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障害者救援活動の終了と解散を迎えて~インクルーシブな地域社会へ、ともに

東北関東大震災障害者救援本部
代表 中西 正司

1.障害者救援本部 活動の経過

 東日本大震災の発災から4年が経過した2015年3月、東北関東大震災障害者救援本部は、『緊急支援』の役割を終えたと判断し、東北被災地での活動を終了した。そして2015年度を総括の1年と位置づけた。
 2011年3月11日、震災が発生した直後に、故・三澤了DPI日本会議元議長から「救援本部を立ち上げよう」との連絡を受け、直ちに活動に入ったときの緊迫した状況が、今でも思い起こされる。早急かつ継続的に必要な支援をするべく、DPI日本会議、全国自立生活センター協議会、ゆめ風基金、その他多方面の支援団体の協力のもと東北関東大震災障害者救援本部(以下、救援本部)を立ち上げた。阪神淡路大震災の被災経験や支援経験、そして重度障害者が地域で自立生活をするために作り上げた全国のネットワークを活用すべく、東京と大阪に事務局を設置し、東北地域の自立生活センターや他団体と連携し、被災障害者の支援活動を開始したのは3月17日。まだこの震災が「東日本大震災」と正式に命名される前のことであった。
 救援本部事務局では、震災から約1か月間は、物資の調達や発送に追われつつ、被災地の障害者に関する状況の問い合わせや、支援金・助成の申し出が全国・世界各国から届き、それらの対応と情報発信を行ってきた。支援金協力の呼びかけに対しては、多くの賛同をいただき、個人・企業からの寄付、そして自立生活センターをはじめとする障害者団体による街頭カンパ活動、イベント等の収益金、物資提供など、全国各地・世界各国から温かいメッセージとともに寄せられた。4年間で救援本部へ届いた支援金は延べ4千件・1億4千万円を超え、助成金等を含めて約3億6千万円が救援本部の活動を通して被災障害者への支援に活用された。あらためて深く感謝申しあげるとともに、皆さまの支援・協力なくしてはこの活動はでき得なかったことをここに明記しておきたい。
 4月初旬には、宮城・福島・岩手の順に支援拠点となる「被災地障がい者センター」(以下、被災地センター)を設置し、安否確認、救援物資の配布、ニーズ調査、ボランティアの派遣、介助・送迎・相談などの個別支援、情報収集・提供・発信、といった活動をスタートさせた。活動拠点は徐々に被災沿岸部へ広げ、2012年度末時点で連携団体を含めて、岩手県には宮古市・大船渡市・釜石市・田野畑村、宮城県には南三陸町・登米市・石巻市・気仙沼市・山元町・亘理町、福島県は郡山市のセンターを中心に県内の自立生活センター等障害者団体との連携が確立された。そして東京事務局においては、いわきからの集団避難の受け入れや、依然として収束の見えない原発事故による長期的な避難・移住のための支援にも追われることとなった。

拠点の地図
救援本部・拠点地図

2.新たな地域の『社会資源』へ

 刻々と変わる状況やニーズに対応すべく、常に手探りの状態で活動してきた1年間を経て、緊急支援の時期を過ぎ、個別支援が中心となった2年目からは、被災地での新たな『社会資源』を目指しての試行錯誤が始まった。救援本部では、各被災地センターによる「持続可能な支援」を確立するための後方支援として、積極的に現地への訪問や意見交換の機会を持ち、事業化に関する方針や資金管理等の団体運営をサポートしてきた。
 担い手育成という面では、地元スタッフの研修を重視した。「タケダ・いのちとくらし再生プログラム(日本NPOセンター)」の助成をいただき、福祉サービスに関する資格取得、運営や障害者支援に関する講習会への参加のほか、全国各地の先進的な活動を行っている団体、事業所、施設への見学を行うことで、障害者が地域で生活することのイメージをより具体的に持つことや、障害当事者の声を聞く機会を持つことを重視した。
 利用者・行政ともに在宅サービス利用等「地域で生活すること」に対する意識が低いとされる地域において、各被災地センターは、独自のニーズ開拓により、法制度内外に関わらず、必要とされる支援を柔軟に行うのと併行して、NPO法人格の取得や新拠点事務所の建築、事業受託などを進め、事業化への方向性を探ってきた。現在、沿岸部に設置した被災地センターのうち、宮古・大船渡・南三陸がNPO法人化し、センターふくしまが運営する「サロンしんせい」、AJU自立の家(愛知県)が設置した拠点のセンターかまいしもNPO法人格を取得した。そして、宮古は生活介護、大船渡は就労継続支援B型、南三陸は児童デイサービスといった法上の福祉サービスを主軸とした活動をスタートさせている。
 地域に根ざした事業展開へ向けて最も早く動きだしたのは、被災地センター南三陸(現:NPO法人奏海の杜)であった。さまざまな支援活動に取り組み模索する中、2012年夏に始めた障害児の日中預かりが大きなきっかけとなり、子どもたちが自由にのびのびと過ごせる場を提供することにより、その家族が安心して生活や仕事に向かえる環境づくりを支援すること、そして障害があっても当たり前に暮らせる南三陸の実現のため、障害児向けの福祉サービスの展開を目指した。
 2013年2月にNPO法人格を取得したことにより、2013年度からは日中一時支援事業(南三陸町)、2014年度からは放課後等デイサービス事業(登米市)、相談支援事業(南三陸町)、日中一時支援事業(登米市)下での事業収入を得るようになった。2015年4月からは南三陸町の福祉仮設の管理運営も受託し、現在スタッフは約20名に。そして、活動当初からの念願であった南三陸町での拠点整備は二転三転し続けながらも諦めず、2015年6月、ついに南三陸町入谷地区の新拠点において、放課後等デイサービス事業を開始させることができた。
 奏海の杜は、4年をかけてやっと準備が整った。まだ事業収入のみで安定した運営を行うには至らない。これから本番を向かえる奏海の杜、そして同様に新たなスタートを切った各被災地センターの『社会資源』としての活躍を、引き続き応援願いたい。

