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アメリカ合衆国の高等教育機関における障害学生支援サービス

モンタナ大学障害学生サービス部部長
AHEAD(高等教育と障害者協会)次期会長
Jim Marks(ジム・マークス)

私が初めて出会った障害学生は、怒れる男だった。新しい仕事について静かに思いをめぐらせていた私は、オフィスのドアをノックする大きな音にハッと我に返った。それは1988年のことで、私はそれより少し前に、モンタナ大学障害学生サービス部のコーディネーターとして雇われたばかりだった。

そのとき私は、障害学生が利用できる支援がいかに少ないかについて考えていたと記憶している。障害学生サービス部には、週3時間勤務の学生アルバイトである私しかおらず、オフィスにはほとんど何も備わっていなかった。地下の宿泊室を改装したオフィスにあったのは、使い古しの木製の机が1つと、壊れそうな椅子が1つ。書類棚の中で使いものになる資料は、引き出しの4分の1にも満たず、物置にはポスターカラーと厚紙しか入っていなかった。コンピューターすらなかった。

オフィスのドアには、教科書が読めなくて腹をたてている若い男が立っていた。男は私に、私の前任者が録音図書を手配する約束をしていたと告げた。そして、自分には学習障害があるので、読むのが極端に遅く、また困難であるが、録音図書を聞きながら印刷された文字を読めば、読んでいる内容を理解でき、大変な努力を要する大学での膨大な量の読書をこなしていくことができると語った。

私はその学生に、魔法のようにすぐにしてあげられることは何もないが、彼が必ず同級生と対等に読むことができるように協力していくと話した。それには多くの支援と時間とが必要だが、彼が辛抱強く待ち、また私と一緒にやっていく意思があるのなら、かなえられるだろうと説いた。そして私は、適格障害者にとってモンタナ大学を確実にアクセシブルで利用しやすい大学にする活動に、本気で取りかかったのである。

その学生の期待に応えられるようになるまでに、およそ2年かかった。私たちは、期待される成績を収め、またそれを超えるために必要な、十分なアクセスを彼に認める障害学生支援を徐々に獲得し、適用していった。これを成し遂げるためには、いくつかのツールが役に立った。印刷物を読めない障害がある学生のための録音図書館であるRFB&Dの録音図書を使用し、またコンピュータースキャン、読み上げソフト、朗読者、その他のツールも使用して、印刷物へのアクセスを得るための多様な手段を備えたツールボックスとしてまとめた。学生は読むことと聴くことを同時に行い、そのコンビネーションは、確固たる学習基盤として定着した。学生への支援は、大学だけでなく、モンタナ州職業リハビリテーション局からも提供された。リハビリテーション局は、学習や支援技術の使用に必要な、財政支援や技術支援をはじめとする多くの方法で、学生を支援してくれた。大学側がアクセシブルな学習環境を保証する一方で、リハビリテーション局が成功を収めるために必要な個人的な支援を提供してくれたわけである。その結果、彼は教師の資格を取り、卒業することができた。

この学生とはその後連絡が途絶えてしまった。しかし10年ほどたって、私のオフィスのドアを再びノックする者がいた。

「どうして大学に来たんだね?」私はこの元学生に尋ねたのを覚えている。彼は教職志望者のための就職相談会に参加しに来たのだと答えた。彼は立派なスーツとネクタイを身につけ、有能なプロとしての威厳を醸し出していた。もちろん私は彼が仕事を探しているのだと考えた。そうではない、と彼は言った。

「私はモンタナ学区域の教育長なのです」と彼は言った。そして、自分が企画したカリキュラムを実施するために教師を雇おうと、就職相談会に参加していたのだと付け加えた。私は驚きのあまりあいた口がふさがらなかった。しかしすぐに落着きを取り戻し、この若者が立派に出世できたことを知って、足取りは軽くなり、眼がしらが熱くなった。彼はリーダーとなったのである。そしてそれは、ひとつには印刷物の代替フォーマットを利用して、他の人と対等に情報にアクセスすることによって可能となったのだといえる。

