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文学にみる障害者像

西村京太郎著

『四つの終止符』

河合洋祐

 『四つの終止符』という西村京太郎氏の推理小説は、聴覚障害者が主人公となっている点で、特異な作品となっています。

 概要は、山陰地方に住む聴覚障害成年がおり、祖父と病弱な母を抱えて町工場に勤めながら貧しい生活に耐えています。彼は耳が聞こえないため同僚から疎外され孤立していますが、同情を寄せるバーの女があり、死んだ弟への思いが重なって何かと優しくしてくれます。

 この青年の母親は青年が母親のためにと買い求めた栄養剤を服用後死亡し、医師により死因は“砒素中毒”と判明します。母親の急死に動揺した青年は街にさまよい出て、挙動を怪しんだ警察に逮捕されますが、取り調べの際コミュニケーションの不通から、ますます警察は容疑を深めます。家族は助けたい一心で、弁護士の言う刑法第40条の規定を頼みに罪を認めるよう奨めます。誰にも無罪を信じてもらえないことに絶望した青年は自殺を遂げてしまいます。しかし彼の死後に、彼に栄養剤を売った薬剤師一家の家庭悲劇の捲き添えになった真相が明らかになるというものであります。

 この作品は当然フィクションですが、かなりリアリティを持つ題材となっているのは、実際に起こった聴覚障害者青年の裁判事件を参考にしているためであると思います。昭和40年の“蛇の目寿司事件”で知られる、聴覚障害者青年2人の障害致死事件の裁判がそれです。この小説を映画化した大原秋年氏が、この裁判を舞台で取り上げる企画を持って西村氏に働きかけた結果、この作品が作られたと聞いております。

 容疑者の取り調べに当たっては、証拠を重視する現在と違って、自白が中心となっていた時代ではコミュニケーションの壁は決定的要素となります。

 耳の聞こえない人たちのために大切な役割を果たしている手話通訳者の養成が始まったのは、昭和45年の厚生省の手話奉仕員養成事業からであり、それまでは司法警察の通訳はほとんどろう学校の教師が当たってきました。しかも、ろう学校のすべては昭和初期より手話を禁止してしまい、口話法(発声・発語、読話)による徹底した教育をろうの生徒に強制していました。

 小説の聴覚障害青年の孤立した閉鎖的な環境を一般の人が読めば誇張と思われるかもしれませんが、社会的差別だけでなく教育行政によってもこのような偏重した面があったのです。

 ただ、聴覚障害者からこの小説を見た場合、仲間としてのろう集団の関わりが出てこないことに奇異な感じを持ちます。“蛇の目寿司裁判”の時も仲間が救援活動を拡げ、障害者の人権を守る運動の先駆けとなり、東京のろうあ異動の興隆につながっています。ろう学校で手話を禁圧され、手話の手を鞭で叩かれたり、手首を縛られても教師の眼の届かないところで仲間同士で手話を用いながら大切に守り続けたのですから、連帯感は強固なものがあったのです。職場では孤立し、手話を知らない家族とは十分な話し合いも出来ないことから聞こえない者同士の親密感情は特別なものがありました。

 弁護士が被疑者の主張を知りながら、反論の証拠を得られないままに、刑法第40条の軽減規定で家族を説得するのは、この小説が設定した時代では当たり前の風潮と思っています。“蛇の目寿司裁判”の時も依頼に行った弁護士事務所が、ろう者とのコミュニケーションの難しさと、刑法第40条で重い罪にはならない考えから弁護を断わるところが多かったことからも判ります。

 この事実は過去の日本にあっては、障害者は人権の対象外とされていたことの証明にほかならないと思っています。しかも本当に過去のものになったかと言えば、必ずしもそうではなく、弁護士が接見権を行使する際に必要な手話通訳同行の手続きの繁雑さや、法廷における傍聴者への手話通訳の配置が裁判官の権限であったりする面が改善されたとはいえないのです。刑法第40条は昨年の改正で削除されましたが、聴覚障害のために生じる不利な面を補う措置については検討された様子もないことに不安を感じます。

 冤罪による主人公の自殺という悲劇は、いいようのない暗さですが、これは障害を持つだけで対等の人間関係を許されず、人間としての主体性が確立されることのなかった時代の閉塞性の象徴として見れば、納得できます。

 要するに『四つの終止符』に描かれた聴覚障害者青年の悲劇は、音を人権意識と置き換えてみると、閉塞性は聞こえない側よりも、健常者というノーマルな世界と受けとめられている一般社会のほうに存在していることがわかります。四囲を終止符で閉ざされている社会に障害者が生きる余地はないのです。共生社会という言葉は美しい響きですが、見えない障害を心の中に潜めている人は未だ多いのではないでしょうか。

(かわいようすけ 全日本聾唖連盟副理事長)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年6月号(第16巻 通巻179号)28頁~30頁