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震災5年目にも必要な被災者への支援と提言

社会福祉法人日本盲人福祉委員会評議員、災害担当
元 東日本大震災視覚障害者支援対策本部事務局長
加藤 俊和

1.今も求められている支援

 社会福祉法人日本盲人福祉委員会(日盲委)では、4年が経過した時点から、これまでに支援してきた被災地の1,455名の視覚障害者の状況把握とその中で何らかの支援が必要な人への訪問支援に取り組んでいる、まずは状況の把握のため、岩手県・宮城県・福島県の沿岸部被災地に居住していて、発災後に日盲委に支援を求めていた視覚障害者810名への追跡電話連絡を行った。また、今後の支援方法を探るため、電話連絡ができなかったり訪問の必要な石巻市の視覚障害者34名を対象とした現地訪問も実施した。
 これらの活動の中で、個々の状況は大きく異なるが、今も専門的な知識に基づく継続的な支援の必要な方が少なくないことが明らかになった。日盲委では、継続した支援を地元の支援に結びつけるなどの活動を可能な限り行っていく予定である。

2.東日本大震災の当初の視覚障害者支援

 東日本大震災勃発当初の支援では、専門支援員が避難所を回っても視覚障害者をほとんど見いだすことができなかった。併行して進めていた各地の当事者団体名簿及び施設利用者リストの入手については個人情報の扱いから困難さはあったが、組織として実績のある日盲委を前面に押し出して扱うことで各県をはじめ各機関の理解を得ることができ、最も関係リストの多い各県の点字図書館の利用者など586人のリストを元に訪問援活動をおこなった。支援に当たったのは、全国に参加を訴え募集に応じた50名の歩行訓練士や相談支援員ら、視覚リハビリテーションの専門家であった。
 その結果、4月末までの1か月半の間に支援したのは3県の236名となり、障害者の中では相当高い比率の直接支援ができたと言える。しかし、沿岸部被災市区町村の1・2級視覚障害者だけでも約6千人であり、その中の1割強のリストであり、8割以上の視覚障害者についてはつながりのないままとなっていた。

3.“把握されていなかった多数の視覚障害者”の存在と支援の実施

(1) 把握されていなかった“8割以上の視覚障害者”の存在

 団体にも属さず点字図書館等も利用しない、8割以上の「潜在化している視覚障害者」の大部分は、「中高年で視覚障害となった人々」である。健常者として数十年もの間ずっと「普通の生活」であった人が視覚を失っていくと、聴覚などに頼りきりになる生活など思いもよらないため、「全てのことが何もできない」絶望的な状態になってしまう。個人差は非常に大きいが、年齢を経ての受障ほど受け入れが困難な状態が、数年どころか10年以上も続く人も多い。そのために心理的なケアを含めた専門的なケアが必要となっているが、多くの人々がそのままの状態で、“中途障害を乗り越えられず絶望の中”の人たちが多数存在していることが、視覚リハビリテーション関係者などにはよく知られていた。そして、この惨めな姿を知られたくない、家族などに迷惑をかけたくないという多くの中途視覚障害者が、周囲に対して視覚障害者であることを隠して生活しているのである。