現在、障害学生サービス部(http://www.umt.edu/disability/)は、1988年当時に比べ、はるかに規模が大きく、また有効な活動を進めている。1988年には、同部は年間約13,000ドルの予算で120名の障害学生を「支援し」ていた。ちなみにその予算には私の給料も含まれていた。現在、同部は年間約750,000ドルの予算で、およそ1,000名の障害学生を支援している。オフィスは、人目を引き、人の出入りも多い大学の中央棟の中にある。私が初めて高等教育機関の障害学生支援専門家になったころに比べて、今では当たり前のように多くの障害学生が、同部の支援により卒業している。

私は視覚障害者である。長い白杖と点字、録音図書や電子テキスト、そしてさまざまな支援技術をできるだけ有効に利用している。たとえばこの論文の作成には、Freedom Scientific(フリーダム・サイエンティフィック)社のJAWSと呼ばれるスクリーンリーダーを使用しているが、同輩たちと対等に書き、コミュニケーションをはかるためには、Microsoft Office 2007のような標準アプリケーションとJAWSを併用している。視覚障害は私に多くのことを教えてくれる。私は視覚障害に関する従来の固定概念を拒否し、前向きに考え、行動することを学んだ。そして、自分自身で問題を解決しようとする責任を負う道を選ぶ。たとえば、私はバリアフリーな環境を期待したり、要求したりしない。アクセスと支援は重要であるが、成功するか否かは、個人の能力に大きく左右されるからである。他の人が自分を助けてくれるのを待つ代わりに、私は自分自身で行動する。さらにその過程において他の人々を支援し、障害を持つことの意味を変えていく。

モンタナ大学障害学生サービス部では、サービス提供システムに社会的公正モデルを採用している。そして、高等教育機関における障害学生支援の背後にある基本的人権および市民権に焦点を当てている。適切な支援なしでは、障害学生はその障害に基づく差別を経験することになるであろう。大学側は障害学生の権利を尊重するために、他の学生とは異なった対応をしなければならない。カリキュラムの完全なアクセシビリティを確保できない場合、障害学生の学問上の目標を達成するために重要な、またその実現へとつながる活動ができるように、大学側はカリキュラムの本質的ではない部分を変更する。

社会的公正モデルは、アメリカ合衆国で定着しつつあるが、全国的に適用されているとはいえない。国内の多くの短大・大学では、これとは異なる枠組みである障害者支援サービスの社会福祉モデルに固執している。社会福祉モデルでは、障害者を慈善、施し、そして善意の対象と見なし、権利よりも「ニーズ」を強調する。その結果、社会福祉モデルでは、障害者を保護する傾向が強いが、それは障害者を対等に扱うのではなく、温情主義に基づいて扱っているといえる。

社会的公正モデルに基づくアプローチは、高等教育機関において有効に機能している。アメリカ合衆国では、1990年の障害のあるアメリカ人法や1973年のリハビリテーション法第504条などの人権法により、障害のみを理由とする差別は違法とされている。大学側はアクセシブルな学習環境を確保しなければならない。この目的のために、社会的公正モデルは有効に機能し、威厳を備えた先進的なアプローチを提供している。

障害に関する私の個人的な経験から言えることは、障害者が可能な限り充実した人生をおくるためには、2つの選択肢から1つを選ぶか、あるいはその2つを融合しなければならないということだ。2つの選択肢とは、アクセシブルな環境を求めるか、あるいは成功するために必要な個人的な態度やスキルを求めるかのどちらかで、さらに単刀直入に言うならば、環境を変えるか、自分たち自身を変えるかのどちらかである。成功する障害者は、最善の効果を得るために、環境を変えることと自分自身を変えることをうまく組み合わせていく。どちらかの選択肢に依存しすぎると、機能不全に陥り、失敗する。

極めて明白なことだが、アメリカ合衆国の高等教育機関における障害者学生支援サービスは、多くの場合、環境を変えるという解決策に依存しすぎている。私たち専門家は、学生自身ができることにも手を貸していることが多い。その結果、障害者は他の人々に依存するようになってしまう。高等教育機関をアクセシブルにすることは確かに可能であるが、その一方で、障害学生が卒業し、社会に出たときに起こる問題を無視することはできない。大学は従来、新たなスキルを学び、能力を開発する場であった。したがって、障害学生支援サービスにかかわる機関は、サービス提供システムの中に、学生による自己決定を盛り込むことについて、さらに検討を進めている。また、障害学生や職業リハビリテーション機関との連携の重要性についても認識している。

