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1000字提言

ろう者と手話サークルのかかわり

ジョン・ディーリ

 今では全国に手話サークルが何千とあり、教科書では学べないこと、例えばろう者の文化や手話言語について、交流を通して学ぶことができる場が増えてきました。今手話が、ドラマの影響によってブームであることは皆さんもご存知だと思います。ブームで終わってしまわないために、今こそろう者自身が「聴覚障害はこういうものだ」と健聴者に理解してもらう絶好のチャンスだと私は思うのです。つまりサークルはどうやって彼らの偏った印象や間違った評価を訂正するか、という教育の場にもなるわけなのですから。

 健聴者は、聴こえないという障害をあまり理解していないように感じます。例えば今ここに聴覚障害者が座っていても、外見的には判断がつきません。目に見えない障害なので、その苦しみは大したことではないと思われがちなのです。その昔ヘレン・ケラーは聴覚障害とはどういうものかを理解してもらうため、視覚障害と聴覚障害どちらが重いかと聞かれた時、視覚障害者には人と物の間に壁があり、聴覚障害者には人と人との間に壁があると答えたそうです。人間誰もが孤独を経験しますが、ろう者の孤独は健聴者の感じる孤独とは性格が違います。健聴者が毎日、何気なく交わしている会話はどのくらいあるのでしょう。それに対して、音の世界からすべて隔てられているろう者の孤独を健聴者が想像することは不可能ではないのでしょうか。

 昔、精神薄弱者という誤診を受け、施設に入所させられたろう者もいました。今でもろう者と接したことがない方の中で、耳が聞こえないことと知能指数は関係があると簡単に決めつけてしまう方もいますが、実際のところ関係はないのです。例えばここにいくつかの漢字があります。『敷衍、就中、徒然、薬袋、間人、川内、御徒町』これが読めなかったからといって、頭が悪いのでしょうか? 読み方を知らないことは頭が悪いわけではなく、情報が不足している、それだけのことなのです。それはろう児者も健聴者も同じことです。

 昔、アリストテレスという哲学者がいました。彼はろう者は考える能力や判断力、理性がないというように言い、ろう者を「オシでツンボ」と呼び始めたのです。それから何千年が経った今でもろう者はそのような呼び名から逃れるべく、闘っているのです。

 強引に「ろう者に対する」偏見や思い込み、差別をなくすことはできません。が、手話サークルという交流の場を通して、聞こえないというのはどういうことかを訴えてはじめて人の態度が変わっていくのではないでしょうか。

(上智大学)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1997年3月号(第17巻 通巻188号) 31頁