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文学にみる障害者像 53

E・B・ホワイト著 さくまゆみこ訳
『スチュアートの大ぼうけん』

-ハンディを負ったモノの描き方-

岡田なおこ

 今回のサブテーマは「海外の童話にみる障害者像」である。私は、童話、とくにメルヘンにおいて「障害者=ハンディを負ったモノ」として考えている。
 「海外の童話」と言われると、まずアンデルセン(一八〇五-一八七五)が浮かぶ。『アンデルセン童話』の中に「ハンディを負ったモノ」は数多い。『人魚姫』『親指姫』『みにくいアヒルの子』雪の女王』『なまりの兵隊』『赤いくつ』など名作である。これらの作品はどれも美しい。
 幼い日を振り返ると、私はアンデルセンが好きだったと思う。しかし自分自身が「児童文学作家」となった今日、子どもたちにどんな作品を読んでもらいたいか、「よい童話」の基準が変わってきた。
 アンデルセンの代表作『人魚姫』が子どもの頃は一番好きだったが、いまの私は『人魚姫』を好きではない。
 人魚姫が人間の王子に恋をして、足がほしいと願うところも泣けるし、足と交換で声を失うところや、人間になった彼女が王子に尽くすところなど、途中まではひたむきな女性を描いている。ところが後半は他の女に王子を横取りされて、挙げ句の果てには自分は死んでしまうではないか! 「王子の愛を得られなかったら命を失う」というのは足をもらうときの条件だから仕方がないが、「だったら他の女に取られないように恋に対して必死になれよ!」と怒りたくなってしまう。
 『人魚姫』は挿絵も美しいが、「自己犠牲の精神」が美しく描かれていたのだろう。
 でも、どんなハンディがあっても自信を持ち、夢に向かっていく姿を子どもたちに伝えていくのが「童話」本来の役目ではないか。
 もう一つ童話でよく使われるパターンとして、ボーモン(1711~1780)の『ばらのお約束(美女と野獣)』を例にあげよう。
 私は『ばらのお約束』という題で「美女と野獣」と出会った。近年ミュージカルやアニメで「美女と野獣」は有名になったが、『ばらのお約束』の主人公のベルは、まだあどけない少女のイメージがあって童話らしくて好きだ(与田準一訳)。
 パパはベルと約束したばらを採ろうとして、かいぶつの屋敷に迷い込んでしまう。そのパパを救うために、ベルはかいぶつの屋敷で暮らすことになる。ここまでは「自己犠牲の精神」で進んでいくが、ベルのピュアな心によって、かいぶつは癒されて、二人の間に「友情」が芽生えていく。
 幼い私の心にも、ベルは優しいだけでなく強さや無邪気さや博愛心を持った娘に映った。だから最後にかいぶつが王子に戻った時、素直に「よかったー」と喜べた。
 だが年齢と共にひねくれた心で読むと、「ベルが愛したのは『かいぶつ』で、ハンサムな王子様じゃないでしょー」とか、「かいぶつのままだったら、ベルは彼と結婚したかしら」と意地悪くとれてしまう。
 かいぶつがかいぶつのままベルと結婚してこそ、愛は障害を超えられ、賛美されるのではないか。
 『人魚姫』よりは『ばらのお約束(美女と野獣)』のほうがポジティブな物語だが、障害を肯定しきっていないところに不満が残る。
 グリム兄弟(兄:1785~1863、弟:1786~1859)の童話には、『親指小僧』『ちびの仕立て屋』『ブレーメンの音楽隊』などゆかいなものがたくさんある。グリム兄弟は当時としては楽天的だと思うが、「疎外感」や「不安感」、「かなしみ」が物語の背景に見え隠れする。
 そんなわけで「海外の童話にみる障害者像」のテーマで「書きたいなー」と思える作品が見つからず、四苦八苦していた時に出会ったのが『スチュアートの大ぼうけん』だった。
 この作品は二〇〇〇年夏「スチュアート・リトル」という題でヒットした映画の原作である。これは一九四五年に書かれた、米国ではスタンダードな童話らしいが、日本ではあまり知られていない。
 「スチュアート・リトル」を観て、おもしろくておもしろくて、原作を探した。
 まず映画のあらすじは、リトルさん一家には息子が一人しかいないので、養子をもらうことになり、リトル夫妻は養護施設へ行く。本当は人間の男の子をもらうはずが、子ねずみのスチュアートと気があってしまい、ねずみを養子にしてしまうのだ。
 ねずみを息子にしたことでさまざまな問題が生じるが、最大のネックは飼っている猫のスノーベルだった。スノーベルから見るとスチュアートは「飼い主」である。
 「ねずみが飼い主!」
 猫にとってこれ以上の屈辱はない。スノーベルの悪だくみによってスチュアートはリトル家を追われることになる。
 原作ではもっと斬新にスチュアートはリトル夫妻の実子として登場する。
息子が身長五センチのねずみでよかったこともたくさん書かれているが、「リトル夫妻はスチュアートがそばにいないときは、よく小声でこの息子のことを話し合いました。一家にハツカネズミが生まれたショックから、まだ立ち直っていなかったのです」とある。
 家の中で「ねずみ」という言葉を使わないようにするとか、食料貯蔵室にあいているねずみの穴に息子がもぐりたがるのではないかと心配したり、悩みながらもスチュアートを愛していく姿が微笑ましい。「息子がねずみだった」という障害を受け入れ、共に生きていこうとする家族の葛藤がユーモラスに表現されている。
 映画ではスノーベルが猫の仲間と共謀して、ねずみの夫婦を買収してスチュアートを誘拐させるのだが、「ねずみなんか、殺してしまえ」とする仲間のやり方についていけず、スノーベルがスチュアートを助けて、二人(?)仲良くリトル家に帰る。
 一方、原作では、スチュアートはスノーベルの悪だくみがきっかけではあるが、自ら冒険の旅を選んだように描かれている。リトル家に迷い込んだ小鳥マーガロ。彼女はスチュアートのよきパートナーとなるが、彼女もスノーベルにハメられ、リトル家を飛び出していく。マーガロの身を案じたスチュアートは、「マーガロを探しながら、広い世界で運だめしもしてみるんだ」と旅に出る。
 時代や環境は異なるものの、ハンディを負ったモノを初めから当たり前の存在として、自由に、ゆかいに、たくましく、描いた作者に拍手を送りたい。
 原作者のホワイト(1899~1985)は「完全なものは、なかなか手に入らないとわかっていても、だれもが探そうとします。スチュアートの旅は、そんな人間の探求心を象徴しています」と語っている。
 「スチュアート」は「童話の中に見る障害者像」の理想ではないだろうか。これなら現代の子どもたちに「読んでごらん!」と手渡せると思った。

(おかだなおこ 児童文学作家)