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「優しいまちづくり」ってなんだろう?

福島智

 このごろすっかり定着した表現に、「障害者に優しいまちづくり」などという言い方がある。私はこの「優しい」という表現にであうたびにぞっとする。みなさんはどうだろう。
 たとえば、段差をなくしてスロープにしたり、歩道に点字ブロックをつけたりするのが、障害者に「優しい」まちづくりなのだという。いったい、「優しい」って何だ? だれがだれに対して「優しい」というんだ?
 仮に点字ブロックを考えるなら、点字ブロックは私に優しいのか? イヤだ、私はあんなぶつぶつの「タコヤキ野郎」にほおずりなんかしてもらいたくないし、あいつをつくったひげづらの工事のおじさんにだって頭なんか撫でてほしくない。それとも、予算を組んだ役所の人たちが優しいのか、はたまた、税金を払ったまちの人全員が優しいというのか…? そんなことを言ってると、世の中すべてが「優しい」ってことになってしまうじゃないか。
 たとえば、電車の駅で販売機から切符が出てきたら、「ああ、親切で優しい販売機だなあ」と言って、あなたは販売機にキスをするのだろうか? バス停の前に止まったバスを見て、「ああ、バス停の前にきちんと止まってくれるとはなんと優しいバスなんだろう」と言ってあなたはバスをぎゅっと抱きしめるのだろうか?(ちょっと、これは無理か)
 とにかく、こんなことはだれもしない。販売機から切符が出てくるのは当然で、出てこなかったらドンドン叩くだろうし、バスだって、バス停に止まるのは当たり前で、バス停を無視して走りすぎたらだれだって怒るだろう。
 本来、スロープも点字ブロックも、これと同じではないだろうか。つまり、電車やバスなどの公共交通機関の運営主体が、広く利用者の便宜を図ることが当然であるように、「あって当たり前」のものなのではないか。駅に切符の販売機がおいてあったり、バスがバス停で止まったりするのは、「優しい」からするのではないのに、なぜ障害者の利用を想定した瞬間に、「優しく」なってしまうのだろう。「優しさ」の反対は「冷淡」か「残酷」といったところか。そう考えると、「障害者に優しいまちに」と叫ぶことは、現在のまちが「優しくない」、すなわち「冷淡」で「残酷」なことを示しているのだともいえる。「優しいまち」ではなく、「当たり前のまち」、つまり障害者を含めて「みんなにとって暮らしやすいまち」をめざしたい。

(ふくしまさとし 金沢大学助教授)