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講座 高次脳機能障害 4

脳外傷と高次脳機能障害

大橋正洋

 人間の脳は、目的に応じて手足の運動を意図し、情報を記憶し、視覚刺激から事物を認知している。それら複雑な精神活動は、大脳のいくつかの部分の連携で行われている。これら一連の脳機能を一括して高次脳機能と呼ぶ。
 最近、高次脳機能の障害が問題となる代表的な患者群として脳外傷者が注目されている。この背景には交通事故が相変わらず多く、それに対して救急救命システムが充実し、救命された後に後遺症を残してリハビリテーションの現場へ来る患者が増えていることがある。患者の多くは若年の男性であり、長期の医学的および社会的リハビリテーションを必要とする。しかし主たる障害が高次脳機能障害である場合は、病院や福祉の有効なサービスを受けにくく、家族共々家庭内で孤立している場合が多い。その理由には、高次脳機能障害に十分対応できる病院が少ないこともある。
 病院の経営的観点からすると、高次脳機能障害者への対応に必要な臨床心理、言語治療、ソーシャルワーク、職能評価といったサービスの多くは診療報酬制度の対象外であり、リハビリテーション病院といえどもこれらのスタッフを維持することは困難である。それでも一部の病院で認知リハビリテーションなどを試みているが、多くの患者に確実に対応できる方法としては確立していない。
 脳外傷の典型的な例として、バイク事故で頭部が道路などに高速で衝突した場合がある。このとき脳は頭蓋骨内面の凹凸によって傷つき、とくに前頭葉と側頭葉が損傷される。前頭葉の背外側部が損傷されると、計画や学習能力が低下し、状況に合わないパターン化された行動を示し、問題解決能力の低下が起きやすい。前頭葉の基底部の損傷では、抑制が効かなくなり、周囲の人から受傷前と性格が変わったと見られやすくなる。内側部の損傷では、自発性が低下し声掛けがないと自分から動作を行おうとしない。これらの症状は混在していることが多く、自発性が低下している患者に動作を強いると、一言もしゃべらずに部屋の片隅でじっとしていた患者が突然怒りだし、さらに一度怒ると抑制が効かないために爆発的に暴力行為におよぶこともある。
 一方、側頭葉には記憶の中枢があり、この損傷では記憶障害すなわち健忘症が現れる。患者は受傷前の事柄や習慣は比較的容易に思い出すが、程度の差はあれ新しい事柄を記憶して身につけることが難しくなる。障害が健忘症だけであれば、メモやカレンダーなどの活用で記憶障害を代償できることもあるが、これに前頭葉損傷の結果である意欲障害や注意障害が重なると、メモを使うという行動を維持できないので、対応に苦慮する場合が多い。このように脳外傷患者は、いくつかの脳機能の連携に基づく高次脳機能に障害を起こしていることが多い。
 高次脳機能障害は幅広い概念で、リハビリテーション医学大辞典(1)によると、高次脳機能障害には、全般的障害と部分的障害がある。さらに全般的障害には急性期の意識障害と慢性期の痴呆が含まれる。部分的障害には、失語、失行、失認、記憶障害(健忘)、注意障害などがある。高次脳機能障害という用語が、幅広い概念を含んだまま多くの領域で用いられているのは、わが国独特の状況であると思われる。英語圏では、これらの問題を、神経心理学的障害、認知障害、知覚―運動障害などと呼称する場合が多い。
 平成8年度から行われている厚生省の精神保健医療研究事業「若年痴呆の実態に関する研究」では、18歳から44歳までの痴呆患者を「若年痴呆」、45歳から64歳までを「初老期痴呆」と呼んで全国の実態調査を行っている。脳外傷者も対象に含まれ、調査を受けた中では平均年齢が最も若い群であった(2)。
 この研究班では、痴呆を米国精神医学会の精神疾患診断基準(DSM-3R)に基づき、
(1)記憶や認知などに多彩な障害があり、
(2)社会的、職業的機能が発症前の水準から著しく低下していて、
(3)障害が疾患や外傷などの直接的な生理学的結果によるもの、
と定義している。
 この定義は、リハビリテーション病院や更生施設に援助を求める多くの後天性脳損傷者の状況に即していると思われる。しかし当事者にとっては「痴呆」と呼ばれることに心理的抵抗が強いと思われる。患者の実態を正確に表す用語として、「高次脳機能障害」と「若年痴呆」のどちらが適切であるか、現在のところ明確な考え方は定まっていない。全般的症状としての意識障害や痴呆ではなく、部分的症状の治療を目的とする場合は、失語症、失行症、健忘症、注意障害、意欲障害、脱抑制、多幸症などの用語で、患者の抱える問題を明らかにし、対応法を検討することが適切であろう。しかし行政のシステムの中で、全般症状も部分症状も一括して呼称するのであれば、当事者に心理的に受け入れられやすい「高次脳機能障害」という用語が今後も用いられていく可能性が高い。
 前述のように、高次脳機能障害の概念は幅広いものである。高次脳機能障害を起こす原因疾患ごとに、症状は共通の特徴をもつこともあるが、患者ごとに内容が異なるのが普通である。最近、脳CTやMRI、SPECT、PETといった画像診断技術の進歩によって、脳の損傷部位を正確に診断できるようになった。しかし画像診断だけで症状の存否や程度を診断することは十分できていない。とくに脳外傷患者では、脳が広範囲びまん性に損傷されている場合があり、症状の責任病巣を特定することが困難なことが多い。このような患者ではいくつもの症状が重なり合っていて、高次脳機能障害に身体障害や感覚障害を合併していることも多い。

