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インタビュー

“Nothing About Us Without Us” (私たちのことを、私たち抜きに決めないで) の著者、デビッド・ワーナー氏に聞く

2009年10月26日
心身障害児総合医療療育センター(板橋区)にて
インタビュアー:(財)日本障害者リハビリテーション協会情報センター 

デビッド・ワーナー氏について

1934年、米国生まれ。生物学者。米国の国際保健NGO、Health Wrights代表、ボストン大学国際保健・公衆衛生学部客員教授。
1965年より、メキシコ西部の山村で地域保健活動に取り組む。その後、世界各地で地域医療とリハビリテーションの実践に取り組み、障害者の自立と地域に根ざした保健および障害分野のパイオニア。当協会ウェブサイトDINFに掲載している氏の著書、“Nothing About Us Without Us”と“Disabled Village Children”は常にDINFアクセス件数の上位であり、多くの人に読み続けられていることを示している。

デビッド・ワーナー氏の写真


―ワーナー氏が執筆された“Nothing About Us Without Us”(私たちのことを、私たち抜きに決めないで)という本のタイトルになっているこの言葉は権利条約を作ろうという動きの中で、たくさんの障害者の方々が使っていました。そのことに対してどのようにお考えになりますか。

Nothing About Us Without Usという言葉は自立生活運動のスローガンとして使われていて、そこから拝借したのです。この言葉はこの本のタイトルとしてとてもふさわしいと思いました。この本は、障害者の方々自身やその家族が問題を探求するプロセスに関わり、単に専門家が指導するよりも良い結果が得られるという事実に基づく様々なストーリーのコレクションです。

―“Nothing About Us Without Us”は自立生活運動の中から生まれたのですね。ワーナー氏が考えられたのだと思っていました。

いえ、いえ、私が作ったわけではないのです。お借りしたのです。これはとてもよいタイトルだと思いました。単に指導するのではなく、問題解決プロセスに障害者自身がリーダーシップをとってリハビリテーション・ワーカーと一緒に取り組んでいくことがいかに重要かというストーリーを集めたこの本にふさわしいタイトルを考えていました。このスローガンはこの発想にぴったりだったのです。

―このタイトルはとても良いと思います。

素晴らしいタイトルです。でも私が発明したのではなく、自立生活運動の中からお借りしたのです。

―国連障害者権利条約の運動に連結して、この言葉は多くの方々に以前より理解されるようになりなりましたね。

以前よりもずいぶん理解されるようになりました。Community-based Rehabilitation(CBR:地域に根ざしたリハビリテーション)が始まった頃でしたので、そのようなコンセプトを強調することは大変重要だと考えたことがもうひとつの理由です。それまでは上から下へ指導するというプロセスでしたが、リハビリテーションの焦点の考え方が、施設から地域へと変遷しつつありました。しかしながら、まだそのときは、地域の障害のある人々にサービスを提供し、どうしたらよいか教える、というような考え方でした。WHO(世界保健機関)が発行した“Training the Disabled People in the Community”(地域の障害者へのトレーニング)というマニュアルがありますが、まるでトレーナーが犬か馬かを調教する、というような感じに受け取れました。誰かが誰かをトレーニングするという“上から下へ”というプロセスではなく、経験を共有し、協力して一緒に作業していくというプロセスを大事にしたかったのです。そういう意味で、人々が一緒に取り組むという考えに、“Nothing About Us Without Us”というタイトルがぴったりだったのです。

―メキシコでプロジェクトを始めたのはなぜですか?

メキシコ西部の山岳地でプライマリー・ヘルスケア・プログラムや地域に根ざしたヘルス・プログラムから発展して障害に焦点をあてたプログラムが始まっていました。私は障害分野の活動に関わる前に、保健医療の分野で長年働いてきました。1965年に地域や村の保健活動に携わるようになりました。実に44年も前になります。ちょうど最近、“Where There’s No Doctor”(医者のいないところで)という本が日本語に翻訳されたばかりです。ご覧になりましたか?