南三陸の新拠点となる建物の外観
2015年6月にオープンした南三陸の新拠点

3.被災地での『移動』

 仮設住宅の多くは、津波の被害が大きかった市街地から離れた郊外や高台に建設された。そして、被災により多世帯住居が離散し家族による送迎ができなくなった、長引く避難生活により障害が重くなった、被災による生活困窮、地域の互助機能が著しく低下してしまったなど、さまざまな原因により、通院や買い物へ向かう手段のない障害者や高齢者等の移動制約者にとって、日常生活における『移動』の確保は非常に重要度が高い問題となった。
 救援本部では、2012年にアメリカ・ボーイング社による支援を受け福祉車両の整備を行い、各被災地センターによる移送支援の対応を進めた。いち早く移送支援の活動に大きくシフトしたセンター大船渡では、月平均利用者数100名、月平均送迎回数150回を2人のスタッフで対応し続けた。また各地の事業所への委託協力を依頼し、被災地センターとの連携や救援本部からの資金提供などにより、いずれも地域の課題に即した移送支援の提供を行ってきた。さらに、災害直後から移送支援に特化した活動を続けている「移動支援Rera」(石巻市)へは、資金援助・運営支援と合わせて、『移動』に関する状況の把握や問題解決のための協力体制を組み、協働での意見提起などを行ってきた。

移送支援の様子
センター大船渡は「NPO法人センター123」に

 公共交通機関の復旧は徐々に進み、BRT(バス高速輸送システム)が導入された地域では、真新しいノンステップバスが走っている姿が見られる。しかしながら、復興と共に『移動』に関するニーズは徐々に減るのではないかという予想は覆された。住環境が急激に変わった被災地で、行政や交通事業者のみの力で十分な交通をカバーするには限界がある。大幅に遅れている復興住宅への転居と仮設住宅の解消、それと並行する公共交通機関の整備……より身近な地域での『移動』が確保できない現在の状況では、移送支援のニーズが減ることはない。現在もなお必要とされる移送支援の利用者は、実に8割以上が通院を目的としており、日常生活における最低限の移動を確保するためのまさに『ライフライン』と言える。
 この間、大規模災害への対応といった内容も含まれた交通政策基本法をはじめ、交通に関する法律や制度の改正が目まぐるしく行われた。しかし、制度改正を活用し、被災地域での移送支援をより円滑に、安定的に行っていく形を作ることは、実際に現場で活動している団体や地域住民の力では難しく、行政も含めた協働が不可欠である。大規模災害時には、被災地特有の『移動』の問題を考慮し、交通弱者に対する移動手段を確保することを念頭に入れた交通の復旧・復興を進めること。そして、福祉施策とは別にNPOや住民による移送支援活動等を考慮し、国の制度として無料または安価の公共交通の補償を検討すべきであると考える。そして、目の前のニーズに応える支援とあわせて、次にいつ起こるかわからない大災害時に備えること、公的な制度の枠組みに移動の保障を入れること、ノウハウを広く残すことも、残された大きな課題である。

