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家族扶養からの解放に向けて

太田修平

「障害者を大きな赤ん坊にするな」

 「障害者を大きな赤ん坊にするな」、これは今から15年前、障害者施設への費用徴収制度が導入され、私たちが厚生省に向かって叫んだスローガンであった。
 費用徴収制度は、本人からの徴収とは別に親などの扶養義務者からも徴収するというのが厚生省のはじめの案であった。私たち運動側が「障害者の独立と自由の観点から、所得保障によって、自分の受け取るサービスの対価は支払うようにする。だからこそ所得保障の充実はさらに重要な課題なのである」と主張したことによる費用徴収制度の導入であった。20歳を過ぎた障害者の親からも費用徴収を行うのであれば、何のための障害基礎年金の創設であったのかという根源的な問題に突き当たったのである。そして、「障害者を大きな赤ん坊にするな」と全国的に当事者運動が大きな高まりをみせ、厚生省前に座り込み行動を行った。その結果、費用徴収制度の扶養義務者から親を外させることに成功したのであった。しかし、これは施設の費用徴収基準問題だけを解決したにすぎなかった。

戦後、もう少しのところで…

 欧米の多くの国々では、日本のような扶養義務制度はないようである。たとえば、スウェーデンには「親・後見人・児童に関する法律」というのがあり、扶養義務に関係するところをみると、「養育義務は、子の18歳をもって終了する。ただし、その時点で子が就学中であれば、あるいは19歳になる前に復学する場合には、親は、修学が継続する限り、子が21歳になるまでその養育義務を有する。…」とある。また、デンマークの「社会扶助(統合)法」では、「すべて国民は、男女を問わず、政府機関との関係に照らして、本人自身、配偶者並びに18歳未満の子を扶養する責任を負うものとする。」と書かれてある。日本障害者協議会は政策委員会の中に「障害者の扶養義務問題に関する研究会」を一昨年から立ち上げており、昨年4月に行った学習会で弁護士の吉岡睦子氏から「日本においても扶養義務の範囲を夫婦間と未成年の子に対する親」に限定しようとする動きが法制審議会であったが、保留とされたままになっていることが紹介された。戦後、アメリカ占領下の民主化の流れの中で日本においても、欧米と同じような考え方が家族法の中で取り入れようとしたが、その後の政治状況の変化によって改革はなし得なかったようである。
 ノーマライゼーションの理念に照らした障害の重い人たちの社会的自立を支える基盤整備という課題を考える時、社会福祉サービスの充実と共に、この扶養義務の問題も同時に視野に入れながら取り組む必要がある。どんなに障害が重くても親兄弟から独立し地域社会での自立生活を可能とさせるには、十分な所得保障の確立と扶養義務問題の解決が重要である。また、このふたつの課題はリンクさせて考えていく必要がある。
 日本の家族単位で考えていくシステムや慣習の中で、私たちは目に見えないもので縛り付けられているのである。親元を離れアパートを借りて自立生活を送るために生活保護を受けようとすると、常に親兄弟への福祉事務所からの扶養照会がついて回るのである。確かに家族の絆を大切にし助け合いながら生きることは美しい姿でもある。けれどもそれは強制されるものではなく、家族一人ひとりが主体的な意思をもって行われた時、本当の美しい姿となるはずである。一方、このようなモラルや美学の問題とは別に、一人ひとりの生活保障を社会全体の問題としてとらえられ、サービスが給付される制度こそ、社会福祉の本来のあり方と言えないだろうか。

民法改正を目標におきつつも…

 扶養義務の問題は民法の問題であり根本的には民法の扶養義務規定を改正させていく必要がある。しかし、選択的夫婦別姓制度もなかなか実現しないこの日本において、民法の扶養義務規定を改正させるには、相当時間がかかりそうである。社会福祉基礎構造改革の一環として生活保護制度の見直し作業が始まっていると聞く。生活保護などの社会福祉諸施策を現行の世帯単位から、個人の生活に着目したサービスを給付できるような個人単位のものへと変えていくことは、それほど難しくはないはずである。これと併せて、扶養控除のあり方など税の問題に対しても検討し問題提起をしていく必要がある。扶養という目に見えない網の目から解放していく具体的な施策の実現を通して、民法の改正にたどり着けるのかもしれない。

(おおたしゅうへい 障害者の生活保障を要求する連絡会議代表)