“Where There’s No Doctor”は1972年に出版しました。それは私のプライマリー・ヘルスケアの活動から生まれたものです。しかしその頃、メキシコの違う村のプログラムですが、村のヘルス・ワーカー、私どもはヘルス・プロモーターと呼んでおりますが、そういう人を選ぼうとしておりました。 人々のことをほんとうに思いやり、幸せを願い、健康のことを考え、スキルがあって、学ぶことを喜び、努力をする人、そのような人を選ぼうとしました。そして、何人かの人たちが村人たちによってヘルス・ワーカーに選ばれましたが、そのうちの何人かは障害のある人たちでした。障害のある人たちが良いヘルス・ワーカーだからというのが主な理由なのではなく、身体障害のため体力のいる農作業などができず時間があり、また、結婚がタブー視されていて、女性は子どもがいなかったということもあります。ですから、ヘルス・ワーカーとしてトレーニングすることができ、そのための時間を作ることができました。そして数年後、誰が一番良いヘルス・ワーカーになったと思いますか?多くの場合、障害のある人自身です。なぜなら、彼らは最初から地域で取り残されており、彼らの心は何らかの理由で不利な立場にある人たち、弱い立場の人たち、より貧しい人たちに向けられております。このようにして、村のヘルス・ワーカーになることによって、障害のある方々の“弱さ”は、困っている人々に手を差し伸べることができる“強さ”に変わりました。

そして1980年頃、障害のあるヘルス・ワーカーと私が、私自身も障害者ですが、障害のある子どもたちや障害者のためのヘルス・プログラムが存在しないので、障害とリハビリテーション、そして障害者のニーズに焦点をあてた姉妹プログラムを作ろうと決めました。しかし、一番関心を持っているのは障害者自身なので、障害者がそのプロセスのリーダーシップをとることが重要だと最初から感じていました。このようにしてプロヒモ(PROJIMO:Program of Rehabilitation Organized by Disabled Youth of Western Mexico)という村のヘルス・プログラムが障害のある人たちや家族によって展開されました。

―その概念が発展して、メキシコでのプロジェクトを執筆された本に“Nothing About Us Without Us”というタイトルがとてもふさわしかったのですね。国連権利条約の制定プロセスのときにも多くの方々がこの言葉を使っていました。障害のある方々自身や支援者がこの言葉でしめくくっていたと思います。

はい、そうですね。でも私が考えた言葉ではないんですよ。お借りしたんです。この言葉がふさわしいと思いましたから。障害者の方々の意識が高まり、また、リハビリテーション・ワーカーや医療専門家が指導したり、何をしたらよいのか告げるだけでなく、障害のある方々と連携して取り組んでいく必要性の認識が少しずつ高まっていきました。このことは非常に重要です。より多くの障害者の方がリハビリテーションの専門家になることを期待しています。なぜなら、障害のある人は障害のある人のニーズや感じ方、社会的態度などを自分たちの経験から理解し、障害の経験がない人より平等に他の障害者に関わることができるからです。

―以前に比べてリハビリテーションの分野に障害者の方が増えていると思われますか?

私たちがプログラムを始めた頃、それを執筆した頃より、現在はたくさんの方々がリハビリテーション分野で働いていると思います。このことは大変重要な変化だと思います。社会の主流への障害者のインクルージョンの重要性に焦点がよりあてられるようになりました。彼らがインクルージョンされる権利があるというだけではなく、障害者ではない人たちより障害のある人たちはより貢献することができ、特に障害分野、社会的疎外、脆弱性という分野においては彼ら自身経験があるからです。

― “Nothing About Us Without Us”や “Disabled village children”を執筆された頃より世界は変化していると思います。支援技術などの分野に関してはどのようにお考えですか。

