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文学にみる障害者像 49

グスターフ・シュヴァープ著 角信雄訳
『ギリシア・ローマ神話2』

「トロイア戦争」

小泉紀子

 星座や、私たちの日常の生活の中でもなじみ深いギリシャ神話で描かれている障害者像は、実にさまざまである。たとえば、自分の特技を自慢し神(女神)の怒りを招いた結果、容赦ない罰として与えられたか、生まれつきの障害をもちながらも、神々から愛されひとつ飛び抜けた能力を兼ね備えた人物で描かれていることが多い。膨大な作品の中でも、盲目の詩人ホメーロスやシュリーマンで有名な『トロイア戦争』の英雄の1人であるアキレウスを取り上げ、運命の障害と戦ったその生き方を考察してみたい。
 トロイア戦争が引き起こったそもそもの発端は、大神ゼウスが人口削減のために企て、3人の女神たちを見事に利用したと言っても過言ではない。それは皮肉なことに、アキレウスの両親の結婚式の場で起こったのである。父親はプテイア王ペレウス、母親は神々からも愛されていた女神のテテイスで、彼女は不思議な子宮の持ち主でもあった。それは必ず父親より「強い」子どもを生むと言われていたため、そもそもゼウス自身も、自分の父親を追放して王座に就いている過去があるので、自分の立場を考えると彼女を諦めざるを得なかったのである。しかし夫として選ばれたプテイア王ペレウスはれっきとした人間であり、女神のテテイスにしてみれば不釣り合いな相手である。彼女はさまざまな物に変わり、ペレウスから逃れようとするが決して手を離さないように、という助言のもと、ペレウスはようやくテテイスと結ばれることができるのである。
 このような両親のいきさつのもと、誕生したのがアキレウスである。かつてゼウスとへラの間に生まれたヘパイトスをヘラは息子の醜い姿を見るや否や、イデ山中から投げ捨てた。瀕死の赤ん坊を助け、養育した母性あふれるテテイスは息子に課せられた運命を案じて、早速行動に出る。それは息子を不死身にするため、彼の両足首を握って冥府の川へ漬けこんだのである。アキレウスの全身は水を浴びて不死身とはなったが、テテイスが握った足首は水に触れなかったため、唯一弱点となってしまった説と、毎夜夫に知られないように天の火の中に幼い息子を入れ、ペレウスから受けた人間の血を絶やそうとした。そして、夜明けにその火傷に神々の食物を塗り治療を施していたが、ある日ペレウスは妻がしていることを覗き、そして火の中で息子のもがく姿を見て、彼は思わず叫び声をあげてしまったのである。このためテテイスは自分の仕事をやり遂げることができず、絶望して海の妖精たちの住む海底に姿を隠してしまった、というアキレウスの踵の説は二つの説がある。だが、子を思うあまり、弱点を生み出してしまったテテイスを責められるだろうか。ましてや女神である彼女でも、息子に課せられた宿命を変えることができなかったのである。
 そして幼いアキレウスは、多くの英雄の教育者である賢い半人半馬のケイロンのもとに託された。ケイロンはアキレウスを優しく育て、勇気を与え、駿馬、狩り、楽器の演奏、病の治療などの技を教えたのである。しかし幸せな日もつかの間、アキレウスが9歳の時、ギリシアの予言者カルカスは「遠いアジアの国トロイアはギリシアの軍勢によって破滅に瀕するが、この少年がいなければ占領できないであろう」と予言したのである。この予言は深い海の底へ帰ってしまったテテイスの耳にも届き、彼女は息子がトロイア戦争で戦死することを知っていたので、再び地上に現れ、その危険を少しでも避けようと、夫の館から女の子の格好をさせたアキレウスを連れ出し、スキュトロス島のリュコメデス王のもとで「娘」として隠したのである。
 トロイア征服の鍵を握るアキレウスを必要とするギリシア軍に、彼の所在と運命を見抜いていたカルカスはアトレウスの子孫にその秘密を漏らし、こうしてリュコメデス王のもとに、オデッセウスとデイオメデスが派遣され、巧みな策略のもと「女の子」を見つけだすことに成功するのである。
 彼らは王の娘たちへ贈り物を持って現れ、その中にこっそりと楯と槍を忍ばせておき、そして戦闘ラッパを吹き鳴らした。娘たちが逃げまわるなかで、自分たちが攻撃されたと思い、本能的に楯と槍を手にした娘がいた。アキレウスである。こうして友人パトロクロスと共にギリシア軍に合流し、彼が戦場に姿を現すだけでもどよめきが起き、ましてや立ち向かおうとする者はいなかった。アキレウスの存在そのものが、荒れ狂う軍神の如くトロイア側には映った矢先のことである。
 アキレウスがギリシア軍の総大将アガメムノンに自分の誇りを傷つけられ、武器を置いたとき、ギリシア軍はトロイア軍の総大将ヘクトルに攻め込まれ、最大のピンチを迎える。しかしアガメムノンから和解の条件を提示されても、アキレウスは自分の意志を曲げようとせず、高みの見物に徹していたのである。窮地に追い込まれていく仲間を励ますために、またトロイア軍にアキレウスが戦場に戻ってきたと動揺させようと、彼の甲胄(父親ペレウスがテテイスと結婚したときに神々から送られ、息子に譲ったもの)を身に付けたパトロクロスが出陣し、アキレウスの助言もむなしくヘクトルの手に掛かって戦死し、戦利品として甲胄をも奪われてしまう結末を迎えるのである。
 親友、武器とアキレウスにとって大切なものが次々と奪われ、彼の運命もまた大きく動きだそうとしていた。彼は何も持たず戦場の近くに現れ、叫び声で自分の存在を誇示し、冷たくなった親友の骸を取り戻すことに成功するのである。そして友の仇を取ること、そして戦場に戻ることを決意したのである。
 次の日、ヘパイトスが恩人の息子のためにと新しく鍛えあげた武器を身につけたアキレウスは運命に導かれるまま出陣し、そしてヘラやアテネといった神々からの援護も受け、たった1回の出陣でトロイアの城壁まで迫り、宿敵ヘクトルと向かい合うのである。そしてヘクトルを討ち取り、河神スカマンドロスとも戦いトロイアの城下にいよいよ迫った時である。アポロン(あるいはアポロンの援護を受けたパリス)が放った矢により不死身と言われたアキレウスは「踵」を射抜かれて、トロイア占領を見ずに、短い生涯を終えることになるのである。
 アキレウスの波瀾万丈の生き方は私たちに何を伝えているのか。少なくとも、生と死はその対極にあるのではなく、おそらくどちらかの一部の中に取り入れられて存在するのではないだろうか。彼は「踵」の障害をもって、自分の宿命や死を見据え、恐れなかった。生きているうちからそれらを受容することの難しさ、そして自分は何のために生まれてきたのかという、生きるという意味を私たちに教えているのではないだろうか。

(こいずみのりこ 施設職員)


〈参考文献〉
グスターフ・シュヴァープ著、角信雄訳、『ギリシア・ローマ神話2』白水社
阿刀田高箸、『私のギリシア神話』日本放送出版協会