モンタナ大学障害学生サービス部は、1988年に120名の障害学生を「支援」することから始まり、現在では1,000名の学生にサービスを提供するまでになった。登録数の増加は、多くの場で非常に計画的に支援活動を展開してきた結果である。支援活動には、アメリカ合衆国教育省公民権局に対する人権訴訟や、州および地域の政治への関与、メディアの利用などが含まれる。支援活動はすべて、障害学生が設立した1つの団体によって繰り広げられてきた。差別の力に対してたった1人で立ち上がっても、差別をなくすために他の人々と力を合わせたときほどの大きな効果は得られない。集団行動が有効なのである。そこで1989年、障害学生が大学内でモンタナ大学障害学生同盟(ADSUM)と呼ばれるアドボカシー団体を結成した。ADSUMのリーダーたちは、障害学生がモンタナ大学で不公平な扱いを受けていることを知っていた。リーダーたちはまた、前向きな変化をもたらすためには、いくつかのイニシアティブが必要であると理解していた。障害学生サービス部や、その他の多くの関係者の指導を受けつつ、ADSUMは活動を開始したが、それは今なお多くの人々を驚嘆させる内容であった。

ADSUMが最初に行ったのは、アメリカ合衆国教育省公民権局に対する訴訟であった。5名の障害学生-3名の車いすを使用している学生と2名の聴覚障害学生-が、国の正当な手続きを踏んで、障害者に対する差別の撤廃を求めた。学生たちは、大学施設のアクセシビリティの欠如や、聴覚障害者のための正規の手話通訳者の不在、およびその他のいくつかのバリアを不満とした。公民権局はその申し立てを調査し、1990年の調査結果報告書の中で、障害者の権利に対する深刻な侵害を複数明らかにした。大学側は侵害を認め、改善計画を実施した。これらはすべて、障害のあるアメリカ人法が採択される前の出来事である。しかし実は、当時アメリカ合衆国は障害者の権利という魔力に取りつかれており、地域の支援活動は障害がある市民のために公正を求める国中の熱気に後押しされていた。ADSUMも、不満を訴えることにとどまらず、支援活動を別の形へと発展させていくことを特に望んでいたため、活動を終えることはなかった。

ADSUMは極めて政治的になった。このアドボカシー団体は、モンタナ州の職員やモンタナ大学当局に障害者のアクセスの改善を求めて、ロビー活動を行った。一例として、ADSUMによるモンタナ州議会下院歳出委員会委員長との会談があげられる。ADSUMの会員の話は、同州議会議員に大きな影響を与えた。そして1991年のモンタナ州議会において、同委員長が中心となって取り組んだ結果、モンタナ大学に障害学生サービス部を設立するための莫大な資金を提供することが決定された。歳出委員会委員長は、ADSUMの会員の声に耳を傾け、その要望を理解し、モンタナ大学に障害学生サービス部を設立するために州の資金を使用するという行動に出たのである。

ADSUMはまた、障害学生の問題を新聞社や放送局にも持ち込んだ。極めて意図的な、かつ執拗な手段により、ADSUMは公開討論の場で実情を伝えた。以前は知られていなかった問題が明らかになり、大学側の首脳陣は、障害者の平等なアクセスが必要な理由を支持する世論の影響を受けて変わっていった。メディアで障害に関する記事や報道が増えれば増えるほど、大学側はより迅速に対応するようになっていった。

ADSUMはさらにアクセシブルなキャンパスの建設という偉業を果たした。しかし、ADSUMによる支援活動だけでは、キャンパスを変えることはできなかったであろう。大学側の首脳陣の態度が、すべての状況を一変させたのである。モンタナ大学のGeorge Dennison(ジョージ・デニソン)学長は、当事者たちの悩みを聞き、深い敬意と知恵をもって、リーダーシップを発揮しつつこれに対処した。同学長は、支援できないことは退け、自らが正当だと考えることは取り入れていった。そして他の大学首脳陣はその指示に従った。モンタナ大学のモットーは、"Lux Y VERITAS"で、これはラテン語で「光と真実」を意味する。大学側が当事者の主張を拒否することもできたであろう。多くの高等教育機関はそうしている。しかし、モンタナ大学は、障害がある学生や教員、職員、そして来訪者の統合を歓迎した。このような前進にもかかわらず、モンタナ大学のキャンパスは、バリアフリーとはとても言えない状態である。私たちは今でも日々、適格障害者による大学のカリキュラムへのアクセスを阻み、制限するバリアを確認し、その撤廃に取り組んでいる。これまで多くのことが達成されてきたが、それ以上に多くのなすべきことが、まだ残されている。正義は強力であり、公正の追求が、必要な限り長きにわたり続いていくことを、私は確信している。

