音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

陸前高田市 戸羽太市長会見記録

日時:2011年4月14日(木)12:30~12:45
場所:陸前高田市災害対策本部(給食センター北側)入り口付近

※陸前高田市役所は今回の津波で被災し、市役所機能は給食センター北側広場のプレハブに移転。給食センター内の災害対策本部に市長を訪ねた。スペースがまったくなく、建物の入り口に立ったままでのインタビューを行うことになった。まず藤井から今回の震災のお見舞いと、市長の奥様の久美さんが犠牲になったことへの弔意が述べられた。当選してまだ一カ月余りの戸羽市長の言動は、とてもキビキビしていた。

陸前高田市の会見の様子

藤井:3月11日の震災時はどうしていましたか。

戸羽:市長室にいました。すごい揺れで、まずは一旦職員全員を庁舎から出しました。庁舎には一部亀裂が入っていました。担当に安全を確認してもらった後、再び強い揺れと津波が来ました。防災対策室担当の者が屋上から海を見ていて水が引いたので、外に出てぎりぎりまで避難誘導にあたりましたが、津波が200m先までやってきたので役所の中に逃げ込みました。屋上まで逃げましたが、そこにまで水が来たので、議場の屋根に引っ張り上げてもらい何とか生き延びました。

藤井:たしか今年の2月の選挙での当選だったと思います。皮肉にもこの震災の復旧や復興が初仕事となりましたね。

戸羽:そうです。2月13日からが私の任期なのですが、挨拶まわりをして、テレビ取材や3月議会の始まりがあり、色々追われていて、一ヶ月もしない内に今回の地震がありました。

藤井:今回被災された障害のある人への支援についてコメントをお願いします。

戸羽:私は東京の町田市で育ちました。当時のクラスメートは今も町田市にいて、この震災では大変お世話になりました。4月30日には町田で東北物産展を開いていただくことになりました。授産施設で頑張っている方はただでさえきびしいのに、この震災でなお、きびしい状況に置かれてしまったと思います。行政としても住民の皆さんが少しでも生活の糧を得られるように頑張っていきたいです。本当に障害を持っている方もこれまでも街づくりをがんばってくれたので。私はしばらくアメリカにいたことがあるのですが、あちらでは障害者が普通に生活しています。日本では内気と言うか、障害者の社会参加がしづらいように思います。私は陸前高田市をその点ではアメリカのように、そういう町にしたいと思っています。できれば「ノーマライゼーション」という言葉さえいらないくらいの町にしたいですね。

藤井:私は、ここしばらく日本の社会構造は少し標準値や平均値が効率中心・コスト中心になっていたと感じています。もしこれから復旧・復興というか、創生とでも言いますか、そうした標準値や平均値を人間中心の街づくりという視点で行っていただきたいと思います。障害者の住みやすい地域は、誰もが住みやすい地域であると思います。

陸前高田市の被災状況1

戸羽:今はゼロからというより、マイナスの世界にいます。何年かでゼロに戻して、そこからの街づくりになると思います。津波で既存のものが全てなくなってしまいました。当然障害を持った方も暮らしやすい街をゼロから作っていきます。それはできると思います、努力していきます。皆さんには時間が経ってもこの市のことを忘れないようにしてほしいと思います。

藤井:もし国が音頭をとっていかないといけないと言いますか、そうした日本の国や社会に対してのメッセージをいただければ。

戸羽:これまで陸前高田市が被災してから、全国の、又は全世界から応援を頂きました。先ほども言いましたがマイナスからのスタートですが、いつか、それが10年先になるか20年先になるかは分かりませんが、皆さんから「素晴らしい街になったね」と言っていただけるようにしていきたい。全ての市民の皆さんと手を携えてやっていきたい。そういう意味でもまだ色々な皆さんにお世話になると思います。繰り返しになりますが、時間が経っても陸前高田という町を是非忘れないでいてもらいたいと思います。

藤井:今のお話の上で、今後に向けての胸にひめたキーワードがありましたらいかがですか。「共に働く協動のまちづくり」今までは格差がありましたが、今は政治的な立場とか社会的な地位とかそういうものは関係なく、みんな一人一人が、同じ目的をもって進めていきたいと思います。そうすれば必ず実現できると信じているので、皆さんにもぜひお力を貸していただけるとありがたいです。

戸羽:実は私のいとこは耳が聞こえないのですが、私の家は流されてしまったので、今はその子の家にホームステイしているんですよ。

藤井:頑張ってください。ありがとうございました。

陸前高田市の被災状況2