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戦後50年 戦争と障害者

はらみちを


 戦後50年、今年ほどさまざまなカタチで戦後の記録・隠されていた実態が噴出した年はなかった。

 この巨大な集団殺戮のパニックが暴かれへドのように吐き出される惨状に唖然と息をのんだ。これは人間のすることとは思えぬ。だが戦争という巨大な悪魔は人間を狂わせ、暴走したのだ。砲丸を叩きこみ牙をむき襲いかかる兵士に逃げまどう住民、尚も執拗に追う手榴弾、火焔放射器、非戦闘員であろうがなかろうが犬1匹も容赦しない、この集団殺戮の景色の中、障害者が1人もいないことに気がついた。これはおかしい、あの非戦闘員の中に障害者は1人もいなかったのか、いないことはあるまい。いつの時代も障害者は存在したのだ。その歴史は鮮やかに残っている。

 障害者の視点からみた記録はないのか…これでは50年前の戦争という歴史の中で、障害者は1人もいなかったことになる。この歴史の中のポカッとあいた空白をそのままにしていいのか…。

 戦争って何だ。ボクらからみると、どうしても強者のゲームにしかみえぬ。例え敗者といえども勝者対敗者の構図、いつ逆転するやもしれぬ、やったりやられたりじゃないか。ボクら弱者にとって本質的な生命の尊厳とは無関係の景色といわざるをえない。

 ボクら今、大切なことは、あのいまわしい戦争を避けるのではなく、ま正面から本気でみつめることではないか。このチャンスを逃がすと大変なことになるという危機感があった。

 ヒロシマでその気運が昂まり、この夏、戦後50年「戦争、平和、障害者フォーラム―あのとき障害者は」を開催することになった。以下フォーラムの概略である。

● 第1部 基調講演

 はらみちを『ボクは軍国少年だった』

「ボクの戦争はあのガッガッガッと響く軍靴の音から始まりました。昭和12年1月。当時、父の勤務地、カネボウ青島工場に、太平洋方面第三艦隊司令長官長谷川海軍中将が上陸駐屯し、中国人労務者のスト警備についたのです。物々しい武装化した海軍陸戦隊に守られ、ボクは日本人学校へ通学しました。5月に父が急死し、7月盧溝橋事件がもとで日中戦争が勃発したので、一家は母の郷里土広島の山村に引揚げました。

 農村にも戦争がありました。食糧増産、供出米割当、隠得米強制捜査、防空訓練、勤労奉仕と一家に1人は動員されていました。男手はみんな兵隊にとられ、村は老人、婦女子だけが田圃で働いていました。忙しいとボヤきながら母も竹槍訓練にかり出されていました。障害児の世話のため出られないといえません。夜、こっそり、老母が大きな姐さん、知的障害者を散歩させていました。

 みちゃいかん、誰にもあの家に障害者がおるというちゃいかん。母はそういってました。国家に役立たないものは非国民と言われるので、1日中座敷牢に隠していたのです。

 昭和19年になると戦局は悪化、ボクらはこぞって少年航空兵に志願するのです。そのときボクは障害者だーという壁にぶつかり、彼らから強引に引き裂かれ孤独を味わいます。それをみた近所の軍人がボクの足を祈祷によって歩かせようと、神社の長い石段を登らせ訓練させました。

 ボクは人間魚雷なら乗れる、適材適所を得たら障害者だって戦力になると思ったけど、国家は飽くまで健常者以外は排除したのです。1億一心火の玉だーといいながらこれじゃおかしい、1億が平等じゃない。

 航空兵になった友から「お前は銃後の守りをしっかりやり給え」という便りがきました。

 一方、戦争に行きたくなかった兄が無線技術があるため1年繰り上げの19歳で召集。その兄が出征する日、母は足にしがみつき哭き狂って行っちゃいかん、犬死にじゃ、この戦争はウソじゃ、日本は負けるといいました。ボクは何と女々しい母だろうと思いましたが母は正しかった。兄はルソン島で餓死し、日本は敗けました。

 再びボクの耳に、あのガッガッガッという軍靴の音が追ってきます。敗戦近く、村に海軍少年航空兵の集団が松根油搾りにきたのです。既に日本には彼らの乗る飛行機が1機もなかったのです。

