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文学にみる障害者像 40

魯迅と『阿Q正伝』

花田裕子

魯迅の生い立ち

 紹興という町は、春秋戦国時代の越の都として、また紹興酒(老酒)の産地として有名で、川の水も青々と澄み通って清らかです。
 魯迅は、1881年中国の浙江省紹興府城内、東昌坊口に生まれました。家は代々学者の家筋で、祖父は翰林学士で北京に住み、父親も相当の学問を修めた人でした。祖父に愛され、魯迅はこの祖父の影響を受け、性格も受けついだようです。四つ年下の弟に周作人、その四つ下に周建人がおり2人とも優れた学者です。
 12歳までは4、50畝ぐらいの水田もあり、何不足のない暮らしをしていましたが、12の年の春、祖父が北京より帰京。その秋、杭州に投獄されました。父は重い病気で家は急に落ち目になり、親戚や近隣が急に迫害を加え、財産も横領されてしまいます。
 魯迅は作人と城外の母の実家へ預けられましたが、その冷たさにひとり逃げ帰りました。父親の病気や貧困のせいもありましょう。
 魯迅は着物や首飾りを彼の身丈の倍もある質屋の高いカウンターに差し上げ、そのお金ですぐさま薬屋へと通う毎日でした。帰れば帰ったで山のような仕事が待っていました。魯迅はきっと3人兄弟の長兄として一生懸命だったのでしょう。こんなに苦労を重ねたのに、父は3年後に亡くなってしまいました。
 家は貧困を極め、乞食のような生活でした。母はやはり学者の深窓の女(むすめ)でしたが、強靭な性格でした。大小三種くらいの新聞をとり、時事問題を語り批判していました。てん足もやめてしまうような性格でした。
 17歳の年に南京の江南水師学堂に入ったのですが、翌年江南陸師学堂付属の鉱路学堂に移り、2年後に卒業しました。魯迅は官費で入れる学校を探して入り、そして日本へも行くのです。
 貧しさのなかの魯迅は「きっとその間に世のいつわらぬ姿が見えるだろう」と『吶喊』の自序に書いています。
 日本では、東京牛込の宏文学院で2年間日本語を学び、その後仙台医学専門学校へ入学しました。ところが2年目(1906年)に、医学を断念して退学します。その7月、魯迅は母の命令で、母の遠縁の朱安と結婚しました。そして9月、朱安を残し、弟を連れ、東京に戻りました。この間の事情も自序に書いてあります。
 魯迅は、1907年、数人の同志と語らって雑誌を出そうとしますが、その同志も必要な何人かが逃げてしまって、ついに出すことができませんでした。魯迅は「およそ人の主張は、賛成を得れば前進をうながされる。反対にあえば奮闘をうながされる。見知らぬ人々のなかで叫んで、人々がいっこうに反応を示さないとき、賛成もなければ反対もないとき、あたかも身を涯しない荒野に置いたように、どうしてよいかわからないのである。これはなんという悲しいことだろう。そこで私は、自分の感じたものを寂莫と名づけた。この寂莫は日一日と大きくなってゆき、大きな毒蛇のように私の魂にまとわりついた」(『吶喊』)自序)
 この寂莫が、中国の前途に対する絶望感が、魯迅の心の中で日増しに強まっていったようです。革命が、清朝政権に替わって軍閥政府が権力を握ったというだけの結果になったということも、その絶望をさらに深くしたに違いありません。

紹興(しょうこう/シャオシン)

 くすんだ黒瓦の屋根、崩れかけたしっくいの白壁。石造りの太鼓橋の下を、足で櫂を漕ぐ「脚劃船」が行き交う。全市の面積10%を運河やクリークが占めることから、東洋のベニスと呼ばれている。また、近代中国文学を代表する文豪魯迅を生んだ町としても有名だ。
 今もチロリアンハットに似たこの町独特のフェルト帽(氈帽)をかぶった老人が街を歩く、のどかな水郷風景が広がっている。


『狂人日記』と『阿Q正伝』

 しかし、その絶望の果てに『狂人日記』が生まれるのです。それはやはり暗黒と絶望を描いたものですが、それを打ち破る「希望」がこの小説を小説たらしめています。「『狂人日記』の中心思想は礼教が人を食うことにある」。
 この小説で重要なことは、狂人である「おれ」に限らず、その周辺のすべての人物に作者の自己投影、あるいは自己剔決があるという点でしょう。礼教は自分の外だけにあるものではなく、内にもあるものとしてとらえているという点です。このことは『狂人日記』に限らず、『阿Q正伝』の阿Qにも、阿Qをさげすむ者にも、笑う者にも、無視する者にも見られます。それが魯迅の小説の最も大きな、優れた特徴だと言ってよいでしょう。
 『孔子己』の主人公は没落した読書人ですが、後の阿Qに通ずる面影で、父の姿もモデルの一部分ではないかと言えないでしょうか。
 『阿Q正伝』は「晨報」の副刊(付録)に1921年12月4日号から翌22年2月12日号まで、週1回または隔週に連載された作品で巴人という名で書かれました。
 「阿Qのイメージは私のなかに、何年も前からあったようである。だが私は彼を書いてみようという気持はなかった。巴人というのは「下里巴人」(田舎者)から取ったもので決して高尚ではないという意味である……」
 『阿Q正伝』は第1章序から始まります。阿Qは最下層の日雇い人夫です。人にどんなにさげすまされても自分はつまらない人間だとは思わないし、人に殴られても、自分は弱いとは思わない、高い自尊心の持ち主です。きちんと自分で思い考え、だが口には出さない。口に出しては時々失敗する、なりゆきで盗みをしたり、革命も革命党も何にも分かっていないくせに、それが何だか分からず、得かなと思うと、阿Qも周りの人もすぐそちらへ走ってしまう。そして最後は略奪の犯人にでっちあげられ、阿Qは銃殺されてしまいます。その銃殺の前に、何も分からないまま町をみせしめのために引き廻され、彼は周りにいる見物人を喜ばせようと何を唄おうかと思いながら処刑され、第9章の大団円で終わるのですが、魯迅はもっと活躍させたかったのかもしれません。

