団体が公的な資金を下にマッドハウス(madhouse)といわれるものをつくり、受け入れることとなったが、そこでの生活条件はかなりひどいものだった。

 この時代には進歩的な人々の間で精神保健の新しい理解が広がった。それまでは悪魔が憑いたとか、患者は動物であり人間ではないと考えられていた。しかし狂気は何らかの人間的な欠陥であり、精神病患者への尊厳を持った見方もなされるようになり、また洽療によって改善できるとの見方も生まれた。そこで救貧院やマッドハウスにかわって公的な精神病院(public asylum)を設立する運動が起こった。

 「精神病者対策の改革」(lunacy reform)は当時格好の慈善の対象となり、ウィリアム・ウィルバーホース、シャフツベリー卿、ロバート・セイモア卿、ウィリアム・スミスといったような慈善家が携わった。ベンサムやサムアル・ホワイトブレッドなどのベンサム学派もこの運動に加わった。また当時の地方自治体の長官の中にも加わるものが出てきた。彼らは自治体の責任者であり、社会変化によって生まれる多くの問題に触れざるを得ない。例えば彼らに監獄やワークハウスの監督義務があり、直接これらの精神障害者の状態を知ることとなった。精神病院をつくる運動もまた、病院が精神障害者にとって良い状態を提供していないと批判されることがあった。

 州の精神病院(county asylum)は1828年には議会により正式に認可され、1845年には州に設置義務が課せられた。しかしどうも初めから将来はバラ色ではないと思われてしまった。というのはたちまち精神障害をもたない人でいっぱいになってしまったからである。例えば第3期の梅毒、糖尿病、鉛中毒、あるいは単なる栄養失調の人などによりたちまち込み合ってきた。またほとんどの人が死ぬまでここにいたので、すぐに満員となり、病院を拡充・新設してもすぐまた満員となった。

 この時期、精神病院の責任者たちは精神病には早期治療が必要だと熱心に主張した。患者の状態が良くならないのは病院の責任ではなく、早く患者を入院させなかった家族の責任だと主張した。しかし入院させたくても満床でできなかったと私には思われるのだが。

2.精神医療の誕生

 一般に内科医や薬剤師は歴史的にはあまり精神病者と関わってこなかった。しかしマッドドクター(mad doctor)と呼ばれる医者たちやその他いくつかの種類の医者たちは、私的なマツドハウスを運営していた。この仕事は評判は悪いが金儲けにはなる事業であった。マッドドクターの中には治療して患者の生活を改善しようという熱意をもった者も確かにいたが、その治療法というのは下痢をおこさせること、嘔吐させること、瀉血等であった。成分秘密の着色粉末も使われた。

 狂気についての別の治療法もあった。とくにヨークのウィリアム・ツークが始めた「道徳療法」(moral treatment)がある。しかし19世紀の初めには、薬物が優勢となり、精神病院の普及とともに完全に薬物療法の天下となった。

 しかし、残念ながらこれらの治療法は精神病の治療に成功しなかった。医者たちは多数の患者を収容管理する技術に熟達するばかりであった。医学技術は精神疾患にではなく、たまに患者がもつ身体合併症にのみ役立った。

 1841年には、これら「専門家」が精神病院医師協会(Association of Medical Officers of Asylums and Hospitals for the Insane)を結成し、1853年には定期刊行物「アサイラムジャーナル」を発刊した。精神科医はついに専門職となり、病院内外での権威をさらに高めることとなった。

3.コミュニティケアへの復帰?

 1950年代以降、コミュニティケアに戻る試みがなされてきた。1959年に精神保健法ができ、拘留ではなく自由意志での入院が促進され、必要がないのに入院している患者の減少を促した。また1961年には当時の保健大臣イーノック・パウエル(Enoch Powell)が精神病院の終了とコミュニテイケア政策を予言するに至った。

 1975年には、政府は従来の専門精神病院に代わって地域の保健社会サービスを発展させる政策をとった。

 その後15年くらいそうした方向での努力がなされたが、どうも充分な成果をあげたといえない。私は2年間政府の保健省に所属して全国の精神保健サービスの展開状況を見てきたが、進み具合は地域による差が非常に大きい。ほんのいくつかの地区ではサービスを拡充できたが、他の多くの所では利用者が求めるコミュニティサービスの提供はほとんどなされていない。

 この背景にはいろいろな理由があると考えられるが、歴史的視点からみると非常にはっきりしてくることが一つある。それは200年前にコミュニティケアを破壊した力に相当する力が今日作用していないことである。19世紀初期のウィルバーホースやシャフツベリー卿のような、才覚も影響力もある改革者が今日見あたらない。