モンタナ大学では、カリキュラムの変更は公示から始まる。大学側はさまざまな方法で、すべての人々にカリキュラムのアクセシビリティについて通知する。通知は、申込書や授業カタログ、ウェブサイト、その他の出版物に掲載される。そして、学生からの連絡を受けた障害学生サービス部が、適格か否かの決定、ガイダンスおよび支援を行い、対応する。

障害学生サービス部では、各障害学生に1人のコーディネーターを任命する。コーディネーターは、学生の障害ではなく、専攻や学術的な関心に基づいて選ばれる。私たちが学生に投げかける最初の質問は、「あなたの専攻は何ですか?」である。ほとんどの障害学生サービス部は、「あなたの障害は何ですか?」と尋ねるだろう。私たちは、カリキュラム変更のプロセスは、より前向きな質問から始めるべきだと確信している。

次に、コーディネーターと学生は、学生が人権保護の対象として適格かどうかを決定し、大学のカリキュラムに合理的な変更を加える正当な理由となる、障害による機能上の制約を確認する。それは主として、コーディネーターによる学生への構造的インタビューを通じて立証される。コーディネーターは、機能上の問題の特定を意図した一連の質問をする。たとえば、学生の障害が講義中にノートをとる能力を損なうものであるかどうか、また学生がどのようにノートを取る予定なのか、などである。すべてのケースにあてはまるわけではないが、診断書や第三者による文書が証拠となる場合も多い。優れた診断書は、障害がどのように機能的に活動を制限するのかを明記し、学生にとって有効な変更方法を提案する。明らかな障害については、第三者による証明は不要である。車いすの使用者が教室へのアクセシブルな移動手段を必要としていることを知るために、医師の診断書は必要ない。学習障害や外傷性脳損傷などの目に見えない障害がある学生の診断書は、障害とそれがもたらす影響を決定する上で、極めて重要である場合が多い。証拠を集めるかどうかはケースバイケースであり、プロセス全体で重視されるのはむしろ、障害の影響とカリキュラム変更の要求との関係である。証拠の収集は何よりも積極的に行われるが、それは障害者を排除するためではなく、むしろインクルージョンの手段として役立てるためである。

適格であることが決定されると、次にコーディネーターは、学生が必要に応じて申請できるさまざまなカリキュラムの変更を提案する。カリキュラムの変更には、試験時間の延長、印刷物の代替フォーマットの使用、授業や試験の受け方などに関する変更、補助手段およびサービスの使用などが含まれる。さらにコーディネーターは、障害とその影響を証明する覚書を作成し、これを学生が教員に提出する。この覚書は教員宛であるが、各学生が指導を受ける際に、合理的変更を受けられる権利の公式な認定書として使用される。決まった進め方や規約は一切なく、学生たちは、変更が合理的である限り、適当と思われる変更を自由に申請できる。

障害学生がカリキュラムの合理的な変更を利用するか否かにかかわらず、大学側は常にカリキュラムの基準を満たすことを要求する。大学側は障害学生のために低い成績基準を適用し、レベルを下げることは決してしない。むしろ、高い期待は学問には不可欠である。アメリカ合衆国では、どの学生にも高等教育を受ける権利があるわけではない。正確には、教育への平等なアクセスと機会の権利があるだけである。障害がある学生の大部分は、障害を理由にした差別を受けることがない高等教育の場で成功を収めている。だが中にはそうでない者もいる。障害学生支援の目標は学問へのアクセスであり、学問におけるサクセスではない。すべてのプロセスにおいて、緊密なコミュニケーションと連携、優れた計画、徹底してやりぬく姿勢、そして協力が必要とされる。

現在の高等教育機関における障害学生支援サービスは、障害者差別の撤廃にとどまらない多くの課題に直面している。ほとんどの大学の障害学生支援室は、設置されてから約30年で、この分野は比較的新しいといえる。障害学生のために第一級の市民権を確保することに成功した暁には、何が待っているのであろうか?人権問題の先には?そして障害者が差別の被害者として過ごした時代のあとには?

