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文学にみる障害者像

松本清張作

『或る「小倉日記」伝』

生瀬克己

 文学とは本来はフィクションですが、その作品自体が時代の空気をたっぶりとすいこんで生き、かつ創作されているからには、文学作品も、広い意味での歴史資料と考えられます。その意味では、そのそれぞれの時代の文学作品のなかの障害者たちをどのように描いてきたかをはっきりさせることは、大変に重要なことだと思います。

 なぜなら、この国に培われてきた障害者像・障害者観がどのようなもので、どのようなものを契機に、どのように変化してきたかということの検討を抜きにしては、現代にふさわしい障害者像・障害者観を築きあげることはできないからです。

 以下、このような意味合いをこめて、1952年に発表されて、芥川賞受賞作となった松本清張の表題作を紹介することにします。

 作中の主人公・田上耕作はたぶんCP(脳性マヒ)であろうと思われます。この主人公の障害者としての人生がこの短編小説の主題です。空白とされてきた森鴎外の小倉在任時代の日記を聞き取りで埋めていこうとする耕作の活動をクライマックスにして彼の人生のそれぞれの局面が具体的に描かれています。

 そこでは、耕作に対する母親の思い、耕作の学校生活、耕作の生きがい、世間の耕作への見方、あるいは耕作の異性への思慕といったことがテーマになりますが、そのどれひとつをとっても、現代のノーマライゼーション以前の障害者の有り様・現実を端的に示しています。さらには、それまでは未知であった近代医学に出会うことで、障害者にどのような影響を与えたかというようなこともわかります。

 耕作が空白の鴎外日記を完成させえぬままに母の懐で落命し、彼の死後に本物の鴎外日記が発見されるという、この作品の結末それ自体も、障害者を「不運な存在」ときめつけるような、ノーマライゼーション以前の障害者観を象徴しているかもしれません。それはともかくとして耕作の人生にそって、もう少し具体的に紹介してみましょう。

 耕作は4歳になっても舌が回らず、涎をひきずっていました。親の対処は「両親は心労して、諸所の医者にみせたが、どこもはっきりした診断をくださなかった。神経系の障害であることはわかったが、病名は不明だった。九大にもみせたが、ここでもわからないのだ。多くの医者は小児麻痺だろうと言ったが、ある医者の言う、頸椎付近に発生した何か腫物(ツモール)のようなものが緩慢に発達して、神経系を冒したのではないかとの想像のほうが実際に近いかもしれない。治療の方法はないということである」とあります。

 「治療の方法があるか、ないか」ということが、障害者の運命をきめるような時代であったことが、「諸所の医者にみせた」との言い方のなかによくあらわれています。

 耕作の学校時代、その言語障害のゆえに、教師の口答はされませんでしたが、「試験の答案はいつも優秀だった」のです。それでも、小学校時代の彼の周囲は、彼のことを「口を絶えずあけ放したままで、言語もはっきりしないこの子は、誰がみても白痴のように思えた」というようなことでした。当時の障害者が、どのようにして差別されていたがが非常によくわかるくだりです。そして、耕作目身の気持ちは「学校の成績がよかったことは、耕作自身にも、多少、世間に対して、自信らしいものをつけさせ、不具者がもつ、ひけめな暗い気持から救った」とあります。

 当時の障害者は、「人並み以上の何か」をもちあわせていないと、かけらほどの誇りももちえず、障害ゆえにヒケメに苦しまなければならなかったのでしょう。また、母ふじの考えで、耕作は洋服の仕立屋をめざしますが、この職に挫折して以後「耕作は死ぬまで収入のある仕事につけなかった」というようなところにも、当時の障害者の現実がよくあらわれています。いわば、「障害者の残存機能」を活用した職業参加以外には、その社会参加の方途はほとんどなかったということではないでしょうか。それでも、耕作は成績がよかったせいで、この地域の有力者である病院長にひろわれてこの人の蔵書の整理にあたります。

 そして、このことが契機となって、鴎外日記の空白をうめることをおもいつくのです。しかし、ここでも、耕作は苦労します。たとえば安国寺の住職の妻を尋ねたときのことです。耕作を見たこの家の当主は「耕作を見て呆れたように立っている。この相手の耕作の来意が通じるのは骨の折れることだった。どんな用事だ、玉水アキは自分の姉だが、と彼は、やがてにやにや笑いながらきいた。薄ら笑いは耕作の人体を見た上でのことなのである」といった調子でした。

 耕作の希望の灯火を消させたくない母が俥2台をやとって、この家を再度訪問し、母が上品な挨拶をすると、その態度は「わかってみれば、やはり田舎の人なのだ。2人を座敷に上げ、ちょうど居合わせた老婆をひきあわせた」と豹変します。外見や物腰で態度が違うというのは、いくらか偏見の匂いがしますが、それを別にするとしても、外見や物腰を整えるというのは、障害者には楽なことではないでしょう。

 さて、耕作は、病院長の支援を得たことで、山田てる子という看護婦に親切にされます。耕作はてる子に好意を感じ、母は耕作の嫁にと願います。母は、あるいは、自分の死後の介護をてる子に託そうとしたのかもしれません。しかし、てる子の返答はつめたく一言のもとに断られます。

 その結果、「母子の愛情はいよいよお互いによりそい、2人だけの体温であたためあうというようになった」といった関係になります。当時の障害者にとって、結局のところは、最大の理解者・支援者は「母」しかいなかったということなのでしょうか。いわば、耕作のかかえた課題の解決こそが、ノーマライゼーションのための第一課題と言えるかもしれません。

(なませかつみ 桃山学院大学)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1995年11月号(第15巻 通巻172号) 29頁~31頁