『阿Q正伝』を生んだ土壌

 ここに描かれている阿Qとその周辺の人々は、辛亥革命前後の中国のひとつの町とその郊外の一農村の人々ですが、いつの時代のどこの国にもこういう人々のなかに阿Qはおり、阿Q周辺の人々はいる、自分自身にも―― 。この作品が優れた作品である所以はそれが描ききられている点でしょう。
 この阿Qの生き方なり行動なりからして、この主人公は精神障害者とされ、また知的障害者として扱われている評価が定着しているようですが、注目すべきは、阿Qがもっていたとされる自尊心です。これはIQの如何によらず、知的障害者も当然もっているものと留意されなければならないでしょう。
 短編小説のなかに書かれている人物たちは、17歳までの魯迅とその周辺で見聞きした自身の体験談を鋭い観察眼で筆を走らせているのです。優秀でお坊ちゃまという存在は、家の没落という重たい挫折にも負けず、医学の道から文学、政治のほうへも進むのですが、それはやはりこの紹興という温暖な気候に育まれる“食”にも裏打ちされているのでしょう。これがまさにここの臭豆腐=嗅ぐ時は臭(チュー)であり、味わえば香(シャン)なのです。これと同じものが北の西太后が好んだ―青方―という塩辛いものです。“住”のほうも阿Qも銭をとられ、衣類を売っても、けがをしても凍死しないのは、やはり温暖な気候のせいではないでしょうか。
 教え子許広平との愛は、彼が上海で結核で亡くなるまで、貫きました。母が嫁とした朱安とは上海へ行くまで北京に一緒にいたようです。その思いは『祝福』にも儒教の古いしきたりなどで虐げられた女の悲劇として書いてあります。
 彼の作品としては、『吶喊』及び『彷徨』として2冊の小説集に収められた分量しかありませんが、ほかに散文詩集23篇『朝花夕拾』に収められた回想随筆10篇、及び『故事新編』に収められた古代伝説物語8篇があります。他に外国文学の紹介や短い評論を盛んに執筆しました。この評論はおびただしい数にのぼり、その多くは学者的なものでなく、魯迅の鋭い考え方と、激しい気迫に満ちた戦闘的なものでした。死んだ時は逮捕令が出されていましたが、時を経ていまの中国からは、空前の民族英雄と崇められ、「魯迅の方向こそ中華民族新文化の方向である」とされています。

(はなだひろこ 俳人)


〈参考文献〉

 『阿Q正伝・狂人日記(他12篇)』(吶喊)、岩波文庫
 魯迅『狂人日記・阿Q正伝』竹内好訳、筑摩書房
 駒田信二「世界の文学20」中国・アジア・アフリカ、集英社ギャラリー
 『阿Q正伝』新潮文庫
 『阿Q正伝・故郷』小田嶽夫訳、偕成社文庫
 JTB編『中国』
 天児慧・石原亨一・朱建栄・辻康吾・菱田雅晴・村田雄二郎編『岩波現代中国事典』岩波書店

魯迅後半の略年譜


1918年(満37歳)
 春より創作を開始。その第1編『狂人日記』を魯迅のペンネームで「新青年」に発表。家族制度や儒教道徳を攻撃し、文学革命・思想革命を、おし進めた。

1921年(満40歳)
 小説『阿Q正伝』を発表する。

1923年(満42歳)
 9月、小説第1集『吶喊』を刊行。

1925年(満44歳)
 教員をしていた北京女子師範大学の非合法解散に対して、反対運動を起こし、免職させられる。

1927年(満46歳)
 1月、広東に移り、中山大学教授になる。4月、学生逮捕事件に不満で辞職。10月、上海にいき、許広平と同棲をはじめる。12月、『唐宋伝奇集』上巻を刊行。

1930年(満49歳)
 中国自由大同盟・中国左翼作家連盟が成立し、これに参加。

1932年(満51歳)
 上海事件(日本軍と中国軍の交戦)のため、日本人内山完造の経営する内山書店へ避難する。

1934年(満53歳)
 海外文学紹介誌「訳文」を創刊。

1936年(満55歳) 
6月永眠。