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南相馬市を中心とした支援活動 ~地域での暮らしを支えるために~

JDF被災地障がい者支援センターふくしま 南相馬支援チーム
古賀 知夫

 南相馬市は、原発から10キロから40キロの範囲に含まれ、7万人を超す人口があった沿岸部の街である。原発事故直後に、避難地域・自主避難地域・指示が出なかった地域の3つのエリアに分かれたが、しかし、6万人を超す市民が避難した。残された市民に多くの高齢者・障害者がいた。
 震災直後には、運送機能がマヒする中、単発的にガソリンや物資支援が全国の障害関係者から寄せられた。4月に入り、南相馬に残っていた障害者事業所「デイさぽーと ぴーなっつ」の関係者が、取り残された障害者・家族を支えていくために事業所再開を決断された。再開地は、自主避難地域であり、当初福祉施設を再開してはいけない所だった。しかし、当事者が生活している実態があり、再開を切望している思いに応えていくこととなった。このとき、支援スタッフがいないというSOSが支援センターふくしまに入り、緊急の事態に対応していこうと全国から駆けつけてきた支援者を2名派遣していく活動を開始した。事業所の整理、利用者支援、支援物資の整理と配布などの活動だった。まだ、継続的支援がほとんど地域に入っていない時期での取り組みだった。

南相馬市の障害者実態調査

 4月下旬、行政から要援護者となる障害者の避難計画を作るための調査依頼が「ぴーなっつ」にあり、支援センターふくしまに協力要請があった。支援センターとして協力するなら、すべての障害者を対象とし、所在確認、緊急生活ニーズへの対応、メンタルケアなどを位置づけることとし、行政との話し合いを行い、1,139名を対象とした調査活動がスタートした。
 この活動は、重度障害者を対象とした第1次調査、中・軽度の人を対象とした第2次調査を6月までに終わり、不在であったところに2回、3回と追跡訪問した第3次調査活動が終了したのが、9月末だった。全国各地から延べ600名を越す事業所職員が調査員として協力した。8月末には、南相馬市に報告書を提出した。

この調査は、いくつかの特徴を持っていた。

  • 震災から1か月以上たち、原発事故が重なり、今後の方向性が全く見出しづらい状況下にあり、障害当事者やその家族の抱える悩みやニーズも複雑であり、個別性をきちんと把握することが必要であったこと。
  • 家族・地域環境やそれまでの福祉制度の状況なども絡んだ中での生活の困難さがあり、環境面の把握が必要であったこと。
  • 調査員は県外からの人間であり、いわゆる部外者的位置にあり、特段の配慮が必要であったこと。
  • 震災や原発事故後、初めて被災体験・避難体験を第三者に話す人が多く、気持ちのさまざまな揺れやさまざまな感情が表出され、その受け止めには十分な配慮が必要であったこと。

 こうした中で行った調査活動は、大きな成果や意義もあった。

  • 災害直後の安否確認・所在確認を実施できたということは、生命・身体に対する危険の状態把握という最も重要な取り組みであったこと。
  • 厳しい避難体験をした直後の調査ということで、避難計画づくりや要援護者名簿づくりにおいて、体験に基づいた避難計画づくりにつながること。
  • 震災直後で、困難な生活実態や情報不足、相当な不安を抱えた状態とニーズの把握ができたこと。さらに緊急の場合、地元関係機関につなげたこと。
  • 地元社会資源の再開支援や相談員も含めた地域の中でのネットワークづくりを推進できたこと。

