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文学にみる障害者像

三島由紀夫著 『金閣寺』

櫻田 淳

 「障害を持つ人々は、どこまで自らの障害を相対化できるのか。」私は、障害を持つ人々が突き付けられる課題の最たるものは、結局、このことなのではないかと考えてきた。障害を持つ人々にとって、障害を持つという事実は、自分を取り巻く環境のようなものである。そうであるならば、この環境をどのように解釈するかということが、障害を持つ人々には重大な問題となるのである。

 三島由紀夫の傑作『金閣寺』には、障害を持つ二人の青年が登場する。一人は、吃音の障害を持ち、金閣寺放火の挙に及ぶ主人公、溝口である。他の一人は、溝口の大学時代の友人として、溝口に影響を与え続けることになる柏木である。

 おそらく、この『金閣寺』という作品の中で、多くの人々の関心を惹くのは、主人公としての溝口の辿った軌跡であろう。しかし、高校時代に初めて『金閣寺』を読んで以来、私が強烈な印象を受け、対話の対象としてきたのは、むしろ、柏木の方であった。私は柏木の姿に、障害を持っているが故の真面目さと、その真面目さが生む人間としての下劣さを見たからである。

 柏木は、内翻足(両脚の奇形)の障害を持ち、その障害を半ば確信犯的に利用しながら、周囲に向き合おうとする。女性と付き合うにも、柏木は、「彼女は俺の内翻足を愛しているのだ」と開き直り、隣の溝口にも、「吃れ。彼女だって吃りに惚れるかもしれないんだ」とけしかけるのである。私は、このような柏木のシニカルな言動には、一時期、相当に影響を受けたものである。「自分の障害が制約ではなく道具にもなるかもしれない」と考えることは、私には確かに納得のいくものであったからである。障害を持つ多くの人々にとって、自己の障害は確かに制約を与えるものでしかない。しかし、周囲の人々に伍して渡り合おうと考えれば考えるほど、「災い転じて福と成す」方法を見付けようと必死になる。「使えるものは何でも使う」ということを考えれば、自分の障害ですら使えるはずだと考えるのは、自然なことであった。私にとっては、柏木は、半ば分身のような存在に映っていたのである。

 ただし、幾歳月が経ち、二度、三度読み返した後では、私は、柏木が自らの障害に呪縛された人物であることに気付いていった。「彼女は俺の内翻足を愛しているのだ」と大見得を切った柏木は、障害者の立場でしか説明することができなかった。「あの人の目はきれいな目や思うけど…」。このように周囲の女性が感じていることには、柏木は気付いていなかった。柏木は、自己の障害に自縄自縛になっていたのである。柏木は、自己の障害を「道具」として見るところまでは相対化してはいるが、それが「唯一の道具」であると思い込んでしまった。私は、柏木の中に、障害を持つ人々が障害者の立場でしか自らを説明することができないことの淋しさを感じ始めていたのである。

 ところで、私は、このような柏木という青年を描き出した三島には、何時も敬服の想いを禁じ得ない。その理由は、自己の障害に自縄自縛になる柏木の描き方もさることながら、柏木が持つ人間としての欲望、下劣さというものに眼を背けていないことにある。

 たとえば、柏木の姿は、少なくない人々にとっては、確かに違和感や嫌悪感を感じさせるものであるかもしれない。「何とも、えげつない奴…」。これが、柏木に触れた多くの人々が抱く率直な感情であろう。

 しかしながら、戦後、特に近年の文学作品の中では、たとえば大江健三郎の作品に典型的に見られるように、障害を持つ人々は、おおかた、人間の持つ赤裸々の欲望といったものとは、無縁に存在しているかのように描かれていた。逆境に抗して健気に頑張っている人々、周囲の人々から温かい眼で見守られている人々。それが、多かれ少なかれ、戦後の文学における「障害者像」であったわけである。

 このような「障害者像」は、確かに、障害を持たない人々にとっては、歓迎できるものであったかもしれない。多くの人々にとって、最も安心感を与えることは、「自分よりも悪い条件の下にある人々が、それにもかかわらず頑張っているのを間近に見ること」なのである。障害を持つ人々は、障害を持たない人々に「安心」や「共感」を与える人々としての役割を担わされてきたのである。そして、昨今、テレビ・ドラマなどで障害を持つ人々が描かれれば、ヒューマニズムの美名の下、このような固定したイメージに沿ったものになっている。

 もし、この現状を三島が眼の辺りにしていたら、三島は、それこそ嫌悪感を露わにしたのではないであろうか。「俺は戦後と寝なかった…」というのは、三島の有名な言葉であるが、「戦後と寝なかった」三島にしてみれば、このような障害を持つ人々の扱われ方は、「空疎なヒューマニズム」の極致と映ったかもしれない。

 率直にいえば、障害を持とうと持つまいと、人間が人間である限りは、高貴な部分も下劣な部分も併せ持っている。そして、障害を持とうと持つまいと、男が男である限りは、「美女と付き合っていたい」と考えている。また、障害を持つ人々には、障害を持つ故の嫌らしさやえげつなさというものがある。私は、障害を持つ人々に対する一種の思い込みを持ち込んで書かれた戦後の多くの文学作品に比べれば、『金閣寺』は、はるかにモラリズムに忠実な作品ではなかったかと感じている。そして、この『金閣寺』こそは、私にとっては、自分の内なる弱さと下劣さとを確認させる作品であったのである。

(さくらだじゅん 愛知和男代議士政策担当補佐)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年4月号(第16巻 通巻177号) 41頁~43頁