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文学にみる障害者像

谷崎潤一郎著 『春琴抄』

長棟まお

 厄介なことに、筆者が全盲であると知って、この小説について熱心に話しかけてくる人の中には、おおよそ次の2つに該当するような反応が際立つ。つまり1つは無闇に腹を立て、1つは鵜呑みにするのである。

 まず、腹を立てる方はすさまじい。その言い訳をかい摘まんで紹介すると、

 「作者の谷崎潤一郎は、誇張するにも程がある。主人公の春琴は、いかにも世間が想像しそうな『暗い盲女』の典型だし、第一、9歳で失明しているのに、40になっても50を過ぎても、食事から排便にいたるまで、平気で人の手を煩わせる。よりにもよって、我が家の湯殿へ手曳きがいるとは。風呂へは一山越えて行くのか。」

と言うのだ。彼等は又、この物語の山場にたいしても批判的でこう主張する。

 「春琴は睡眠中、顔に煮え湯を注がれて大やけどをおったのだ。となれば、例え佐助が自らの目を針で突こうと、2人よりそう折などには、いやでも彼の触覚は、そのあからさまな傷あとを認識せざるを得ないはず。いくら見るなとも言われ、また自分も見たくないからとは言え、以前の美しい面影を損なわずに記憶しておくためには、己も失明すればよいなどと考えるのは、あまりに短絡的である。」

 一方、鵜呑みにする方も敗けてはいない。あるいは筆者への世辞もあってか、

 「あの小説を読むと、目の見えない人はすばらしいですね。やはり皆さん感覚がするどいから、天才肌になるんでしょうか。」

など言うのから、

 「目の見えない女性が、人前で食事をしたがらない気持ちは、すごくよくわかります。」

 「あなたが物に触れる時は、きっと我々には想像もつかない程、敏感に感じるんでしょうね。まさに官能美の極地だな。」

 さらに、ある眼科医にいたっては、

 「ああいう(春琴の)気難かしさは、とても勉強になりますよ。なかなかあそこまでは教えてくれませんからね、普通は。」

 愚考を承知で書き添えるが、目の見えない人に天才肌が多いという話しは、残念ながら聞かないし、筆者は別段、人前での飲食を厭わない。又触覚を主体としたわが現実の日常が、特に官能的だとも思えないし、ましてやこの超耽美的な小説を、まるで目の見えない人に接する上での参考書のように錯覚する人物があろうなどとは、筆者にはとうてい思いもよらないことだった。

 では、なぜそういうことになるのか。それは恐らく、文豪谷崎の見事な仕掛に、読者が手もなく嵌まりこんでしまうからにほかならない。作者はまず、大阪市下寺町にあるという春琴・佐助の墓を書く。それも自身が訪れた報告として、まるで細密画のように。ついで、彼女の3回忌に、佐助が編ませて配ったらしい、ということになっている『鵙屋春琴伝』なる小冊子を登場させる。そうしておいて、この架空の伝記を随所に引用しながら、作者は筆を進めるのだ。ほかにも、唯一現存する写真、晩年に仕えた老女の言、卓越した音曲の枝に対する極めて高い世評等と、春琴の実在を匂わせる工夫は後をたたない。さらに、彼女の手になる『春鶯囀』等にいたっては、「先日聞かせて貰ったが、独創性に富み、作曲家としての天分を窺知するにたりる」などと、ご丁寧に谷崎本人の感想までが書き添えられているのである。

 こう一途にあおられては、いかに冷静な読者といえどもそろそろ怪しくなってくる。

 「どんな曲なのだろう、春鶯囀は。今でも演奏されているかしら?」

 などと、あらぬ思いがふと心をよぎったりしはじめるのではあるまいか。それへ作者は

だめをおす。

 「佐助が自ら目を突いた話しを天龍寺の峩山和尚が聞いて転瞬の間に内外を断じ醜を美に回した禅機を賞し達人の所為に庶幾しと云ったと云うが読者諸賢は首肯せらるるや否や」

と、これは実在した禅家の高僧に、佐助の生きざまに関する深淵な感想を一言ぽつりともらさせて、作者は筆を置くのである。かくして読者は、いつしかこの作品世界の有り様をついそのまま、自分のいる現実世界の土俵へと乗せてしまう。前述のような反応は、まさにその結果なのである。

 さて、これは筆者の自論なのだが、ことに『春琴抄』のような耽美主義の小説は、どっぷりとその作品の中に浸り込んで読むにかぎる。例えば池が月を映すように先はあるがままを受け入れるのだ。この方法は読者にとって、足しにこそなれ決して無駄とは思えない。

 例え腹を立てるにせよ、また鵜呑みにするにせよ、一度はこの段階を経ることを、筆者は強く願っている。だがしかし、敢えて言うなら浮世の手堅い約束として、ひとたび本をとじてのちは、それが作者が描きおおせた微妙の幻想、妙なる絵空事であったことを、常に忘るべきではない。

 とはいえ、この当り前すぎるほど当り前な虚実のけじめは、存外侮れぬものらしい。ある歴史学者の話によれば、昨年、NHKの大河ドラマが好評を博するにつれ、少なからぬ視聴者が「徳川吉宗は、独身じゃなかったんですね。」とか真顔で言ってきたという。よく聞いてみれば何のことはない。すでに茶の間に浸透していた、松平健扮するところの『暴れん坊将軍』が彼等の抱く吉宗像を知らぬ間に決していたのである。

 『春琴抄』が世に問われて早六十余年。

 この本をとじた数えきれない読者達は、しばしばその「神秘の盲女」の幻影を通して現実を見てきたに相違ない。でも、それはそれ。本の外に、そんな盲女はおりません。そう穏やかに、しかし根気よく理解を促し続ける努力が現実の「神秘でない盲女」達にはまだしばらくは必要らしい。

(ながむねまお 詩人・劇作家)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年3月(第16巻 通巻第176号) 35頁~37頁