優れた障害学生支援室は、仕事をしすぎないように努力している。私たちは、障害学生にサービスが「必要」だと思わせるような方法でサービスを提供するのではなく、学生を独り立ちさせるよう努めていかなければならない。優れた障害学生支援室は、学生不在のプロジェクトを企画しないようにしながら、学生の自主性をバランスよく発達させていく。学生には平等な機会とすべての関連情報を与えなければならない。その上で学生は、たとえ自分の選択が専門家による選択とは同じではなくても、自ら自由に選ぶべきである。そして障害学生支援専門家は、大いに自制しつつ、学生を勇気づけていかなければならない。専門家が多くのリソースを持っていればいるほど、学生は十分な情報を得ることができる。しかし、障害学生は間違いを犯したり、まずい決断を下したりするだろう。そのようなときに一歩下がって見守ることは、専門家にとって、想像できる限り最もつらい行為である。しかしそれは、障害者が第一級の市民権を得るためには絶対に不可欠なのだ。

多くの人々は、私が今述べたことを、成か否かの両極端なアプローチについて語っているものと頭から決めてかかり、誤解してしまう。つまり、学生は支援なしに成功しなければならないか、あるいは支援なしに失敗してしまうかのどちらかだと考えてしまうのだ。これはとんでもない誤解で、それどころか、学生の自主性を発達させるには、明確かつ簡潔な理念に裏打ちされた、確固たる支援が必要なのである。たとえば、私たちの多くは親である。そして子供たちにはいつも部屋を片づけておいてほしいと望んでいる。しかし、子供たちは親の望む道からはずれることが多く、親は途方に暮れてしまう。もし片付いた部屋が目標ならば、親は子供部屋を自分で片付けることもできるだろう。しかし、私たちのほとんどは、子供をきちんと育てることの方が、部屋が片付いていることよりも重要であると、はっきり見極めている。私たちは子供の発達を重視しなければならないと自覚しており、それがいつの日か、きちんと片づけて暮らすことを背後から支える価値観の獲得へとつながるものと期待しているのだ。同じような考え方が、障害学生への支援サービスにも当てはまる。アメリカ合衆国には、差別をしてはいけないという法的義務がある。だが同時に、大学は学生の成長を支援する義務も負っている。したがって大学の仕事は、法的義務を果たすことだけにとどまらない。大学は教育するために存在し、教育はその過程において多くの成功と失敗を伴う、まったくもって困難な仕事なのである。

障害がある大学生は、かなり大きな精神的な悩みを抱えて、高等教育の場に進んで来る。多くの者は障害を恥じており、そのために自分の障害を積極的に隠そうとする。また、同情などの感情を利用して、相手を操ろうとする者もいる。さらに、自分たちが置かれた状況や、世間の扱いに怒りを感じている障害者もいる。怒りは変革への原動力となりうるが、一方で恨みや皮肉にもつながる。障害をごく普通の尊重すべき特性として再定義しようとする人々が増えつつある。障害を何か自然なものとして理解することは可能であり、また、障害者としてのアイデンティティが新たな道を開いていく可能性もある。障害者は、障害についてどのように感じるかを自ら選択し、障害者を支援する専門家たちは、障害者としての最も肯定的なアイデンティティを育てていくために、できる限りのことをしなければならない。

