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インタビュー

聴覚障害をもつ医師、
キャロリーン・スティーンさんに聞く

聞き手 吉村伸
財団法人日本障害者リハビリテーション協会

ファミリードクターとはどのようなものですか。

 ファミリードクターは自分でオフィスを持ち、病院から独立しています。もし、ある女性が妊娠して子どもを産むときは一緒に病院に行きます。退院してからは様子を見てもらいに私のところに来ます。また、たとえば骨に異常があった時にサポーターを巻いて治療するのはファミリードクターの仕事ですが、もし、骨折してしまっている場合は、病院に行って手術を受けなければならないので、その時は病院に行くことを勧めます。
 病気の8割から9割は私のオフィスで診て治療をすることができますが、難しい病気やもっと検査をして病気を特定することが必要な場合などは、専門の医師を紹介します。
 ファミリードクターの一部には、病院と契約をして病院の中にオフィスを構えている人もあります。 
 現在の私のオフィスには小児科専門の医師が一人、大人専門の医師が二人、ファミリードクターが二人、そのファミリードクターのうちの一人は私で、もう一人の同僚は健聴者で手話ができます。

キャロリーンさんは生まれた時から難聴ですか。

 ええ、かなり重い難聴です。母が妊娠中に風疹にかかり、生まれた時は少し聞こえていました。現在は、左側に補聴器を、右側に人口内耳をしています。
 アメリカでは、医師になるには普通の大学で4年、医科大学で4年、インターンで3年~4年、合わせて12年くらいかかりますが、私は、インターンになって2か月後に聞こえなくなりました。両耳とも全く聞こえなくなったのは、生まれてはじめての経験でした。その後、人口内耳の手術を受け、少し聴力が回復しました。
 以前は電話ができたのですが、今はかなり厳しい状況です。当時、医者になるためにインターンを続けるかどうか迷いましたが、続けることを決心しました。

学校時代はどのようにしてコミュニケーションをとっていましたか。

 1960年代は、手話通訳者は非常に少ない状況でした。手話通訳者が増えたのはもっと後の話です。ですから、以前は教室の一番前に座っていて、先生の声がよく聞こえる席に座っていました。また、化学の授業でビデオを使用する場合は、事前にそれに関する本を読んで理解するようにしました。また、よく聞きとりにくかった授業ではクラスメートのノートをコピーしてもらったりしました。手話通訳者が必要でない場合も、よくノートをコピーしてもらいました。
 私が初めて手話を学んだのは16歳の時で、高校卒業直前でした。大学の1、2年の時に手話通訳者がついたのは少なく、よくFM補聴器を活用していました。その効用はまるで、私のそばで先生が講義をしているかのように聞こえました。
 しかし、問題もありました。たとえば、20人ぐらいで輪になって討論をした場合は四方八方から言葉が飛び交い、だれが何を話したのかよく聞き取れず、混乱したことがありました。
 手話通訳者にも問題がありました。化学や医学の講義では、言葉が専門的なために手話通訳者が言葉の意味を理解できないことが多く、私が手話通訳者に言葉の意味を説明したり、また、医学用語を手話化したりして、お互いに共有しました。これは大変な協働作業でした。

手話通訳者はキャロリーンさんが手配したのですか。

 いいえ、大学側が用意してくれました。しかし、大変な思いをしました。大学側はある時、手話通訳者を採用するための費用がかなりの金額になることから、採用を中止したいと申し出てきました。
 私は弁護士の所に相談に行き、大学側の言い分には不合理があるといい、裁判に訴えました。大学側も弁護士を雇用し、弁護士同士で話し合ってもらった結果、2年間かかって大学側は手話通訳者を採用し続けることに同意しました。
 また、大学側はこれをきっかけに障害をもつ学生の支援センターを設立し、視覚障害、肢体不自由等さまざまな障害をもつ学生を支援する事業を始めました。
 それはADAができる前の話ですから、私はリハビリテーション法第504条と市民権法(1973年)をもとに主張しました。この二つを監視する団体からノースウェスタン大学に申し入れを行ってもらいました。どちらかというと504条のほうがかなり影響がありました。もし、大学側が手話通訳者を採用しなかったら、504条に違反したとみなされ、連邦政府の補助金を今後受けることができないからです。ADAにはそのような連邦政府の補助金を停止する罰則規定はありません。

