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ろう文化と手話落語

(財)日本障害者リハビリテーション協会

項目 内容
備考 Webマガジン ディスアビリティー・ワールド 2004年3月号掲載

手話落語とは

落語といえば、日本で古くから語り継がれてきた文化のひとつである。着物を着て、座布団の上に正座をして、扇子と手ぬぐいを使って、おもしろい話をする。落語を外国語に置き換えるとすると、ブラックジョークとかコメディといったところであろうか。落語家はいかに笑いをとるかを常に研究している。聴覚障害者として初めてプロの落語家になったデフ一福さんもその一人である。一福さんは落語を手話で表現し、耳の聞こえない人達が楽しむことのできる文化づくりに貢献している。手話落語は、1979年頃、プロの落語家である桂福団治氏がのどを痛め、一時的に声が出なくなった。この時手話に出会い、そこから誕生したものである。一福さんは、1980年手話落語の考案者のひとりである桂福団治氏に弟子入りした。

寝ている仕草をしている一福さんの写真

落語の稽古をするうちに、一福さんはあることに気がつく。それは、落語を単に手話に訳しただけでは、聞こえない人達にとってはあまり面白くない、笑える内容ではないということだった。笑いの文化に違いがある。聞こえない人達を笑わすためには、さらに工夫が必要ではないか。一福さんは、耳の聞こえない落語仲間たちと研究を重ね、師匠に相談しながら、聞こえない人達向けに話を少しアレンジしてみた。身近な話題を盛り込み、話の主人公を聴覚障害者にするなど独自の手話落語づくりが始まった。「聞こえない人達が笑ってくれてこそ本当のろう文化である。」と常に考えていた。こうした業績が認められ、1992年、日本で初めて聴覚障害者のプロの落語家に昇進。2001年芸名を「聞こえない」という意味のデフに改名し、師匠から独立した。

1980年代に日本ではおりからの手話ブームにのり、全国各地で次々に手話サークルができていた。その中で手話落語も広まっていった。一福さんも最盛期には年間70~80公演をこなし、手話落語家として忙しく活躍していた。1991年には、東京で開催された世界ろう者会議でも手話落語を披露し、世界各国から集まった人々の注目を浴びた。「日本的な味わいのある文化ですね。日本にはろう文化がある。すばらしい。」と高く評価され、一福さんは自信を持つことができた。また、「ぜひ海外でも手話落語を披露してください。」と声がかかり、これをきっかけに海外へ出かけるようになった。これまでイタリア、アメリカ、イギリスなどのろう者会議等で公演。今では、年1~2回の海外公演をこなす。初めて海外で落語を披露したのは、聞こえない人達50名程度の集まりだった。その時は、外国人にジョークが通じるだろうかという不安があったが、見るだけで分かるような内容のネタを演じようと決意し舞台を踏んだ。会場は大爆笑で、まさに、手話が国境を越えたと実感する。通訳なしに演じる場合もあるので、通常公演の数日前に現地入りして、現地の手話を少し習い、身振りと現地の手話を組み合わせて表現する。時には、公演後に外国人の方から手話やネタについてアドバイスをしてくれることもあり、手話落語は海外公演を経て内容がさらに充実していった。

国内での公演は主に友人、知人の紹介で、全国各地の落語の企画に出演している。景気が悪化し、5年前くらいから公演依頼は年間50件程度に減ってしまった。スポンサーや協力者もなくなり経済的にはかなり厳しい状況である。

現在、日本でアマチュア手話落語として活躍しているのは約30名、そのうち聴覚障害者は25名ぐらい、難聴者が5名くらい。以前は50名くらいいたが、高齢化により人数が減少してしいる。一福さんのお弟子さんは、現在5名、全国各地で活動している。主な活動拠点は、手話サークルで、各種のイベント(クリスマス会など)に参加して手話落語を披露している。

ここで小咄を一つ

<自由の女神の恋>

アメリカのニューヨークには自由の女神さんがいますね。彼女には恋人がいません。誰かいい人を紹介してくださいと言われたので、
「わかりました。日本の奈良には、大仏様という大きな男性がいますからご紹介しましょう。」
と伝えた。早速、奈良の大仏様は日本から泳いで太平洋をわたり、アメリカの自由の女神に会いに行き、二人の交際が始まりました。

<大仏のほくろ>

日本の大仏様には額に大きなほくろがある。奈良の大仏様に
「そのほくろはどうしてできたのですか。」
と問うてみると、昔、恋人であるアメリカの自由の女神に会いに行き、別れ際にキスをしました。このとき女神がかぶっている角のとがった冠が額にあたってしまい、大けがをしました。ほくろはこの傷跡です。

