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文学にみる障害者像

原田康子著 『挽歌』

松原 亮

 『挽歌』は昭和31年12月、東都書房より出版される。著者「原田康子」という名はほとんど知られていなかった。しかし、爆発的な売れ行きをしめし72万部を売るというベストセラー作品になった。既成のものでない、また新しい女性作家を求めていた時に、まさに彗星のように現れた作家というべきではないだろうか。

 ヒロイン兵藤怜子は数え22歳。15の時、左肘に菌が入り、その後遺症で、変形し、曲りにくく、力が入らないという障害をかかえる。それ以後学校も行かず、仕事もしていない。

 家は代々資産家であったが、だいぶ縮小されてしまった。家も古くなった。

 家族は、父、弟、ばあやの四人である。母親は子供のころになくしている。このことが、この作品に大きく影響している。ヒロインの活動範囲は、劇団みみずく座の美術担当であり、仲間のあつまるダフネという喫茶店である。

 怜子が公園で、寝そべってタバコを吸っていると、3、4歳の女の子の投げたマリがとんでくる。それを仔犬が追いかけてくる。彼女はそのマリをとるが、犬に手を噛まれてしまう。「だいじょうぶですか」と出てくるのが娘の父親であり、犬の飼い主でもある桂木節雄。37、8歳の設計技師である。彼には「うすくけむったような眼」をもつ美貌の妻がいる。彼女も桂木と対立した役を担う。この夫人が男(医学生)と歩いているところを見てから、怜子は桂木に接近しはじめる。

 この美しい人妻が、不倫していることが、信じられなかったのだろう。何度も桂木に会ううちに、そのことを忠告してやろうと、メモを見せるが、無視される。彼女は桂木を「怒らせなければダメだ」と思い、「コキュ」と言ってしまう。さすがの桂木もこれには感応し、彼女を抱きしめ接吻してしまう。怜子には桂木が妻に浮気をされて、可哀そうだという気持ちがあったのだろう。父親に買ってもらったアフタヌーンドレスを着て、次の日、桂木に会いに行く。

 「本当はあやまりに来たんです」と言って頬を泪でぬらす。怜子をいじらしく、かわいく思ったのか、彼は、「泊まりでK温泉に行くか」と誘う。怜子は、「彼と行かねばならぬ……」と思いつめてしまう。

 旅先で怜子は梨の皮を剥こうとして、左手でおさえきれず、梨は床にころがってしまう。恋人のために梨ひとつ剥けぬことに泪する。

 怜子は気弱な女でないことを桂木に分かってもらおうと、艶のない、変形した肘を見せてしまう。そして、「おどろかないの」と問うと、「たいていのことはね」とかわされる。このことに怜子は「おどろかぬということはない、彼はおどろいても、それを表面に出さぬだけなのだ」と思う。この温泉泊まりで、怜子は自分に対しての桂木の愛情に疑念をもつ。

 怜子はK温泉から帰ると、その不満を桂木夫人にぶつける。桂木が札幌出張中、夫人をモデルに描かないかと友人をさそい、桂木家の内に入る口実にする。そして愛人の古瀬達巳の名を出してイヤ味を言うが、実際は夫人の美しさとやさしさにひかれているのは怜子だ。それは桂木を愛するのと同等といえる。しかし夫人には桂木のことは全く知らないことになっている。出張から帰ってくれば、イヤでも、夫人が怜子の話をする。また、桂木が怜子の話をするかもしれない。それだけは口止めしたかった。そのため彼女は札幌へ行き桂木に会う。

 実家に数泊、桂木は自分と結婚する気だと知るが、彼女は、自分を本当に愛しているのか、まだ信じられない。桂木が出張から帰ってくれば、桂木の夫人への裏切りがはっきりしてしまう。彼女はそれだけはとめたかった。そこで、夫人の家で桂木の帰宅を待つという芝居に出る。こうすれば、桂木の機先を制することができる。ヒロインの心の奥底では夫人を母親とするという思いがあったのであろう。

 ふだんから、桂木の愛に〝不信〟をもっていたヒロインはその時にも、愛想のない彼に業を煮やし、とうとう彼の事務所でやり合う場面がある。

――「わたしたち、どうせあいこよ。わたしがムシュを好きになったわけ教えてあげる」「ムシュがコキュだからよ」言ってしまってから、わたしは自分の言葉に慄えあがった。わたしが慄えたのは、言ったことへの悔いからばかりではない。わたしは無意識に喋ったその言葉が決して悪態ではなく、それこそわたしの本音だと気づいたのである。 ――

 その後、桂木夫人に桂木と怜子との関係が知れた時、夫人はあまり動揺しなかった。ヒロインは、追い打ちをかけるように、夫人の利用した札幌のホテルにも行った。それがきっかけとなり、夫人は自殺してしまう。怜子はなぜ、あれほど母親のように優しくしてもらった夫人に、むごい言葉をあびせたのだろうか。強いてその答えをいうなら、体のキズが、心のキズとして、のこってしまったとしか、いいようがない。 ――

 私はこの本を最初新潮文庫で読んだ。そして、次に角川文庫で読んでみると、ある箇所が、異なっていたのである。講談社版を読むと、角川文庫と同じ言葉であった。それは「片輪」という言葉である。怜子との問答で桂木の科白である。「――片輪のせいか」と。

 怜子はこの時に桂木との別れを模索したのではないか。桂木の妻の不倫も浮かび上がってくるし、結末もなんとなく予想できる強い言葉である。この言葉が夫人に追い打ちをかける起爆剤となったのかもしれない。

(まつばらあきら しののめ会)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年5月号(第16巻 通巻178号) 64頁~65頁