しかし、ADAによって裁判に訴えることはできるのではないですか。

 ええ、そのとおりです。いろいろな人がADAについて知識を持ちはじめています。ADAは今後、効力を発揮すると思います。

日本の法律で欠格条項があるということをご存知ですか。アメリカにはそのような法律はありますか。

 ええ、聞いています。
 アメリカには、法律上はろう者は医者になれないとは書いてありません。法律は大学が障害があろうとなかろうと、医学部に入る資格(学歴上の)があるかどうかが問題で、当学生が医学部のカリキュラムをこなして修了したら、ライセンスを与えることができるとだけ書かれてあります。ですから、法律上はろう者や視覚障害者や肢体不自由者は医者にはなれないとは一言も書かれていないのです。本人が自分で医者の仕事ができないと思った場合のみ、ライセンスを取ることができないのです。
 アメリカには聴覚障害をもっている医者が20人から40人程度います。今は、昔と違って医学部で学んでいる人がもっとたくさんいると思います。

聴覚障害の場合は、聴診器の代わりに何か特別な機器はありますか。

 私は特別なバイブレーターを持っています。また、いろいろな機器があります。たとえば、心電図のようにグラフの出るものや、耳に振動で伝えるものなどがありますが、、十分ではありませんので、テクノロジーの進歩に期待しています。

患者とのコミュニケーションはどのようにしていますか。

 ほとんどの場合は問題ありません。どうしても、分からない場合は、手話通訳者を呼びます。また、場合によっては筆談も行います。患者がろう者の場合はコミュニケーションに問題はありません。手話でできますから。ただ、まれにホームサインを使用するろう者がいます。その場合は、ろう者の手話通訳を呼んで通訳してもらいます。その他に今は、いろいろなコミュニケーション手段があります。たとえば、ファックスやEメールなど、電話の代用品が出てきていますので、電話だけに頼る必要はありません。

アメリカでは、医者の免許は他の州でも使用できますか。

 大変いい質問ですね。アメリカの場合は州ごとに州の当局が免許を交付することになっています。私がイリノイ州からニューヨーク州に転居した時は、経歴書を付けて申告し、州の当局にチェックして交付してもらいました。ニューヨーク州の場合は、毎年50時間の講習を受けなければなりません。

最後に、日本にはリハビリテーション法もADAもありませんが、何かアドバイスをお願いします。

 障害者は機会を持つべきです。また社会は障害者に機会を与えるべきです。障害者も障害をもっていない他の人以上に優秀な成績を残す場合があります。ものごとを達成した喜びと誇りをもつことによって、それは、他の障害者のロールモデルとなれるのです。またテクノロジーを活用し、工夫して障害を克服する必要があります。
 社会にはいろいろな人がいて、いろいろな視点から見られるようにしなければなりません。障害者に役に立つことは、結局、一般の人にも役立つことにつながるからです。
 たとえば、車いすの人のために作られたスロープは、妊婦や子ども、老人にだって役立つと思います。だれもがアクセスできるようなユニバーサルデザインの考え方を取り入れなければなりません。だれもが公平に自分で自分の人生を変えられる社会でなくてはならないのです。それは、さまざまな人にさまざまな生き方があるということです。

今日はお話をありがとうございました。

キャロリーン・スティーンさん

ニューヨーク州ロングアイランドで生まれる。8年間そこで暮らし、その後メリーランド州に移る。メリーランド州の高校を卒業後、オハイオ州クリーブランド市にあるケースウェスタンリザーブ大学に入学。2年半後、イギリスのサセックス大学に留学し、再びケースウェスタンリザーブ大学に戻り化学の学士を取得。
その後、イリノイ州シカゴのノースウェスタン大学医学部に入学し、4年間で医学博士の資格を得る。その後ファミリードクターのコースを選択し、1993年に卒業、シカゴで5年間ホームドクターとして働いた後、現在はニューヨーク州ロチェスター市に移り、産科を含むファミリードクターとして働いている。ろう者や難聴患者のケアをめざしたコミュニティーが専門。