 精神病者をコミュニティからまず救貧院に送り、さらにそこから精神病院へと送った経済的な要請は、今日なお生き続けている。この力の作用で公的な財源がどこに差し向けられるかが決められている。今も昔も自助できない人々を進んで助けるような経済法則は存在しないのである。シドニー大学精神医学部のアラン・ローゼン(Alan Rosen)の言葉を借りれば、精神保健サービスの脱病院化は精神病者に対する社会の理解の基本的変化によってではなく、精神病院の運営費の増大と精神病院の欠陥とによって生まれているのである。

 したがって長期入院者が退院して地域生活を始めれば、社会は彼らを価値ある貧困者として受け入れるだろうと考えるのは、やや楽観的すぎる。

4.過去20年間のコミュニティケアの発展

 ローゼン氏の論文などを活用して、近年のコミュニティケアの展開を見てみたい。

 コミュニティケアというのは病院の外でのケアという意味ではない。コミュニティケアというのは、病院と地域における治療とリハビリテーションプログラムを統合したものである。最も成功している例は、オーストラリアのシドニー、アメリカ、ウィスコンシン州のマジソンなどで、リーダーシップと予算確保がうまく進められた結果、患者と共に資金も病院から地域へと流れ、途中で資金がハイジャックされることはなかった。患者とともにお金が地域に移るケースマネージメントができるような仕組みが不可欠である。

 またコミュニティケアというのはバラバラの諸施策から成り立つのではない。それは一定の人口を対象とし、スタッフ付きとスタッフ無しの各種居住施設を持ち、入院(入所)・外来(通所)・デイケアのサービスがあり、家庭訪問活動もなされる完全なシステムでなければならない。早期診断、迅速な治療、ケアの継続、ソーシャルサポート、他の社会サービスとの連携も必要とされる。

 マジソンでは主体性尊重型コミュニティ処遇プログラム(PACT)があり、これはクライシス対応や継続対応を比較的少ない担当ケース数にしてやっている。小さな学際的チームが、患者の家庭で長期に渡って活動する。比較研究によれば、はっきりとPACT経験者の方が結果よく経済的にも効率的である。

 これと同じようなことが、モントリオール、シカゴ、ボルティモア、シドニーなど、大小の都市でなされている。

 シドニーのロアー・ノース・ショアーというプログラムでは、無作為の調査によると、総合的地域ケアと24時間クライシスサービスが提供された場合、入院回数も入院期間も少なくなり、地域社会へかける負担も少なくなるという。臨床効果の面でも入院治療より地域ケアの方が優れており、患者も家族もこれを望んでいる。経済的にも安上がりである。これは13年続いており、マジソンのものはさらに4年古い。

 シドニーの別な地域のライドというところでは、移動クライシスサービス(mobile crisis service)というのがあって、急性期の時期に入院させずに家庭で治療をする。これは入院件数を半減させ、患者・家族からも喜ばれている。重要なことはこのような成果は今ではあちこちの事業でなしとげられており、コミュニティサービスの優位という、以前になされた実験結果を日常的に再確認していることである。

 イギリスのバーミンガムのスパークブルークにも似たサービスがあって、急性期の患者の大多数は家庭で治療できると証明されている。そして24時間体制の訪問評価サービスがあり、症状が家庭で治療できるものかどうかを評価する。地域の精神保健資源センター、照会制度そして活発なフォローアップ事業が加わって一層この事業の効果を高めている。

 イギリスのサウスワークでのコントロール群を設けた調査の結果、ホームケアは入院期間を80%減らし、なおかつ再入院を増やさないことが示された。バッキンガムでは(まだ私の知る限り公式な評価はなされていないが)、家庭医と完全に統合されたサービスが発展している。ここでは家族および個別行動療法と集中的な地域精神保健が統合されている。家族が非常に重要な役割を果たすアプローチもなされている。

 以上のような取り組みに対して提出されている疑問の中には、低入院率の原因は家庭での評価や早期治療によるものであって、24時間サービス体制によるものではないというのがある。たしかに諸サービスの中のどれが最も効果的であるのか、より厳密な調査が必要とされる。しかし総合的なコミュニティサービスの有効性は確かなことである。

 新しいこれらのサービスには共通の認識がある。それは精神保健の専門職だけが専門家なのではないということである。ユーザーやケアする人々もまたよく知っている。ユーザーもよく情報を提供され現実的な選択が可能となれば、方針決定に大いに貢献する。

 1980年代にイギリスでは精神保健ユーザー運動が新たな段階に入り、病棟の中での患者自治会の誕生(ノッティンガムなど)、権利擁護団体の拡充(ミルトン・キーンズなど)、全国協議会の発生(MINDLINKやサバイバーズスピークアウトなど)などによりユーザーの強い明確な声が上がってきた。こうした運動を通じてユーザーや元ユーザーたちは、サービスの政策、運営、評価に影響を与えるようになってきた。