手話落語の研究と継承

手話落語の場合、身振りを大きく動かす必要がある。しかし舞台に正座をして落語をすると、どうしても動きが小さくなってしまう。日常会話と同じ手話を舞台の上でやっても動きが小さくてよく見えない、大きく表現するなどの工夫をしなければならない。これに加え、落語では、扇子と手ぬぐいを必ず使わなければならない所作がある。特に古典落語(古くから語り継がれている、あらすじの決まった話)の場合、伝統的な所作は勝手に変えることはできない。例えば、酒を飲むという動作は扇子を使って表現する決まりがある。しかし手話落語の場合は、扇子を使うことで手話ができなくなる、かといって扇子を使わないわけにいかない。手話と伝統的な所作をバランス良く使うための研究が必要である。

寄席で落語を演じる一福さんの写真

また、古典落語では使われている言葉が古いために、意味がわからないことや手話の表現がない場合がある。意味がわからない場合は、資料を使って調べ、易しい言葉に置き換える。時には高齢者の方に意味を尋ねたりする。昔の手話と今の手話では随分変化していて、残念ながら、昔の手話の大切な部分がどんどん失われている。高齢者の方々が使っていた手話というのは、非常に味わいがあり手話落語を表現する上でも大変参考になる。一福さんは高齢者の方々に自分から歩み寄り、時には病院への付き添いなど身の回りのお手伝いをしながら、古い手話を教えてもらう努力を重ねている。古典の難しい表現をわかりやすく表す研究と共に、古い手話を絶やさないように、落語を通して次世代に継承することも大切な仕事であると考えている。

手話を通して世界平和を

一福さんは、手話落語を教えるだけでなく、手話も教えている。小学校、中学校にでかけ、聞こえる子ども達を対象に、障害者はこういうものだとわかりやすく説明して理解を深めてもらっている。例えば、耳の聞こえない人達は、手話を使ってコミュニケーションをとっている。差別してはいけない。ということやあいさつなどの基本的な手話を教えると、みんなが興味をもってくれる。みんなに手話を覚えてもらえば、将来、その子ども達が聞こえない人達と出会ったときに、手話を知っていることでお互いの理解が深まる、心の扉が開くのではないかと考えている。

また、他の障害を持つ人達への配慮も欠かさない。障害のある人達への理解を深めてもらうために、新作落語(日常生活、身近な話題から自分で話を考案する。)のネタに、視覚障害、車いすの方や知的障害の親御さん達の苦労話を加える。例えば、マザー・テレサに出会ったときの話を落語にした。マザー・テレサは、一福さんに向かってものすごい勢いで話しかけ、何か訴えていたという。それは、「車いすの人がエレベーターもなく移動に困っている時に、どうして手伝ってあげないのか。日本人は冷たい。」という内容だった。その出来事を一福さんは日本の恥と感じ、以後落語のネタで話題にして理解を深めてもらっている。

また、落語の依頼があったときに、最初に必ず確認するのは、どのような人達を対象に公演するのかということ。例えば聞こえない人達だけの場合と手話がわからない難聴者の方がいる場合、目の見えない方もいる場合では、当日の会場の準備や資料をはじめ、落語のネタまで変ってくる。手話の読みとりの音声、OHPで文字を写す、点字資料など必要に応じて用意する。資料を作るのは大変だけれども、それを受けないということは差別につながる。海外公演でも同じで、日本の手話、アメリカ手話、ドイツ手話と翻訳していって、それをドイツ語の音声に出してもらうなど、音声に変える。世界ろう者会議などと同様に何人もの通訳者を介して、だれもが理解できるように配慮をする。

そして、一福さんの活動は常に、「ろう者の文化を大切にしてほしい。」という願いが込められている。イタリアでのろう学校を廃止問題に触れ、ろう学校の廃止はろう文化の消滅につながる。ろう学校を大切にしてほしいのだと強調する。落語でお金儲けをするのではなく、落語を通して、日本にはろう文化があるということを広め、理解を深めてもらいたい。それだけではなく、世界各地にろう者の文化があるということを伝えていきたい。

さらには、落語のチャリティーで資金を集め、地震の被害で学校がなくなった所やろう学校のない国に「一福学校」のようなものを作るというのが夢である。

また、北朝鮮問題、拉致問題で、例えば戦争になったとする。ろう者も戦地に派遣され、緊張状態となったとする。しかし北朝鮮側にもろう者がいるのをみて、聞こえない人同士戦争はできないという気持ちになる。お互い聞こえない者同士なのだから仲良くしようと握手をし、戦争は止めましょうという落ちをつける。聞こえない人達の強い結びつきによって世界平和をも実現できるのではないか。

このように手話落語を通して、様々なメッセージを世界に送り続けていきたい。