 などがあげられる。

事業所への支援のスタート

 調査活動を進めていく中で、日中の場の支援を必要とする声が広がっていった。その声は、閉鎖された事業所の再開を求めていく声となっていく。しかし、事業所を再開しようにも決定的にスタッフがいなかった。とりわけ、子ども抱えた中堅職員のほとんどは市外に避難していた。9月に日中事業所の利用者・職員調査を行い、利用者は増え続けているが、職員が決定的に不足している実態が浮き彫りになった。JDF支援チームとしては、事業所立ち上げへの支援と職員不足に対して、恒常的支援員派遣を行った。その年の末では、5事業所に毎週5人の支援員を派遣し、人員不足の補いと経験のない支援員へのサポートなどを行った。
 さらに日中事業所の再開が進む中で、通える場が確保され、障害者の生活が大きく変わり、少しづつ前向きの気持ちが広がる。一方で、原発事故の影響で、仕事ができなくなったり、仕事が減ったりと活動内容に大きな課題が出てきた。仕事起こしは、緊急の課題となる。そうした中で、支援センターも入って関係者が集まり、南相馬市を中心とした仕事起こしを目的とした「南相馬ファクトリー」が立ち上がる。そこから缶バッチづくりの仕事が始まる。助成団体の支援をつなぎ、全国から支援に入ってきた支援員に販売促進の中心を担ってもらったことで、全国に広がっていく大きな原動力となった。
 2年目を迎える中で、現場支援は、毎週5人派遣していく形が継続された。一方で、支援センターが行った事業所調査で明らかになった職員不足の問題に福島県としても対応することとなる。職員不足の現状把握と運営相談、職員募集と事業所とのつなぎを目的としたマッチング事業を、支援センターふくしまが受託することとなる。その事業に対して、全国から1~2か月単位で専従職員として人員派遣を組織したり、県外コーディネーターとして1名派遣することに協力していく。この取り組みは1年続いた。

3年目からの取り組み

 3年目を迎えるにあたり、職員不足への緊急支援として毎週現場に人員を派遣していくやり方は、いったん終了した。代わりに、現地では経験の浅い職員さんや年配の職員さんが増え、職員の数はそろいつつあったが、一方で現場をまとめるべき中堅職員がほとんどいなくなった状況があり、現場に混乱が生まれていた。職員や管理者の人たちの中に精神的な疲労がたまっていく。そうした現状に対応していくために5人の固定メンバーチームを2組作り、2か月に1回1週間支援に入っていく形を新たに作った。支援の目的は、あくまで地元の主体性をベースとして、職員研修や日常的な支援や運営上の悩み相談などに応えていくこととした。主任さんたちとの打ち合わせを行いながら現場職員交流会を3回企画した。まだこのころは、集まりをもっても言葉少なく何をしていいかわからないという雰囲気だったが、とにかく集まり、少しでも悩みを出し合うこととした。
 4年目に入ると地元関係者の力にもっと依拠した活動に変えていくことを目的とした。固定メンバーチームは1組とし、3か月に1回4泊5日の支援のやり方に変えた。主任さんたちの集まりを定例化し、そこで職員交流の企画内容を決め、なるべく自分たちで運営していくやり方に変えていった。現場職員交流会も毎回20名を越す参加があり、段々悩みから質問や意見などが出てくる場面が確実に増えてきた。主任さんたちも司会やまとめの作業を担う経験を積み重ねた。さらに横の交流が確実に増えた。所長レベルの集まりもスタートさせた。
 5年目には、研修会参加がなかなか組めない中で、研修継続の希望が地元から強く出された。現場職員さんの方は、意見発表の機会を増やし、学習の時間を増やすやり方に変わってきた。主任さんレベルでは、制度・支援・運営のあり方や各事業所の課題などの学習と経験交流を進めた。日常的な現場運営は、主任さんたちがしっかりと担う現状に変わってきた。所長さんたちの集まりでは、南相馬全体の状況整理と課題整理の話を進めた。なんとか手をつなぎ、一緒に動ける形が取れることを目的とした。

さいごに

 震災・原発事故から5年が経つ。少しづつであるが、地元関係者の力で日中の場や暮らしの場の取り組みは広がってきた。しかし、大きな方向性は全く見えない。原発事故という経験したことのない未曾有の事態に対応した支援活動は、手探りの中での活動だった。放射能の影響で未だ踏み込めない地域があり、相当数の若い人たちが市外に流れていき、将来がどうなっていくか全く見通せない情況の中、目の前の問題を少しでも解決していくことを、地元の人たちと話し合いしながら進めてきた活動だった。