 ランベス精神保健フォーラムのユーザーたちは特に強力である。彼らは地方保健当局と社会サービス部の政策担当者と、その地域の全精神保健施設から50人のユーザーとが3ヵ月毎にサミットを開催するという全く新しい政策立案メカニズムを作り上げさせた。この場合には行政側がユーザーをパートナーとして歓迎し、フォーラムの活動に資金も提供している。しかしユーザー側のエネルギーが常に行政機関からの関与の程度とつり合っているわけではない。

 ロンドン、バーミンガム、リーズには女性治療センター(Women's Therapy Center)が作られた。ロンドンのホワイトシティ・プロジェクトなどの支援団体は、団地などでカウンセリングやグループサポートの活動を行っている。

 全国支援ネットワーク(National Advocacy Network)が最近設立され、1973年に作られた全国分裂病友の会(National Schizophrenia Fellowship)も国中に支部をもっている。

 いくつかの地域サービスでは運営委員会にユーザーの参加がなされたり、サービス活動へのユーザー参加や職員採用面接へのユーザーの参加がなされたりしている。改善しなければならないことは多いが、既存の制度に当てはめるだけでなく、ユーザーが望み、必要とするサービスを創り出すという重要なプロセスがすでに開始されたことは確かである。

 またこの分野で特別な経験をもつ各種のボランティア団体の参加も得るべきである。地域社会の実情をこれらの団体はよく知っており、そうした意見を地域精神保健に活かすべきであり、それら団体の事業活動への補助も必要である。

 イタリアのプラトでは、セルフヘルプ運動への人々の参加を促すために、精神保健セルフヘルプ情報研究センターが設けられた。その目的は全体の傘となるような組織をつくり、そこで情報を共有し、専門家をトレーニングして、セルフヘルプグループの組織が全国的にまた国際的に助け合うことを鼓舞することとされている。

 ユーザー、元ユーザー、家族、ボランティア団体、セルフヘルプ組織、および精神保健専門家の合同セミナーが開催されている。ここでは良いサービス活動のあり方や今後の研究プロジェクトのあり方などが話し合われている。

 セルフヘルプグループのヨーロッパネットワーク(European Network for Users and Ex-Users in Mental Health)も設立された。

5.今後の課題

 多くの専門家たちは、患者にとって役立つケアシステムを作ろうとしつつも挫折を味わされてきた。力を合わせる努力をしながらも時間の浪費に終わることも多かった。これはそうした人々の責任というよりも、システム自体がバラバラで矛盾に満ちており、むしろシステムになっていないからであろう。

 効果的なシステムとしてのサービスの統合が必要とされる。ローゼンが指摘するように、一定の圏域での精神保健システムが効果的であるためには、少なくとも2つの方法で、かついくつかのレベルでサービスの統合が必要とされる。

 すなわちサービスの統合は時間軸に添って統合されねばならない。また各時点においていろいろな種類のサービスの間での統合がなされなければならない。

 そして統合のレベルには次の5つが含まれる。

 第1に、一定の圏域での精神保健サービスの行政・財政・サービス実施の統合。例えば、予算は末端で直接サービスを提供している人々の所へいくようにしなければならない。

 第2に、急性期治療とリハ、病院と地域ケアの統合。

 第3に、個々のユーザーや家族へのケースマネージメントレベルあるいはキーワーカーレベルですべてのサービス要素を統合すること。

 第4に、サービス提供者、ユーザー、家族、およびセルフヘルプグループの間の参加と協力。

 第5に、地方の一般保健サービスや社会サービスとの統合と連携。地域の一般的なサービス、住宅サービス、社会福祉、所得の援助、レジャープログラム、職業プログラムなどが統合されねばならない。

 また今日どのような力が変化を促しているかを知る必要がある。今後20年間で最も重要な要素は、保健サービスを買うという概念と、ユーザーパワーの成長という2点ではないかと思う。従って保健サービスにしろ社会サービスにしろ、自分が本当に必要とするサービスは何かを判断できるように購入する人に援助が提供されねばならない。

 最終的な決断はユーザー自身が下すのが最も良いということが共通理解となりつつある。友人やセルフヘルプグループの援助で次第にその決断が下せるようになってきた。専門職員は良い聴き手となることを学ぶ必要がある。

 150年以上も前に精神障害者をコミュニティから追い出した力に対抗する力を獲得するためには、我々には共に協力して行うべきかなり大きな仕事があると思う。

(訳 佐藤久夫)

ロンドン大学キングスカレッジ、精神保健サービス開発センター所長


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「リハビリテーション研究」
1994年3月(第79号)11頁~15頁

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