地域に根ざしたプライマリー・ヘルスケアを始めた頃はまだ、人々をケアする、サービスを提供するというコンセプトが主流でした。一般的にヘルス・ワーカーは地域レベルで医師のアシスタントか医師がこうしなさいと指導をしたことをする人だったのです。まさにトップダウン式で、医師や医療機関がトップでした。“Where There Is No Doctor”とそのパートナーブックの“Helping Health Workers Learn”では、村のヘルス・ワーカーをもっと違う視点から見ていきたいと思いました。彼らは医師よりももっと重要な役割を担っていると言いたかったのです。医師は治癒的な分野における医術と呼ばれる狭い分野のスペシャリストです。村のヘルス・ワーカーはコミュニティ全体で問題を予防するために保健全体の改善にあたります。誰だれは誰だれより力がある、というような不公平に起因する健康の社会的決定要因を正すためにみんなで協力して取り組みます。

ですから、村のヘルス・ワーカーは人々のインクルージョンや平等において一緒に改善していくという大変重要な役割を果たします。“Where There Is No Doctor”を出版した当初、WHOはそれを良いと思いませんでした。UNICEFも良いと思いませんでした。キリスト教医療委員会(Christian Medical Commission)も良いと思いませんでした。彼らは、これは一般の人向けには医療と保健の情報が専門的過ぎると言いました。普通の人々は間違ったり、できなかったり、この本は長すぎて最後まで読む忍耐がないと言いました。基本的には、人々は医療機関にケアされる必要があるという考え方です。それは支配階級的な考え方です。しかし、少しずつ、、“Where There Is No Doctor”の出版後、WHOやUNICEFは普通の人々や村のヘルス・ワーカー、そして母親たちは情報を活用して自分たちをエンパワーすることができるんですよ、と言いはじめています。

プライマリー・ヘスルケアとは何かという概念は変化し始めました。私の本と私たちの活動はこの変化に貢献したと思います。世界中の多くの様々なグループがこの分野の変革に向けて取り組んできたと思います。しかし、私が書いた2冊の本は、広く人々に活用され、変化のプロセスにある程度寄与したと思います。地域に根ざしたリハビリテーション、これは80年代初期に起こったのですが、WHOがCommunity Based Rehabilitation、CBRという言葉を考案しました。確かに、人道主義的な理念でしたが、CBRの発想は障害者ではないリハビリテーション専門家からきていました。「我々エキスパートが地域の人々に障害者が社会でノーマライズできるよう訓練の仕方を教える」というトップダウン的なアプローチでした。障害者団体は非常に反発しました。「我々自身が発言したいのです。我々がリーダーシップをとりたいのです。」と。それで、私たちは障害者自身のリーダーシップとエンパワーメントの重要性を強調し、“Disabled Village Children”が生まれ、さらに、より近い発想で“Nothing About Us Without Us”が生まれたのです。

障害コミュニティ自身からこの自己決定(self-determination)の発想が生まれたのです。そして、それはまさに“Nothing About Us Without Us” 、「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」という発想です。コミュニティでの私たちの取り組みから生まれたこの本が新しい、そして、よりエンパワメントなアプローチに貢献しました。初期の2冊の本、 “Where There Is No Doctor” と “Helping Health Workers Learn”がプライマリー・ヘルスケアに、そして次にCBRの分野にと貢献しました。私たちは人権ということを強調しました。CBRが始まった頃に比べ現在は、自己決定とリーダーシップにおいて、障害者自身と家族が尊重されています。その変遷に私たちはひとつの役割を担ったと考えています。

―大きく成功したのですね。

ええ、長い時間かかりましたが。DPI(障害者インターナショナル)がどのように始まったかご存知ですか?

―はい。でも現在はRI(リハビリテーション・インターナショナル)も障害者の方々にアプローチしていると思います。一緒に活動しようとしています。団体の名称さえも変えようという動きがあるくらいです。聞いたことがありますか?