私が専門家として最も懸念しているのは、職業リハビリテーション局の役割である。私が大学に通っていた1970年代には、職業リハビリテーション局が、障害がある大学生への支援の大部分を提供していた。同じころ、大学による支援はほとんど存在していなかった。現在ではその逆のことが起こっている。障害がある大学生の多くは、職業リハビリテーション局とのかかわりがない。状況が逆になってしまったのは、障害者に対する支援サービスや障害者の権利に関する考え方が変化したことによる。1970年代に立ち返ることは賢明ではない。当時は大学に通っている障害学生が非常に少なかったからである。現在、障害学生の在籍者数ははるかに多い。実際、アメリカ合衆国の多くの大学キャンパスでは、学生全体の中で、障害学生が最大の少数派となっている。在籍者数だけを見ても、30年前に比べて現在の方が、大学へのアクセスが格段に改善されていることがわかる。にもかかわらず、職業リハビリテーション局は、相談者の個別就労計画を支える柱として高等教育機関を利用することから、遠ざかっているかのように思われる。

職業リハビリテーション局と高等教育機関の役割の変化を説明するために、手話通訳者などの補助手段やサービスにかかる高額の費用を、誰が負担するかという議論について考えてみよう。手話通訳者にはお金がかかる。手話通訳者を利用する聴覚障害学生の在籍者数がわずかであっても、比較的多額の予算が必要となる。モンタナ大学の障害学生サービス部では、約7名の聴覚障害学生を支援しているが、これらの学生への支援にあてられる予算は、同部の予算の20パーセント近くを占める。幸いにも、同部はモンタナ職業リハビリテーション局と共同で通訳者の費用を負担している。しかし他州はそれほど幸運ではない。多くの州の職業リハビリテーション局は負担を拒み、障害学生の支援にかかる全費用を負担することを大学側に強いている。1973年のリハビリテーション法の規定では、州の職業リハビリテーション局に、相談者が大学で利用する補助手段やサービスの費用を負担するよう求めている。この先例を変更する法的規定は何もない。しかし、職業リハビリテーション局および高等教育機関内外の多くの人々は、障害のあるアメリカ人法が、市民権のための費用の負担を、職業リハビリテーション局から大学へと移行したと信じている。実際のところ、高等教育機関がすべてを負担することを期待する考え方が広まっている。

資金に関する議論はさておき、社会はこのような期待がもたらす結果を分析しなければならない。前述のように、大学での障害学生支援サービスは、学習環境をアクセシブルにすることが中心となっている。しかし、環境の整備だけでは、障害者に真の第一級の市民権を提供することは決してできない。障害者も、障害について肯定的に考え、代替技術や個人の責任について学び、実践していかなければならない。障害者に対する自立生活手段の指導は、かつては職業リハビリテーションの中心であった。しかし、職業リハビリテーション局が従来の役割から退くとき、障害者はすべての障害問題が環境に由来するという幻想に陥ってしまう。このような状況のもとで、どこへ行っても、ほとんどすべての場所で、常にアクセシビリティが欠如しているにもかかわらず、障害者はアクセシブルな環境をあてにするようになる。そしてアクセシビリティだけを頼りにしていると、公正な扱いが実現するまでに、長い間待たなければならない可能性がある。

理念や実践を変えたのは、職業リハビリテーション局だけではない。高等教育機関の障害学生支援室も、同じパラダイムに従っている。その変化を最もうまく説明できるのが、ユニバーサルデザインだろう。ユニバーサルデザインは、施設を設計する上での配慮として開発された。建築家や技師は、施設においてバリアとなるデザインが、障害者を締め出すことになると気づいた。そこで、バリアを排除した設計により、障害者はほかの人々と同じように施設を使用できるだろうと考えた。この考え方は、環境面でのアクセシビリティのさらなる充実という収穫をもたらした。障害者側のリーダーたちは、ユニバーサルデザインに注目し、世界を理解し、世界と交わるための新たな手段として、その理念を取り入れ、実践した。ユニバーサルデザインは、障害が個人に内在する問題ではなく、環境の中の問題として存在すると言っているかのように思われた。従来の医療モデルでは、社会は環境面でのアクセスの問題を無視し、障害を完全に個人に属する問題として強調しすぎていたが、ここで突然、障害は医療モデルの外から見られるようになった。医学的な問題ではなく、社会によって作られた概念としての障害が浮かび上がったのである。こうして、障害者が問題なのではなく、階段があることやエレベーターがないことが問題となった。物理的な環境の配慮から始まったユニバーサルデザインは、ほかにも指導の場面などで適用できるだろう。講義内容を理解していないと学生を責める代わりに、現在大学では、使用されている教授法を検討し、バリアフリーな授業の設計に取り組んでいる。

