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ワールド・ナウ

鶴田雅英

フィリピン

「段差なきセンター(TAHANANG WALANG HAGDANAN)」で働いて

 

●タハナン・ワラン・ハグダナンについて

 私が1995年の5月から約半年滞在し、今も通っているフィリピンの施設について紹介したい。

 タハナン・ワラン・ハグダナン(TWH)とはフィリピン語で“階段のない家”という意味であり、日本では「段差なきセンター」と訳されている(英語名はHouse with no step)。障害者の経済的な自立をめざした施設で、あえて日本の施設と比較すると、働いている人の障害の程度や労働の形態では福祉工場に近い。

 その中心はマニラ近郊のカインタにあり、カトリック教会が所有している4ヘクタールの敷地に約270人の障害者が主に働いている。約50人の障害者は施設内で生活しているが、地域で部屋を探して生活することが奨励されており、そのためのプロジェクトも持っている。障害種別で言えば身体障害、ほとんどが肢体不自由である。日本と違うのは若い人も含めてポリオの人が多いことである。

 この施設の中心は障害者自身が運営し、非障害者も共に働いている工場であり、すべてのセクションで車いすに乗った障害者が責任者になっている。工場は金属加工(ここは主に車いすを作製しておりフィリピンで最も大きな車いす工場らしい)、木工、縫製、パッケージング、コンピュータ入力などの仕事をしているが、同時に職業訓練の場でもある。

 この工場がタハナンのメインだが、その他に障害者の教育のためのプログラム、リサール州での地域に根ざしたリハビリテーション(CBR)、さらに車いすなどの補装具が買えない人のための補助のプログラムなども行っている。そして、日本であれば当然政府の補助があるこれらの事業に、政府の補助はほとんどない。それらの事業について少し説明する。

●障害者の教育プログラム

 障害者の教育のためのプログラムとして、タハナンは障害者が大学などに行くための寮を数か所で運営している。また、カインタでは初等教育から排除されている障害者(私も数人から、地域の学校から排除されたという話を聞いた)が生活し、この地域の学校に通っている。そのためにタハナン自身で地域の学校を障害者が使えるように改造したそうだ。さらに学齢期を過ぎて、地域の学校に行きにくい人のための特殊教育も行っている。

●移動手段の公的援助

 次に車いすなどの取得のプログラムだが、フィリピンでは残念ながら車いすなどを購入するための公的な援助はない。日本で障害者のアクセスの問題といえば公共交通機関などが障害者に使いにくいということであり、この国でも言うまでもなくそれらの問題はある。しかし、それ以前に、障害者が車いすなどの補装具が買えないという問題がある。そのため、それらの補装具の購入の補助をするというのが、このプログラムの趣旨で、それぞれの当事者に負担できる部分は負担してもらって、彼らがまかないきれない部分を補うという形をとっている。この制度は車いすなどが買えない障害者のためでなく、それを作製するタハナンの障害者の利益にもつながっている。

 また、タハナンには補装具センターもあり、安価な補装具の提供をしている。私はここに補装具を作りに来ている人や、この補装具センターで働いている人が生活するそのセンターの2階に居候させてもらっていた。

●労働時間・賃金と物価

 ここの労働時間は始業が朝早く、7時、終業は月曜日が5時まで、火曜日から金曜日までが4時半まで、そして土曜日は午前中という長時間労働だ。とても、それがいいことだとは思えないが、それがここの現実だ。また、お菓子を梱包するセクションは交代勤務で、障害者や女性を中心に深夜も働いている。

 初任給は障害の有無にかかわらず、1日70ペソで平均100ペソ程度(1995年11月25日現在1ペソ約4円、しかし、金銭価値が全然違うわけでそれを比較する矛盾は常につきまとう。生活必需品の物価は日本の5分の1から20分の1くらいで、平均すると8分の1くらいか?)。非障害者の多くは3か月の短期契約になっており、それだけ考えると条件は障害者より厳しい。この地域の最低賃金が148ペソなので、ここの賃金はそれを大きく下回っているが、日本のように、働いているのに最低賃金を下回ってる人が層として存在しているのは障害者だけ、という状況ではない。日本の授産施設や共同作業所の平均工賃が1万円とか2万円だ、と言うのとは意味が違う。これくらいの金額で働いている人は他にもけっこう、たくさんいる。

 このような状況でタハナンの人たちの暮らしは他の多くのフィリピン人同様、質素にならざるを得ない(言うまでもなく一部のフィリピン人はとても金持ちだ)。フィリピン人は明るいとか、障害者なのに明るいとかいう類型的な見方は好きじゃないけれども、ここでの暮らしは私にとって、とても楽しく暖かいものだった。

●日本からの援助について

 フィリピンで、おそらく最も有名な歴史家であるレナト・コンスタンティーノ氏は「第2の侵略」の後書きの中で以下のように言っている。

  「私自身の経験に基づいて日本の人々に申し上げたいことは、私たちフィリピン人としては、あなたがたのチャリティー(慈善行為)を必要としていないということです。あなたがたこそが、戦争ゆえの報いを受けるべきなのです。日本は実際は自分自身で恩恵を受けながら、フィリピンに対して施しをしていると誤って思い込み続けることはできません。しかるに、事実を明らかにしてこそ、真理と平等の精神に基づいたお互いの関係を再建することができるのではないでしょうか。」

 必要なのは「施し」ではなく、対等な関係を作るための模索と実践であり、日本という国やそこでの生活のありかたをも問い返していくことなのだと思う。こんな風に言葉にすると、ちょっとかっこよすぎるけど。

(つるたまさひで 元・東京コロニー東京都大田福祉工場)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年2月号(第16巻 通巻175号) 66頁~68頁