WAIS-R評価点

図 WAIS-R評価点

三宅式記銘力検査

図 三宅式記銘力検査
図:17歳男子高校生。バイク事故による脳外傷。受傷後7か月とその1年後のWAIS-R知能検査および三宅式記銘力検査結果。
神経心理学的検査によって、知能と記銘力の障害を示すことができる。1年間に知能検査結果の若干の改善を認めたが著しい変化ではなく、記銘力検査結果はむしろ悪化していた。
しかし生活場面では、ADL動作や周囲とのコミュニケーション能力は改善していた。


 部分症状については、ある程度症状を量的・質的に記述することが可能である。図は、1人の脳外傷患者の、WAIS知能検査と三宅式記憶力検査の時間経過を示したものである。これらの神経心理学的検査で機能低下を指摘できる患者の場合、日常生活で混乱したり誤りが多かったり、あるいは社会参加を試みるときに対人関係で失敗する可能性がある。しかし社会参加における困難さを数量的に判断することは容易でない。なぜならば脳外傷者は、同じ環境で繰り返し動作訓練を行っていると行動の誤りが少なくなり、慣れない環境では行動の混乱が増加する可能性が高いからである。すなわち脳外傷者の行動の正確さや速度は環境との関連で変動する。見かけ上の障害が変動することは、脳外傷者の後遺症重症度や残存能力について判定を難しくする理由の一つである。
 高次脳機能障害に関する重要な問題の一つは、外見から患者の障害の性質や程度を判別することが困難で、また画像診断などの客観的検査所見も参考にとどまるという点である。障害の内容や程度を客観的・科学的に記述する方法が確立されていないことは、既存の福祉サービスを利用しにくくしたり、自動車賠償責任の障害認定において適正な判断が下されないなどの不利を生じさせる原因となっている。
 福祉制度では、知的障害が18歳以前に認定された場合は知的障害者福祉法の対象になるが、18歳以後に発症すると精神保健福祉法の対象になる。しかし、精神保健福祉法に基づく精神障害者保健福祉手帳を取得する高次脳機能障害者はほとんどいない。精神障害者保健福祉手帳は1995年に創設された新しい制度で啓発が十分でなく、医療の観点から整備された制度でもあり、患者が希望するサービスが用意されていない問題もある。これに対し昨年12月に厚生省の障害者関係三審議会合同企画分科会が提出した報告書では、身体障害を伴わない高次脳機能障害患者について、基本的には精神保健福祉法における福祉サービスを充実させるべきであるが、現行施設や制度を運用する方策も検討すべきと記されている。
 米国では1980年に脳外傷の娘をもつ一市民が、脳外傷当事者の会を立ち上げた。この活動は、その後めざましい発展を遂げ、10年後に全米で600前後の脳外傷リハビリテーションプログラムを存在させるきっかけとなった(3)。
 わが国でも、最近になって脳外傷当事者の会が各地で結成され、情報交換や、行政への問題提起などを含む活動が開始されている。またこのような動きがメディアの関心を得ている(4)。
 脳外傷者の高次脳機能障害へは、縦割りの医療や福祉行政では対応が困難である。患者と家族が抱える問題を十分認識したうえで、それぞれの立場で援助できる方策を摸索し、有機的に連携を取りながら対応できる環境をつくる必要がある。

(おおはしまさひろ 神奈川県総合リハビリテーションセンター、神奈川リハビリテーション病院、リハ医学科部長)


【引用文献】

1 上田敏、大川弥生編『リハビリテーション医学大辞典』177頁、医歯薬出版、1996
2 一ノ瀬尚道・他『若年痴呆の実態に関する研究:平成8年度研究報告書―厚生省精神保健医療研究事業』1997
3 Wilson BA編 綿森淑子監訳『記憶障害患者のリハビリテーション』307~342頁、医学書院、1998
4 大橋正洋「脳外傷に関するマスメディアの報道とその背景」総合リハ、26:897~898、1998