(2) “8割以上の視覚障害者”への支援の実施

 震災から3か月以上を経てから、「県当局から、沿岸部の1・2級視覚障害者全員に資料を送付し、要望は日盲委が直接受け取る」という、行政の個人情報開示に抵触しない方法で、これまでつながりのなかった6倍以上の1,455人を支援するという、画期的な支援を行うことができた。
 その送付資料も、連絡しやすい配慮をして、日盲委が作成した。もう数か月を経ているので、要望はわずかだろう、との県当局の予想に反して、支援の要望は続々と日盲委に寄せられはじめ、最終的には、3県沿岸部で送付が届いたとみられる約4千人のうち3割をはるかに越える1,455人もの視覚障害者が支援を求めてきたのであった。
 その中で、7割もの方々が要望されたのはラジオと時計であった。また、被災後1年も経てから市からの送付がやっと届いて白杖を要望したという方もけっこうおられ、それまであり合わせの棒で過ごされていたという例も続出した。このほか、音声の体温計や血圧計など健康機器の依頼も多く、長期にわたる体調管理の大変さが感じられた。支援の連絡先としていた携帯電話には、多くの方々が「聞いてもらっただけでもありがたい」「いつでもつながる、いつでも話せる」「こんな支援が震災直後からほしかった」など非常に多くの声が寄せられていた。
 さらに、衝撃的だったのは、「音声時計がどんなものか知らない」が43%、「日常生活用具の制度そのものを知らない・使ったことがない」が56%という状況も明らかになったことである。各地の行政担当者はすべて「手帳交付時に伝えていた」と答えていたが、「中高年からの中途視覚障害者」への情報提供については、資料を読んでもらって記憶していくことは困難であり、伝え方の工夫もできていないことが分かっている。

4.生活不活発病と障害者

(1) 被災地の高齢者が“生活不活発病”に

 “隠れた多数の障害者”では顕著であるが、地域でのコミュニケーションが困難で外出の機会が激減し、身体・精神の活動が停滞して生活不活発病になりやすいことが明らかになってきている。これは視覚障害に限らず、多くの他の中途障害者にも共通することが多いことが懸念されている。
 生活不活発病というのは、「特定の器官を長期間動かさないことで生じる障害」のことで、医学的には廃用症候群と呼ばれているが、産業技術総合研究所招聘研究員の大川弥生氏は、この語のマイナスイメージを避けて「生活不活発病」とされている。大川氏は、新潟沖地震のときから災害時の生活不活発病について警鐘を鳴らし続けてこられた医師で、東日本大震災でも南三陸町で高齢者の生活不活発を防ぐ対策をとってこられたことでも知られている。
 日盲委では、2015年11月2日に東京で大川氏の講演を含むシンポジウムを開催し、100人余の参加を得た。
 大川氏は「災害時の新たな課題である『防ぎうる生活機能の低下予防』」を震災直後から現在まで検証する」と題して強く訴えられた。災害まで高齢者も日常生活の中で多くの人が何らかの活動に参加して身体を動かしていたが、災害によって、それらの「やること」がなくなってしまい、避難先でどんどん身体を動かさなくなっていくこと、それぞれの日常生活の中に如何に身体を動かす取り組みを入れていくかを、実例をまじえて熱演された。たとえば、いろいろな災害関係のイベントにしても、せっかく日常生活の中での「動き」となっていた時間帯に“一時的なイベント”で中断してしまい、マイナスになっているものも少なくないこと、「毎日何らかの役割なり活動なりをすること」がないと、身体は動かさない方向へとどんどん進んでしまう、と警鐘を鳴らされた。

(2) 障害者が陥りやすい“生活不活発病”の実例

 例1:外に出てもしゃべる相手がいなくなったり、 外出の機会がなくなった。家の中でもすることがないので身体をあまり動かさなくなった。体力が弱り、食欲も低下してきた。一日中同じ場所での生活が増え、寝床にいることも増えてきた。
 例2:元漁師で大震災前は何らかのことはしていた。しかし、仮設住宅に移ってからは何もすることがなく、じっとしていた。ときどきカセットテープで好きな演歌を聴いている。訪問したとき、1時間余りの間ずっと、身体をまったく動かされず、両足ともむくんでいたため、歩くことにも支障があると思われた。積極的に支援しないと、歩けないままの可能性が高い。
 これ以外にも、“軽い仕事”がなくなった、近所の作業分担がなくなった、わずかな畑の作業もなくなった、家事分担がなくなった、認知症が進んだ、などもあった。