 戦中の村にキオツケおっちゃんが彷徨してました。「キオツケーッ!天皇陛下の命令ッ」と挙手の礼をし、歩調をとり、駈足で走ったり、ラッパを吹くまねをして行進したり、別に危害を加えないので村人は放任します。子ども達は「キチガイ、キチガイ」と叫んで石を投げます。おっちゃんは何の反応も示しません。苛酷な戦争は精神障害者をつくり村に棄てたのです。

 あのガッガッガッという軍靴と銃剣の無気質な響きが次第に巨きくなってボクの胸を踏みにじって消えました……。」

● 第2部 シンポジウム

『あのとき障害者は』

司会者

・鈴木 勉 42歳(広島女子大教授)

「この50年をピースヒロシマ障害者の会の私達は黙って見過すわけにはいきません」

パネラー

・滝口富美子 70歳(書家)身障者。

「私は当時、青森に住んでいて女学生でした。歩行困難で母に乳母車を押して貰い通学しました。空襲警報が鳴るたび必死で防空壕に入りました。

 あるとき一人遅れた私にグラマンが追いかけ機銃掃射をあびせてきたのです。そりや怖くて死んだかと思いました。幸に生命拾いしたけどすぐ近くの人が無惨に死んでいるのをみました」

・森川 浩 62歳(元テーラー)身障者。

「私は東京の光明養護学校にいました。日本でも初めての各種学校です。当時東京では毎晩のように艦載機がとんできて辺りはまっ赤な火の海でした。その頃都会の学校では学童疎開が行われていたのですが、どこも障害児は受入れてくれません。そんなとき軍人がきて校長に青酸カリを渡しました。それで校長は必死になって疎開先を捜し回りやっと長野のホテルに行きました。その10日後東京大空襲に遭い学校は全焼したそうです」

・西口カズエ 80歳(元三療師)視力障害。

「私は原爆のときは壁にへばりついて助かりました。母と一緒に死のうと、炎の中を逃げました。助けを求めましたが、みんな盲人なんかに目もくれません。それどころじゃなかったのです。途中で腰をぬかして立てなかった人を治療して助けました。それから陸軍病院に雇われました。そこでは戦争が激しくなればなるほど障害者がふえていきます。戦争はほんとに障害者をつくるものですね…」

・仲川文江 43歳(手話通訳)

「戦時中、聴力障害の人は物資の配給などとばしてのけものにされていました。気の毒に思った隣組の人がおすそわけしていたそうです。

 耳が聴えませんから、殊に空襲警報のサイレンの音や避難する人達から情報が得られず、うろうろと逃げまどい危険な目にさらされました。

 当時のろう学校を卒業した者はみんな徴兵免除だったのですが、貧しくてろう学校に行けなかった高山さんには徴兵検査がきたのです。

 軍人の検査官が、キサマは徴兵忌避のためわざと耳が聴こえんふりしてるんだろうと殴る蹴るのリンチを加え失神させたそうです。

 またその当時は手話は禁じられていました。ろう学校はあくまで口で話す口話教育でした。まちで手話をしてるとお巡りさんに叱られたそうです。それでも家庭では内緒で独自の手話をしていたようです。

 広島ろう学校の生徒さん達が吉田町に学童疎開をしたという事実があるのですが、どの公文書にも1字の記載もありません。他の普通校の学童疎開は載っているのに、国家に役立たない障害者は抹消され、歴史に存在しなかったことにしているのです。」

 こうしてフォーラムは戦争が如何に障害者を斬り棄ててきたかを鮮やかにした。ひとことにいって邪魔だからである。

 高橋偸さんが満州脱出中、足手まといになるからと知的障害者を軍人が銃殺したのが今も忘れられないという。こんな話が山ほどある。生命の尊厳どころじゃない。

 あの狂暴なパニックが再び勃発しないという保証はない。今後平和なくしては生きられないギリギリの障害者、アジアを含めた共通の弱者の立場からの平和―、戦争危機を予知するセンサー、強い拒否の発信が地球住民にとって如何に重要か、戦後50年はそれを教えてくれる。

(はらみちを 画家)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1995年12月号(第15巻 通巻173号) 38頁~41頁