ユニバーサルデザインには限界があるが、幸いなことに、ユニバーサルデザイン運動は発展しつつある。ユニバーサルデザインの主な限界は、すでに記したとおりである。ユニバーサルデザインは、アクセシブルな環境を重視しすぎており、自己決定を軽視する可能性があるのだ。ユニバーサルデザインの主唱者たちは、環境を変えるという解決策が常に最善なのではなく、環境面の対処と個人的な対処のバランスをとることが最も効果的であることを学びつつある。このコンビネーションが、社会とその市民を強化していくのである。障害者が成功するためには、アクセシブルであろうとなかろうと、いかなる環境においてもその役割を果たしていく方法を学ばなければならない。また、アクセシビリティは障害を取り除くものではない。たとえば、私は視覚障害者であり、自分が人生でやりたいと望むことを実行して生きるためには、見えないことに関して達人になる方法を学ばなければならない。どこへ行こうと、何をしていようと、アクセスできるからと言って、私の視覚障害がなくなるわけではないからだ。

ユニバーサルデザインにはもう1つ重要な限界があり、障害学生サービス部のアシスタントディレクターは、しばしばこれを強調する。Dan Burke(ダン・バーク)は、ユニバーサルデザインでは、障害者が環境に望むことを推測すると指摘している。ユニバーサルデザインを実現するためには、何をしなければならないか、誰かが判断を下さなければならない。しかし、このような推測は温情主義的になる可能性があり、障害者が自分自身の知恵や能力ではなく、見知らぬ人の親切に依存するようになってしまうというのだ。

2008年9月25日、George Bush(ジョージ・ブッシュ)大統領は、ADA改正法ともいわれる、障害のあるアメリカ人法の改正法に署名した。議会は同改正法を圧倒的多数で可決した。にもかかわらず、同改正法は物議を醸している。議会が1990年に障害のあるアメリカ人法を承認した際には、広くさまざまな立場の市民を、障害を理由とする差別から保護する市民権を意図していた。しかし裁判所側は異なる見解を示した。雇用における障害者差別に関する訴訟の大半において、原告側には障害のあるアメリカ人法の障害の定義に該当する障害はないとの判決が下されたのである。結果として、アメリカ合衆国では差別の問題に踏み込むことはほとんどなかった。裁判所による障害の解釈が非常に狭く、体の一部を切断した人々や、知的遅れのある人々、またその他の広く障害者として認められている人々が障害者と見なされない場合もある。それは弁護士の策略であり、障害者差別が卑劣な方法で行われているのを野放しにしているといえる。たとえば雇用者は、自社では呼吸障害がある人を決して雇用しないと言うことができる。私たちの多くは、そのような大っぴらな発言は呼吸障害者に対する差別であると認めるが、それに対して雇用者の弁護士は、原告は法的定義に基づく障害者ではないと異議を唱えるであろう。以前なら、裁判所はほとんど常に弁護側に同意し、差別はそのまま続いていった。しかし、ADA改正法は、議会の当初の意図に立ち返り、実質的な差別への対処を裁判所に求めていく。今後アメリカ合衆国では、誰が障害のあるアメリカ人法の対象となり、誰が対象とならないかに関する議論を中心に進めるのではなく、平等なアクセスと機会の否認や制約に関する調査を行っていくようになるだろう。

