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障害の経済学 第17回

障害者における生産的なるもの
―プロダクティブ・リビングについて―

京極高宣

はじめに

 高齢者問題では介護問題と並んで、今後重要視されているのは健康生きがい対策です。ところで、わが国では「健やかに老いる」をウエル・エイジング(well aging)と呼ぶことが多いのですが、英語では生産的に老いるという意味で、プロダクティブ・エイジング(productive aging)と言っています。こうした生産的なる言葉は、大変幅広い含意をもっています。いわゆる経済学でいう生産的とは、第1により金儲けになるか、第2に財貨やサービスを生み出すかなど狭義に使われることがほとんどです。その意味では、狭義の経済学的アプローチからは、障害者、特に重度障害者の大部分は生産的ではなく、不生産的な存在とされやすいのです。

1 糸賀一雄の「生産的なるもの」

 最近、私は知的障害者福祉の父として知られている近江学園創設者の糸賀一雄(1914~1968年)の思想と生涯をまとめた拙著「この子らを世の光に」(NHK出版、2001年)を出版しました。この糸賀一雄の福祉思想においては、重い知的障害をもつ子どもの存在を「生産」的なるものと見ていることに注目してみたいと思います。
 「この子らはどんなに重い障害をもっていても、だれととりかえることもできない個性的な自己実現こそが創造であり、生産である。私たちの願いは、重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であることを、認めあえる社会をつくろうということである」(「糸賀一雄著作集」第3巻、112頁「福祉の思想」NHK出版、1968年、177頁)。
 この糸賀の考え方は、重い障害をもつ子ども自ら必死に生きようと努力しているのであり、それなりの自己実現をしようとしていることを認めれば、そのことはプロダクテイブ・リビング(productive living)だとみなすということではないでしょうか。したがって、糸賀の生産的なるものは、健やかに老いるのプロダクテイブ(生産的)な意味に近いと言えます。
 社会福祉の立場を離れて、一人の重度障害児にさまざまな財貨やサービスを与えて喜んでもらおうとする行為は、広義の経済的な意味で、生産的なものと言えましょう。しかもその財貨やサービスを生産すること自体は、狭義の経済的な意味でも生産的であることは言うまでもありません。とすれば、財貨やサービスの生産→財貨やサービスの提供→財貨やサービスの消費による効用という迂回プロセスをとらず、重い障害をもつ子どもが自らの意志で自己実現、ほぼ同類の効用を生みだすとすれば、それは果たして不生産的なもの、浪費的なものと断定できるのでしょうか。いや、むしろきわめて生産的なるものと認めるべきでしょう。もちろん、そのことでだれかが金を儲けられるかとか、経済的価値を生み出すとかは一概にうんぬんできませんが、全体社会にとって、確かにプラスで世を明るくすることであるならば、経済的不正行為によって財貨やサービスを生産したり、あるいは害毒を流す財貨やサービスを生産することより、何百倍も生産的なものと言えるでしょう。

2 「世の光に」の経済学的意味

 糸賀一雄は、近江学園の厳しい実践のなかから重い障害をもつ子どもに世の光を当ててやるのではなく、この子らが世の光になるよう訴える理念、「この子らを世の光に」を生み出しました。この「に」から「を」へのコペルニクス的転換は、戦後日本の福祉思想にとって革命的な役割をもっていました。多くの同情的な見方である「この子らに世の光を」ではなくて、この子らが主体者となり、輝かしい存在として位置づけられる「この子らを世の光に」は、現在に至るまで、わたしども社会福祉関係者にとって先導的な福祉理念として継承されています。ただ、その場合にややもすると、経済学の世界の外でもっぱら社会福祉的な意味合いで「この子らを世の光に」が語られているきらいもあります。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 経済学は、社会科学の中で経済に関して研究する学問で、広い意味では人間社会における生産資源の生産と交換を支配する諸法則を研究する科学です。P・Aサムエルソンは、経済学を次のように定義しています。
 「経済学とは複数の代替的な用途をもちうる希少な生産資源をいかに使うか、時間を通じて種種の商品をいかに生産するか、そしてそれらを、現在および将来における消費のために、社会におけるさまざまな人の間、グループの間にいかに分配するかなどについて、人々ないし社会が貨幣を使用しつつ、あるいはこれを使用せずに、いかなる選択を行うかの研究である」(金森他編「経済辞典」有斐閣、第3版、290頁)。
 たしかに障害児者の自主的な行為そのものは、貨幣を使用しませんし、必ずしも商品を生産するものではありませんが、前述のサムエルソン説に従っても、自立に向けて人間存在という最も希少な生産資源を使って、取り巻く人々のこころに満足とやすらぎを与える行為は広く経済学の対象に入るものであり、そうした行為を支える人々の協同作業も当然に経済学の対象です。そして何をもって生産的なものか否かは、広義には人々に満足を与えるか否か、効用を与えるか否か、さらにどれくらい与えるかが一定のメルクマールとなり、そうした視点から重い障害をもつ人々の可能性を引き出すことは、経済学的意味から生産的なものと位置づける今日的必要があるのではないでしょうか。

※「障害者の所得保障」(その2)については、2~3号後とします。

(きょうごくたかのぶ 日本社会事業大学学長)