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文学にみる障害者像

岡田なおこ著 『薫 ing』

小林英樹

 昨年以来、障害者を扱ったトレンディドラマが高視聴率を獲得している。時代の風は、どうやら障害者の方に向かって吹きはじめたらしく、バブルの嵐の雲間から、光がさし込んできたのではないかと思ってしまう。これらの作品には秀逸なものが多く、『フォレスト・ガンプ』より遥かに深い感銘を与えてくれるものも少なくない。このような澄んだ視点から脚本を描きうる力量をもった若きシナリオライターたちの活躍に心から拍手を送りたい。

 ただあえて欲を言わせてもらえば、障害をもつ当事者が書いたシナリオ、すなわち、「当事者の、当事者による」メッセージが「一般の人々のために」発信されたことはまだなく、それこそが21世紀の課題ではなかろうか。先年開催された世界メディア会議の中でも、障害をもつ俳優がテレビや映画に出演することの重要性が指摘されている。障害をもつ脚本家の中から傑出した才能が早く出てくることを期待したい。

 脚本家ではないが、若い市民的感性を有する当事者作家の1人として、私は岡田なおこ氏を挙げたい。

 岡田氏は児童文学作家で、その処女作『薫ing』は第30回野間児童文芸新人賞に輝いている。『薫ing』では、障害をもつ主人公の高校生活が、明るく生き生きと描かれている。

 主人公の戸田薫は身体に障害をもち、中学まで養護学校に在籍していたが、高校からは普通校に通うようになる。9年間の養護学校生活にどっぷりつかってきた薫にとって、普通高校の生活、つまり同年齢の少年少女たちの世界は、見るものがすべて新鮮で、まぶしく輝いていた。彼女が入った並木高校はあまり偏差値の高い学校ではなかったが、個性豊かな優しい仲間にとり囲まれて、充実した高校生活をエンジョイする。そして、隔離された教育環境の中でいつのまにかまとってしまった心の鎧も、仲間たちとのふれあいによって次第に溶かされていくのだ。

 もちろん、ハンディを背負った彼女にとってまだ問題は多く、いろんな面で壁につきあたる。ただ薫の場合、ハンディを乗り越え克服しようというよりは、自分自身の障害を「活かして、遊んじゃおう」という軽いノリで仲間たちと接していく。

 例えば、文化祭の準備に自分が何も協力できず、そのことを歯がゆく感じていた彼女は、クラスの出し物のお化け屋敷で、緊張のためふるえる手で書いた字が「お化け文字」と言われたのをきっかけに、その字でチラシを書くことにする。結局、このことが先生にばれ大問題となり、せっかくのお化け屋敷が中止にされてしまう。しかし、薫をはじめとする生徒たちは納得がいかない。薫は薫なりのやり方で文化祭に参加したのだし、お化け文字をかわいそうだとしか受けとめられない大人の硬直した考え方こそ差別的ではないか、というのである。これなど人権を考える上で、鋭い問題提起となっていると言えよう。

 また、友人たちが恋愛に夢中になっているのを横目でながめ、薫は寂しい思いをする。進学や就職もみんな思い思いの夢を描いているのに自分だけにそれが見つからず、教師からも「障害者施設の資料はないよ」と言われ、さらに落ち込んでしまう。そんな中で彼女は、自らのことを「規格外生徒」と言うようになる。

 このように『薫ing』は、ある意味で、異国に踏み迷ったストレンジャーの物語でもある。彼女にとっては、養護学校の世界が日常であり、普通校の世界が非日常であるからだ。2つの世界を旅する者の話は物語の定型と言ってもよく、とりわけ童話や民話などによく見られる。『かぐや姫』しかり、『人魚姫』しかりである。『魔法使いサリー』や『うる星やつら』などの漫画も、この系統に属すると言えよう。ストレンジャーがやってきて、町の人々をかき回して立ち去っていったり、人々に幸福をもたらしたりするという話は、物語の根源にある最も普遍的なパターンなのではないだろうか。しかし、『薫ing』が昔話と一線を画するのは、これらの多くが、〝里人〟の視点から語られているのに対し、『薫ing』がストレンジャー自身の立場から描かれているという点にある。

 またこれらの物語は、もの悲しい雰囲気に包まれたものが多い。中には、チャーミングな鬼の娘が周囲の人々を哄笑と喧噪の渦に巻き込む『うる星やつら』のような作品もあるが、これにしても、「道化」というストレンジャーを共同体の内側から眺めたときのステレオタイプな設定から抜けきれていない。

 『薫ing』には寂寥感もなければ、主人公は道化でもない。『薫ing』では、本当の意味でストレンジャー自身の視点によって物語がつむぎ出されており、それゆえ主人公が、極端に美化されることもなければ、おとしめられることもない、そして主人公は、しっかりと大地に根をおろした安定感と、傷つけば血も噴き出る実在感を備えているのである。

 もう1つ、この種の物語の結末には、主人公が自分の世界に帰るという設定がつきものだが、これもまた、異邦人に対する里人の目に他ならない。『かぐや姫』しかり、『夕鶴』しかり、そして『うる星やつら』しかりである。『フォレスト・ガンプ』も結局は、人里離れた故郷でひっそりと孤独な余生を送ることになる。薫には、これらの主人公の人生に漂うはかない影は微塵もなく、この世界にずっととどまり続けようという堅い決意が強く読みとれる。薫がかつて住んでいた世界とは、月世界でも深海の楽園でもなく、この世に実在する養護学校や施設という場所なのである。そして、普通の世界へと1歩踏み出した彼女にとって、そこに戻ることはもはやあり得ない。ゆえに薫は、とどまらない。未来に向かってひたすら走り続けていくのである。いみじくもこの書名は、主人公の前向きで溌剌とした、現在進行形の人生観が表されているのではなかろうか。

 そして、冒頭で述べた当事者の視点とは、このような側面においてこそ実現されていくものだと思う。

(こばやしひでき 学苑社)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年8月号(第16巻 通巻181号)68頁~70頁