4.私たちの『声』を復興に、これからの災害対策に。そして、ひとりでも多くの人に伝えるために。

 私たちは障害者をはじめとする災害弱者と言われる人々が、必要な支援を得ながら社会参加をし、さまざまな関係をもって地域で暮らせるインクルーシブなコミュニティこそ、真に災害に強い社会であると考え、「要望・提言活動」を活動のひとつに据えた。被災地の状況が刻々と変化するなか、国の復興対策・計画についても、怒涛の勢いでさまざまなことが検討され進められようとしている状況下で、さまざまな機会において意見提起を行ってきた。緊急対策としては、迅速な安否確認、要援護者等の個人情報開示、緊急情報やテレビ報道における情報保障、避難所・仮設住宅設置におけるバリアフリー対応、電源・医薬品・ガソリン(移動)の確保、障害者福祉サービス提供における柔軟な対応および国からの財政支援や自治体・事業者への情報提供を中心に、JDF総合支援本部をはじめ、震災支援に携わるNPO等と積極的に連携し、要望活動を行った。長期的な支援対策については、東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)等の働きかけにより2014年に設けられた「復興事業に係るNPOと関係省庁定期協議」へ参加し、ニーズの高い移送支援に関する課題や、福島における障害児者に対する内部被ばく検査の未実施の問題について意見提起を行ってきた。
 また、センターみやぎでは、安否確認のあり方、個人情報の取り扱い、要援護者登録、仮設・復興住宅、避難所・福祉避難所の位置付け・運営・バリアフリー化に関することについて、実情に即した仕組み、対応を求めた要望書・質問書をまとめ、2012年より仙台市との話し合いを続けてきた。2013年より福島県内の団体が集まり開始された「障がいを持つ人の防災研究会」では、「障がいを持つ人の防災提言集」を2014年7月に発行した。ここでは、『原発事故と障害者』を焦点に合わせ、自然災害への防災計画・避難訓練が必要であると同様に、原発がひしめき合う日本において、原発事故防災計画と避難訓練が必要だということが大きなテーマとなっている。

にょきフェスの様子
障害のある人もない人も一緒に楽しむ光景を石巻でも!
2014年7月に開催したにょき“フェス”

 また救援本部では、提言活動と併せて、映像、書籍、報告書と、さまざまな形で障害当事者の被災体験や、支援者としての声・経験を発信してきた。
 映画『逃げ遅れる人々-東日本大震災と障害者』は、当事者の声を記録すること・伝えること、そして「何があったのか、忘れてはならない」との想いから、2011年6月から映像製作がスタートし、2012年12月に完成した。新聞・テレビ等でも大きく報道され、2015年3月に仙台市にて開催された第3回国連防災世界会議ではパブリックフォーラムにおいて、タイトルを『Left Behind』とした英語字幕版を上映した。聴覚障害者向けの字幕・視覚障害者用の副音声がついたDVDは2015年6月現在、1,800枚を販売し、全国各地で行われた上映会は救援本部で確認できているもののみで100回を越えた。今もなお問い合わせが続き、上映会が企画され続けている。
 そして、救援本部の活動を終了するにあたり、被災障害者の実態を描いた書籍「そのとき、被災障害者は…~取り残された人々の3.11」をいのちのことば社の協力のもと、2015年3月に出版した。これまでに各地で開催されてきた震災や原発を問う集会やシンポジウムにおいて報告された障害当事者や支援者の声をまとめたものであり、避難所や避難先での理不尽な状況の報告、家族や福祉・医療関係者たちからの試行錯誤の支援の様子が綴られ、出版直後から多くの反響をいただいている。
 また、同年10月には救援本部の4年間の活動をまとめた報告書を発行し、総括としての提言を取りまとめ、報告・解散集会を2016年2月17日に衆議院議員会館にて開催した。

 私たちはこの震災を経て実に多くの問題に直面した。阪神淡路大震災の教訓は活かされなかったのかどうか、またこれからの災害へはどのような備えが必要なのか、改めて検証する必要がある。災害時に起きる問題の多くは、潜在的にあった地域の課題である。災害弱者と言われる人々の固有の状況やニーズに配慮した災害対策、障害者目線による防災対策は、東日本大震災の教訓として、引き続き取り組んでいく。そして、救援本部が発信してきたひとつひとつの『声』が新たなネットワークの広がりのきっかけとなり、次の災害時に活かされることを強く願う。

4年間の活動をまとめた報告書の表紙と写真のページ
4年間の活動をまとめた報告書は、気軽に手に取れるデザインに。ぜひご一読ください