いいえ、名称が変わるというのは聞いたことがありませんが、よい考えだと思います。リハビリテーション専門家の意識が、単に処方して、何かをするのではなく、障害者の方々と対等に取り組んでいく必要性を感じ始めました。とても重要なプロセスで、このような変化を経験することは大変喜ばしいことです。

―DPIはリハビリテーション・インターナショナルと別々に活動したいと思っているのでしょうか?一緒には活動できないのですか?

一緒に活動できると思います。歴史的に対立もあった時期はありましたが。むしろ一緒にやっていくべきだと思います。Christoffel Blinden Missionの人たちと議論になったこともあります。
Christoffel Blinden Missionの人たちは最初、メキシコでのプロヒモ・プログラムに批判的でした。「(プロヒモは)リーダーシップは完全に障害者にあり、そうではなく、私たちはインテグレーションでやっていきたいのだ。障害者とそうでない人たちが一緒に取り組んでいきたいのだ」と。それはそのとおりですし、良いコンセプトです。しかし、社会から取り残され、尊重されていないグループがあり、平等を求めて闘っているプロセスにおいては、平等感を得て一緒に取り組んでいく前に、まず自分たちが団結してすることが必要です。米国では市民権運動のときに、黒人自身が団結して権利を求めて行動しました。女性解放運動のときにも、女性は組織を作り、そのリーダーに男性を起用しようとはしませんでしたし、メンバーも男性はほとんどいませんでした。彼女たちは、「男性と同等になるために私たち女性自身が発言しよう」と言いました。そして、歴史的に同じようなプロセスが障害者運動にもありました。

理想的なことを言えば、一緒にやっていくことは可能です。障害プログラムに障害のある人とない人が平等に一緒に取り組むことはできます。しかしながら、障害者ではない専門家がいまだに数の上では優っていて、障害者は平等な発言や権利から追いやられています。リハビリテーション分野において障害者が専門家になる機会を強く求めるべきです。より多くの障害者が自分たちの働く領域で専門家になることは重要です。例えば、メキシコのプロヒモ・プロジェクトでは、義足を作るのは義足をしている人です。矯正装具を作る人は基本的に矯正装具を使っている人です。車椅子を作る人は車椅子を使っている人です。なぜなら、車椅子や義足や矯正装具などが本当に使う人のニーズにあっているかどうかということが非常に重要だとういうことを知っているからです。また障害のある人と平等に関わることができます。

―国連障害者の権利条約は発展途上国の支援を明記しています。CBRの分野ではどのようなことを期待されますか?

ゆっくりと正しい方向に進んでいると思います。単に障害者のインテグレーションではなく、インクルージョンに焦点をあてた方向に向かっていると思います。社会への完全なインクルージョンと障害分野への障害者自身のリーダーシップをより強調する動きです。CBRにおいてもうひとつ重要な動きは、アプローチが多様化しているということです。言い換えれば、最初WHOがCBRを定義づけている頃は、ひとつのパッケージのようでした。専門家の指導に基づくプロセスでした。このようにしなさい、このように計画しなさい、と。階級的な構造でした。国家の監督者から州の監督者へ、そして地域の監督者へ、そして家庭の監督者へ、そして障害者へと監督していく。
障害者を一番下にしたトーテムポール、もしくはピラミッドのようなものです。障害者の人たちが下にならないよう、ピラミッドを逆にするように話しましたが、いつもその逆でした。障害者の方々に関しては、彼らが最初に発言し、そして家族、地域のリハビリテーション・ワーカー、地域の人々という順番で、そして専門家やリハビリテーションのエキスパートはピラミッドを支配するのではなく、その前面のケアサービスに位置するべきです。そうすることによって、より平等で一緒に取り組んでいるという感覚になるのです。

