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街なか探検隊

名古屋

人にやさしい街づくり

―「AJU 自立の家」界隈の取り組み―

山田昭義

 今、名古屋市昭和区恵方町界隈でバリアフリーをめざした「街づくり」がすすんでいます。「社会福祉法人AJU自立の家」が平成2年にここでスタートしました。AJU自立の家は、「障害者の下宿屋」をベースに、働く場として「わだちコンピュータハウス」と「デイセンター」の3施設から成り、わだちコンピュータハウスは下宿屋から500m離れた所に位置し、それぞれに日々活動しています。
 障害者の下宿屋として福祉ホームが地域福祉を担っていこうという意気込みは、8年を経てハード・ソフトともに、バリアフリーを着実に推進しています。下宿屋だから他の福祉ホームと違い、そこの住人は4年で卒業していきます。そして昭和区恵方町界隈にアパートを探し、独立へと移っていくのです。
 彼らの生活を支えているのは、自立支援事業で、理念的には、下宿屋福祉ホームのサテライト的に各アパートが機能しています。1日7時間の介助保障をし、病気等緊急のときには24時間の介助派遣も可能です。介助者は原則として自分が一番気に入っている人を選び、決めてもよいことになっています。不都合がでた場合は即、断ることもできます。こうして身辺自立が全くできない人も、地域社会で独立した生活を営んでいきます。昼間はわだちコンピュータハウスへ通ったり、一般就労、小規模作業所へ通ったりで、各自が各々の生活を組み立てています。
 重度障害者が地域で独立していく最低条件として自立支援事業ができましたが、それだけでは独立できません。自立支援を側面から支えているのは街であり、そこに生活する地域の人々であり、ボランティアです。

◆街が変わってきた

 まず街としての恵方町界隈は、8年前にはどこにでもある街でしたが、AJU自立の家ができて、80人の障害者が毎日街へ出かけるようになり、地域の人々と触れ合うことで徐々に変わってきました。最初に応えてくれたのがケーキ屋さんでした。店にすぐスロープをつけてくれました。でもスロープだけでは入口が使いづらいことが分かると、即、自動扉をつけてくれました。以来、床屋さんが、コンビニが、喫茶店が、魚屋さんが、八百屋さんが店を変えてくれました。毎日毎日だれかがそれぞれの店に通うからです。施設の給食も一括して業者から購入するのではなく、各自がお店まで出かけていき、安くて、新鮮なものを毎日毎日買ってくる仕組みをとりました。
 近くにファミリーレストランのロイヤルホストがあり、入口に2段の段差がありました。店長に段差解消をお願いしても効果がなかったので、社長に直訴の手紙を書きました。時間がかかりましたが社長から丁重な返事をいただき、早速手紙をコピーして店長に届けました。そしてその店にもスロープが実現したのです。
 雨が降っても、風が吹いても、車いすの私たちが毎日街との接点をつくることで徐々に街が変わったのです。

◆移動手段の確保ができた

 また、8年前には移動の手段がありませんでした。しかし、今ではリフトバスが走り、地下鉄が走り、リフトカー制度ができ(ドアからドアへ、1乗車400円という公共交通機関並みの料金で利用できるなど)移動手段も確立してきました。これらは待っていてでき上がったものではありません。例えばリフトバス制度も、初めて市と交渉したときには、年間2人しか車いすでの利用がない、その2人のために1台1000万円もするリフトはつけられないと交通局のすげない返事でした。しかし、仲間の粘り強い交渉が功を奏しました。リフトバスが1時間に1本走るようになり、それだけで月300人の利用があるようになりました。下宿屋の住人がいかに街との接点をもっているかの証明です。

◆住民とのふれあい

 障害者の下宿屋の南に道路を挟んで県営住宅が3棟あります。例えば下宿人が救急車を呼ぶと1番にかけつけてきて、手伝ってくれるのがその県営住宅の人たちです。日曜大工で下宿人の困ったことも解決してくれます。また、下宿屋のすぐ隣りには95歳のお年寄りが一人暮らしをしており、毎日、昼と夜は下宿人と同じように当然のごとく食事をしています。そして3時になるとお抹茶をたててくれます。2、3日姿が見えないと心配でこちらから声をかけに行きます。また、町内会のご婦人たちが年2回たくさんの雑巾を届けてくれます。下宿屋の道路ぎわに小さい小さい花だんがあります。この花だんは、やはり向かいの県営住宅の2人のお年寄りの作業場で、花が年中絶えることがありません。
 先日はこんなことがありました。2人のお年寄りがのこぎりを持ってきて、枝を落とす作業にとても苦労していました。そこに宅配便のトラックが通りかかり、なんと運転手さんが車を止め、お年寄りからのこぎりをもらうと枝を落とす手伝いをしてくれて、また車で去っていきました。それを見ながら、AJU自立の家が着実に地域に根ざしてきたことを実感しました。

◆楽しくなければ福祉じゃない

 AJU自立の家は、車いすの仲間たちの「福祉のまちづくり運動」の中から生まれてきた施設です。昭和48年、車いすの仲間の「外へ出たい」という素朴な気持ちを受けて、車いすの私たちが、当時のバリアだらけの街へ出かけていき、市民に声をかけ、バリアを一つひとつ越えてきました。200万都市名古屋には、当時車いすで利用できるトイレが1か所もない時代でした。
 そして、生活マップを作ろうと立ち上がり、仙台での第1回車いす市民全国集会に出会い、集会に参加したのをきっかけに、福祉のまちづくり一筋に取り組んできました。以来25年間続いている原動力は、毎月開いている例会です。これは当時の日本福祉大学の児島美都子先生の呼びかけでスタートし、その後ご主人の長宏先生へ受け継がれていまだに続いています。
 もう1つは、キャンプ、ユニークダンス、チェアスキー、ヨット、福祉まつり、名古屋シティハンディマラソン、福祉映画祭、車いすガイドマップ作りなど、家から地域へ飛び込んでいく企画を次々と続けてきました。どれもが「楽しくなければ福祉じゃない」をベースにつくってきたものです。もちろん施設づくりもです。ですから管理もすべて本人自身の責任においてなされ、他人に迷惑をかけない限り、すべて自由です。

◆AJU自立の家のこれから

 施設は場の提供であり、これは身辺自立のできない重い障害をもつ仲間に対しても同じです。介助者探しから4年後への独立まで、すべて自分の責任で物事を決め、実行してもらいます。施設だからといって介助を期待したら、その人は結局一生期待してしまうに違いない、あくまでも場の提供に留まっているからAJU自立の家はうまくいくと信じています。だからこそ障害をもつ仲間は地域社会にとけ込んでいかなければ生活しづらいのです。そのために皆が地域に積極的に出ていくことが街をも変えてきた原動力でした。
 幸い愛知県も「人にやさしいまちづくり推進条例」をつくり、私たちをバックアップしてくれます。少なくとも100平方メートル以上の建物は、すべての人が使えるものでなくてはならなくなりました。この3年間に約8000件が該当し、96%に適用されました。一歩一歩ですが、街も着実に変わりつつあります。建物が変わり、次はそこに住む人たちがその街をどう活かすのかにかかっています。その意味でAJU自立の家の周辺の街づくりは、1つのモデルになると思います。街は人がつくるものであり、その人の一部を障害をもつ私たちも担っているという自覚と自信が、これからの私たちのめざす街づくりといえます。

(やまだあきよし AJU自立の家)


(財)日本障害者リハビリテーション協会発行
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」
1998年4月号(第18巻 通巻201号)50頁~53頁