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ケアについての一考察 第3回

医療的ケアの必要な子どものケア

平本弘冨美

はじめに

 わが家の長女歩は、1985年12月生まれで、人工呼吸器を付けて地域の中学校に通っています。歩は、生後3か月で入院し、6か月の時に人工呼吸器を付けました。4歳の春に在宅となり、在宅と同時に地域の保育園へ通いはじめ、2年間の保育園生活を経て、地域の小学校、中学校へと進んできました。
 私たちは、歩の“生命と思い”を大切にしながら生きています。在宅も地域の学校も歩の選択です。将来どんな生活をするかも、歩が決めることです。
 しかし、現実は厳しく、在宅では、人工呼吸器等機器の購入に500万円、毎月の必要経費も数万円かかります。おまけに、24時間ケアを家族だけでしなければなりません。地域の学校に通うためには、経管栄養や気管内吸引といった医療的ケアや人工呼吸器の使用がネックとなって、親が常時学校に付き添っていなければなりません。今後、高校、大学に行くとすれば、どれほどの親の負担が強いられるか、歩の“思い”の実現には、まだまだ多くの壁があります。
 人工呼吸器を付けた子どもや医療的ケアの必要な子どもたちのケアはどうあるべきか、私たちの経験をもとに考えてみました。

本人の生活支援を原則に

 歩と街中を歩いていると、「大変ですね」「頑張ってください」とよく声をかけられます。子どものために頑張っている親は親の鑑として評価され、障害をもった子の親はひたすら頑張ることを強制されます。ホームヘルパーや訪問看護婦は、親が側にいなければ来てもらえません。制度的にも社会意識的にも、子どもは親が看るものというのが前提になっています。
 子どもを親が看るのは当然です。しかし、それが社会的意識や支援制度の前提になると、親が常時子どもの側にいて頑張り続けなければならず、親に過度の負担を強いることになり、結果として子どもの思いや自立的生活を阻害してしまいます。
 子どもには子どもの思いや生活があり、親には親の生活があります。ケアは、子どもであっても、本人の生活支援を原則に行われるべきと考えています。

教育の一環として医療的ケアを

 学校での親の付き添いの強制は、「医療的ケアは、医師法で禁止された医療行為で、学校ではできない」というのが理由です。
 付き添いが強制されることで、以下の問題が起こります。
1.親が病気やなにかの事情で付き添えなければ、子どもは学校に行けない。
2.親が常時側にいることで、子どもの自立を阻害する。
3.ほかの子どもたちに差別意識を定着させ、共生関係を阻害する。
4.親は疲労困ぱいし、良好な親子関係、安全確保も阻害される。
 これらは、子どもの生命、人権や権利にかかわる重大な問題です。親にとっては、親の生活をも奪う深刻な問題です。こうした問題点を考えれば、たとえ医療的ケアが医師法で禁止される行為であっても、付き添いを強制・容認することは差別です。
 医療的ケアについては後で述べますが、教育のあり方から考えれば、教育の一環として、教師が医療的ケアを行うのが最善の方法と考えています。教師が医療的ケアをすることで、教育の前提条件である子どもとの信頼関係が深まり、自立と共生が促進され、緊急時の対応もスムーズに行えるようになり、結果的に親の介護負担の軽減にもなります。

医療的ケアは介護行為

 在宅で親が行っている医療的ケアは、本人にすれば、安全に快適な生活をおくるために必要な介護で生活の一部です。人工呼吸器も、眼鏡や車いすと同じように生活に必要な補装具で、身体の一部になっています。それは、学校教育にとどまらず一生ついてまわる問題です。
 医療的ケアが親や医療スタッフにしかできないとなれば、医療的ケアの必要な人たちの生活は大幅に制限されます。本人の生活、自立と共生、社会参加から考えれば、親や医療スタッフ以外に身近にいる人が介護行為として医療的ケアを行える条件整備(制度的、社会意識的にも)が必要と考えています。
 現実に、医療的ケアは、法的な整備はともかく、医師の指導等一定の条件を整えれば親以外の人たちが医療的ケアを行っても医師法に違反しないということで、病院で医師や看護婦の行う治療目的の医療行為と区別して、一般的に医療的ケア(介護行為)といわれるようになってきています。

おわりに

 ケアの提供者側からの視点では、どうしても制度や予断、偏見に縛られます。どんな障害があっても医療的ケアが必要であっても、“ひとりの人間・ひとりの子ども”です。本人の自己決定を大切に、自立と共生、社会参加をサポートする視点からの取り組みが大切と考えています。

(ひらもとひろふみ 兵庫県尼崎市在住)