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文学にみる障害者像

石牟礼道子著 『苦海浄土 わが水俣病』

中島虎彦

 「銭は1銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、42人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に69人、水俣病になってもらう。あと100人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか(注)」

 これは、昭和43年から始まった水俣病患者互助会と新日本窒素肥料(以下、「チッソ」という)水俣工場との補償交渉で、患者側の補償金要求に対しチッソ側からゼロ回答を示されたときに、死に瀕している患者たちの吐いた言葉である。「もはやそれは、死霊あるいは生霊たちの言葉というべきである(注)」と著者は言っている。

 「水銀母液」とは、昭和43年に入りチッソがアセトアルデヒドの生産を中止したのに伴い、お荷物の有機水銀廃液百トンを韓国に輸出しようとしてドラム缶に詰めたところを、第1組合に見つかりストップをかけられた、その罪業の象徴を指している。文中の人数はそれぞれ当時の水俣病死者や患者、未認定患者と重ね合わせられていることは言うまでもない。

 一体なんというやりきれなさだろう。このやりきれなさを解きほぐすには、もちろん真摯な政治の力に依らねばならないが、それ以前にどこまで他人の痛みを自らに引き受けつづけられるか、その想像力こそが問われている。そういう想像力は水俣病以来弱まることはあっても、強まってきたためしはない。

 この本は、水俣病患者ではないが、市内の一主婦であった石牟礼道子氏による、「悶々たる関心と控えめな使命感をもち、これを直視し記録しなければならぬという盲目的な衝動(注)」にかられた詳細な聞き書きである。原題は『海と空のあいだに』、筑豊の上野英信らの『サークル村』、熊本の荒木精之らの『熊本風土記』に断続的に書かれ、昭和44年に出版されている。水俣の方言がいっそう臨場感を増し、第四章「天の魚」、第五章「地の魚」などは患者たちの絶唱となっている。句の一つもひねらない患者たちだが、希代の聞き書きに出会うことによって、まぎれもない文学の言葉を残すことができた例と言ってよい。

 水俣病はご存知のように、熊本県の八代海に面した水俣市の漁家において、昭和29年頃から34年頃にかけて多発した公害病である。八代海は文字どおり生死の苦海となったのである。原因がチッソ水俣工場の排水に含まれる有機水銀であることは今では明らかだが、当時は「魚を食べたこともない乳幼児が、水俣病だとは母親たちも思いあたるはずもなく(注)」なかなか断定されなかった。患者自らのはにかみもあった。

 というのも、新興コンツェルンの一つであった野口遵創立のチッソは、一方で貧しい陸の住民や漁師の子息たちに「会社ゆき」を生み出してくれている「水俣草創の志」でもあったからである。たとえば昭和36年度の市の税収2億1060万円のうち、チッソ関係だけで約1億1560万円を占めていた。チッソを糾弾することは市の死活問題にもつながる。事実、ストの暴動などを機に一般市民と患者互助会とのあいだに確執さえ生まれることになる。

 しかし猫や漁師たちにとどまらず、「誕生日がきても、2年目が来ても、子どもたちは歩くことはおろか、這うことも、しゃべることも、箸を握って食べることもできなかった。ときどきは正体不明の痙攣やひきつけを起こすのである(注)」という奇態を見せるに及んでは、水俣病審査会も昭和37年になって23名を胎児性水俣病と発表せざるを得なかった。以後の患者たちの凄惨な病状と闘いぶりは、石牟礼氏の舌鋒や熊本大学医学部の研究班、西日本新聞のルポやユージン・スミス氏の写真などによって、世界へ打電されていったことは周知のとおりである。

 それにしても、患者たちはあまりに時代状況と結びつけられて論じられ、マスコミや世論に翻弄されてきたため、一障害者として肝心なリハビリテーションや自立の面からはなおざりにされてきた感がある。彼らはあくまで時代と文明が生みだした新しい「障害者」たちなのである。私たちのような頸髄損傷者でさえ電動車いすやパソコンを駆使して新しい生に踏み出しているというのに、彼らの日常的な更正についてはどれほどのノウハウが凝らされてきたのか、寡聞にして知らない。

 たとえば、冒頭の憤懣ぶりのなんと単純明快なことだろう。彼らの被害者意識には一点の曇りもない。義憤をかきたてられない読者はいないだろう。これが脅し文句になるとしたら何ともやるせない。しかし私のように自分の責任で障害を負った場合、まわりの誰に憤懣をぶつけようもないし、肩身の狭さはかぎりもない。どこまでも自分で背負っていくしかないのである。

 今年の五月に両者は交渉開始以来28年ぶりの最終和解に達したが、それはたぶんに老齢を迎えた患者たちの疲れと諦めによるものであろう。補償が一段落してさて今後の更生を考えなければならないとき、なお加害者への「憎しみ」や「恨み」を支えにして生きのびるしかないとしたら、それはさらなる不幸である。一般に同じ事故による障害者でも「加害者より被害者のほうが立ち直りが遅い」というやりきれない指摘がある。無理からぬことだが、このままでよいのだろうか。

 大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』では、原爆によって顔にケロイドを負った女性たちのたどりうる道すじとして、①昏い家の奥に閉じこもって他人の眼から逃れること、②この世界に再び原水爆が落下し、地上すべての人間が彼女と同じくケロイドにおかされることを希望すること、③核兵器の廃止を求める運動に加わること、を挙げている。この「原爆」を「水俣」に置きかえて読めばよい。

 これを、一般の障害者たちの更生としてさらに押し広げてみると、なんらかの仕事に就けた者は別格として、①信仰に向かう、②芸術活動に向かう、③障害者運動に向かう、の3通りが多い。一見バラバラのようだが、それらはほとんど同根の選択肢である。つまり、それらに打ちこむことによって「我を忘れる」瞬間に出会い、それぞれのやり方で人生に味到してゆくのである。そのときこの世の苦海がすなわち浄土へとも変貌するだろう。そういうきらめく障害者たちの掬いあげを、私は『障害者の文学』(脊損ニュース紙連載)という評論でつづけている。

〈注〉 石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』講談社、昭和44年より引用

(なかしまとらひこ 自営業)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1996年11月号(第16巻 通巻184号) 38頁~40頁