5.東日本大震災の教訓と必要な取り組み

(1) 東日本大震災では多数の「高齢者と高齢の障害者」の犠牲

 阪神淡路大震災の視覚障害者の死去は18人で、犠牲者中の障害者比率は人口比とほぼ同じであった。これは、災害発生時間が早朝で家族全員が在宅時間であったことと、災害の発生が瞬時で「逃げ遅れ」などはあまり発生していないことなどによる。
 一方、東日本大震災では、視覚障害者の死去はほぼ100人で、関連死は不明である。犠牲者総数のうち、高齢者は54%であり、障害者は同一年齢構成比較では平均約1.4倍である(県平均等との単純比較の“2倍”は意味がない)。これは、災害発生時間帯が、仕事・学校・買い物などの外出時間帯であり、自宅には高齢者や障害者の在宅比率が相当高い時間帯だったからである。障害者の犠牲者を少なくするには、いまや大多数を占めている「高齢の中途障害者」の避難対策をしないと、犠牲者は減らせないことを示している。

(2) 現在の要援護者登録の限界

 緊急時に、限られた人数の消防機関や民生委員等の避難等関係者だけで多数の要援護者を避難させることは事実上不可能である。さらに、現在の災害時要援護者登録では、「平常時に情報提供ができる」のは本人の同意を得た場合に限られている。
 8割以上の「潜在化している視覚障害者」の存在は、「本人の同意」が得られない障害者が相当数存在することを示しており、さらに、南相馬市の実例が示すように、支援の必要な障害者等の存在を近隣の人々も知らないまま、取り残されてしまった要援護者が多数存在したことも事実である。

(3) 平常時から近隣での情報の共有を

 これらの人々の生命を守るには、「この家には助けないといけない人がいる」という情報だけは、平常時から近隣で明確に共有することが不可欠である。これは生命の危機の個人情報保護除外規定であるとして全国に徹底させる必要がある。そのときには、個人情報の生年月日などは必要ではなく、「避難に必要な限定された情報」の近隣者の共有である。
 なお、生命を守るために欠かせないのは「持病の薬」である。持ち出しができなくて避難後の生命に関わるようなことも発生している。

(4) 発災後は速やかに障害者情報の提供を

 東日本大震災の視覚障害者支援では、直後の支援では知ることができなかった6倍もの障害者の支援を3か月後から行うことができた。しかし、このような支援も、「身体障害者手帳所持者」のリストが、発災直後から適切に提供されておれば、もっと効果的に支援できたはずである。
 今後は、発災直後からすぐに情報管理ができ、適切な生活支援者の派遣もできる、信頼のおける団体が平素から準備を整えることが必要である。
 また、「避難行動要支援者の避難行動支援に関する取組指針」(内閣府 平成25年8月)などでは、例示として「要支援者」の障害程度は「身体障害(1・2級)」などとされているが、軽度とされている障害者であっても、また、障害者手帳を有していない多くの障害者が存在することも踏まえての災害支援が必要である。

(注)東日本大震災にあたっては、日盲委に「東日本大震災視覚障害者支援対策本部」を設置し、日盲委を構成する中央3団体及びそれぞれの地域の施設・団体・学校のほか、点字図書館等が加盟する全国視覚障害者情報提供施設協会、東北に唯一の視覚障害者のリハビリテーション施設を持つ日本盲導犬協会、相談専門員が多く参加する視覚障害リハビリテーション協会の3団体が運営委員会を構成して全面的に協力した。
 社会福祉法人日本盲人福祉委員会(日盲委)は、当事者団体である日本盲人会連合(日盲連)のほか、関係施設が加盟する日本盲人社会福祉施設協議会(日盲社協)、および教育界の中心となっていた盲学校長会を大同団結した、わが国における総括的視覚障害関係の中央団体として大きな力を持ち、現在の障害者福祉の基礎となる数多くの成果をあげた。日盲委は京都府立盲学校副校長の鳥居篤治郎が、大正時代からの盟友であり、わが国の盲人の父と呼ばれていた岩橋武夫病没後、日盲連2代目会長となり、1955(昭和30)年に設立し、1960(昭和35)年に社会福祉法人として認可された。