―ずいぶん改善されたように思います。ゆっくりではありますけど。

とても改善されたと思います。一方、全ての障害者が地域に根ざしたリハビリテーションから恩恵を受け、認識が高まりインクルージョンにつながるのです。今日世界では、暴力と敵意が社会から疎外された障害者をますます生み出しています。障害者とそうでない人の間のみならず、富んでいる人と貧しい人の間の不公平と不平等のギャップはますます深まっています。WHOは障害の最大原因に例えば、栄養不良をあげています。それは子どものみならず栄養がいきわたらない母親たちにも言えることです。そのような母親は早産児を生み、障害などの問題につながります。したがって、貧困と栄養不良は障害のもっとも基本的な原因なのです。

現在世界では、10億以上の人々が慢性的に飢えている、もしくは6人に一人が飢えていると報告があったばかりです。はじめて10億人を超えました。飢餓が増大し、地球温暖化、経済危機、原油不足などの問題が一度に起こり、もはや楽観的ではいられません。世界全体の流れが障害者を新たに生み出し、食料、仕事などの競争は障害のない者より障害者や弱者にとって厳しくなっています。平等を求める障害者の闘いは、生計を立て、発言し、真の民主主義を求める全ての人間としての闘いに取って代わらざるを得なくなっています。暴力、敵意、新たな障害を生み出す戦争などのない、誰もが声を挙げ、現在起こっているような支配階級が貧困の差を作り出すことのない環境を求めています。

複雑な状況です。障害者の権利は人権、中でも十分な食料を食べることができる権利、適切な生活環境や考える力をつける教育、学校以外で普通の人々に今日我々が生活している環境を分析できるように、そして、我々が直面している一連の危機に対する解決策を見出すことに参加できるようにすることです。というのは、世界のリーダーたちは、健全な社会と障害を最大限に押さえる社会の実現のために必要な変革を提唱することに十分努力していませんから。

―私たち(日本障害者リハビリテーション協会情報センター)は特に障害者の方々の知識と情報へのアクセスに焦点をあてて活動を行っています。障害者の方々が知識、情報によりアクセスできるよう、情報コミュニケーション技術とユニバーサルデザインの概念を推進しております。そのため、国連とITU主導の世界情報社会サミットのような主流のイベントで障害者の声を反映するプログラムに参加しておりますが、主流の活動において障害者の問題はまだ良く認知されていない気がしております。また、障害者の情報技術の開発も行っています。

それはとても良いことですね。ゆっくりとしたプロセスですが。ある意味、時間や教育や技術的洗練が必要ですね。

―障害者がプライマリー・ヘスルケアのような情報を簡単に得ることができるようするために何かアドバイスはありますか?

ワーナー:身体的コントロールが難しい、またはコミュニケーションが難しい人に代替手段がありますよね、例えば点字ですとか、音声認識とか。これらはとても重要です。また、学童期における学校教育も大変重要です。すべての子どもたちにとって学習を容易にする方法を模索することは重要です。子どもたちにとっては、学習の助け合いを楽しむことを学ぶプロセスです。言い換えれば、クラスルームにおける分担(sharing)です。早く学習できる子どもは、ゆっくりと学んだり、コミュニケーションに困難をかかえる子どもたちを理解し、責任を感じて(学習を)助けます。学習を容易にするのに使われる技術があります。例えば多くの子どもたちは算数の学習が難しいと感じています。学習障害のある子どもたちが理解しやすく開発された技術は障害児だけではなく、全ての子どもたちに使うことができます。

―そうですね、結果的に全ての人に役に立ちます。

その通りです、全ての人に役に立ちます。何冊かの私の本も、情報はだれにとってもよりアクセシブルにするために簡単にすることができる、という一つの例です。

―どうもありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。

インタビューの様子


インタビュー後記:終始、穏やかな表情で質問に答えていただきましたが、障害者抜きには考えられないというCBRに対するワーナー氏の理念が、氏自身のCBRへのアプローチや経験を語っていただく時にとても強く伝わって来ました。同時にそこにワーナー氏の生きがいとか楽しみ(Fun)を感じました。今後のご活躍を期待したいと思います。

注:PROJIMOはスペイン語で隣人、仲間という意味がある。