誰がADA法の対象となるかという議論は、ごく最近まで、高等教育機関における障害学生に対する支援サービスに影響を与えることはなかったことを指摘しておかなければならない。障害学生のための高等教育のカリキュラム変更は、変更と障害がもたらす影響とを関連付ける、常識的なアプローチに従って実施されている。たとえば、学生が聴覚障害者であれば手話通訳者を提供する。しかし精神障害がある学生には、聴覚障害もある場合を除いて、手話通訳者は提供しない。ひっかき傷が障害だと主張する学生には、ばんそうこうを与え、ひっかき傷が本当に障害かどうかという議論は決してしない。高等教育機関では、要求された変更を検討し、それが合理的で、障害がもたらす影響と結びついていれば、すべて採用するのである。つまり誰が保護の対象であるかという定義は、高等教育の場に限ってはそれほど重要ではなかったのだ。国の議論は教育ではなく雇用に集中している。法案には、障害者の当事者団体から企業グループに至るまで、さまざまな利害関係者からの妥協案も含まれていたが、教育関係の広報担当官の中には、最近、障害のあるアメリカ人法の改正法に反対する者も出てきた。大学学長および経営者の代表団体であるアメリカ教育協議会などの機関は、提案されている新たな規定の下で、あまりに多くの学生が障害を主張することになるのではないかとの懸念を表明した。私が所属している、AHEAD(高等教育と障害者協会)という機関はADA改正法を支持しているが、これは、AHEADが違法な差別を終わらせたいと望んでおり、また障害学生による高等教育へのアクセスの拒否や制限の理由として、限定的な定義を使用してほしくないと考えているからである。ADA改正法の実施によって何が起こるかは、時がたてばわかるであろう。しかし、アメリカ合衆国が、今後も国内で数多くの障害者問題に取り組んでいかなければならないことは明らかである。

AHEAD(高等教育と障害者協会:http://www.ahead.org/)について この前向きに考え、行動する組織のリーダーであることを、私は大変誇りに思う。AHEADは、障害がある大学生の支援に関する好事例について、非常に多くのことを教えてくれる。1989年に初めて参加したAHEADの会議のことは、よく覚えている。私はこの仕事に就いたばかりで、AHEADの会議で論じられた見解や可能性が、モンタナ大学障害学生サービス部の発展を導いてくれた。AHEADは今なお、同部の活動を方向付けている。私は1990年代初めに、視覚障害分科会共同会長として、AHEADの活動に貢献し始めた。4年前にはAHEADの会員により会計担当に選出され、今年度、AHEAD次期会長に就任した。今後2年間、次期会長という立場で活動し、その後さらに2年間、AHEAD会長を務める予定である。AHEADは長年にわたり、産みの苦しみを味わってきたが、現在では、良識のある、広く尊敬される代弁者として認められている。AHEADが尊重されていることは、アメリカ議会が最近採択した高等教育機会均等法の中で、特にAHEADの名前をあげていることからも明らかである。同法は、部分的にではあるが、障害学生による大学の教科書へのアクセスの問題に取り組んでいる。アメリカ合衆国は、障害がある大学生による情報への平等なアクセスと、出版社の著作権とのバランスを取ることに苦心している。AHEADはすべての関係者を保護する解決策を見つけたいと望んでおり、この新たな法律でも、AHEADのリーダーシップが認められた。

AHEADは国際機関であると自覚しているが、具体的にどのような方法で国際的な活動を進めていくかについては、まだきちんとした答えは出ていない。時とともに、AHEADはアメリカ合衆国の特別な事情だけにかかわる問題を越えて成長し、他の文化や他の社会を包み込むように、その対象を広げていくものと私は予想している。確かに、それぞれの国は独自の方法で障害者問題に取り組んでいくであろう。しかし、お互いから学ぶためには、AHEADのような組織が必要である。AHEADの国際的な成長は、アメリカ合衆国国内から意図的に外の世界に広げていこうとする努力よりも、むしろ国家間の機能的な連携から発展していく可能性が高い。一例をあげるならば、AHEADのリーダーは、アメリカ合衆国がすべての最善案や最善策を持っているわけではないことを知っている。アメリカ合衆国は、繰り返し他国から学んでいかなければならない。したがってAHEADは、一歩ずつ国際的な発展を遂げていくことになるであろう。

最後に、多くの人々が、障害を持つ者にとって、これほどよい時代は未だかつてなかったと語っている。その通りだと私も信じているが、同時に、実際には、障害者の公正な扱いと平等な権利は、全世界で約束されているわけではないということも認める。さらに、アメリカ合衆国でさえも、誰もが夢を実現したと言えるようになる前に片づけなければならない多くの課題を抱えている。障害者は、どのようにしたら第一級の市民になることができ、市民としてのすべての権利を確保し、責任を果たすことができるのかを学んでいる。そして社会では、障害を持つ意味が変化しつつあり、さらなる大きな進展への期待から、明るい未来への希望が膨らんでいる。

ありがとうございました!