音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

ワールド・ナウ

ようこそエジプトへ(1)
─気まぐれ規則下の生活と社会サービス─

山内信重

はじめに

 「色のない町だね」「土色の建物ばかりだなぁ」生後5か月の息子を抱えて砂漠の中の空港に降り立った妻と私は、こんな言葉を交わしていました。アフリカ大陸北東部に位置するエジプト。その首都であるカイロに住み始めて、まもなく1年になろうとしています。
 私は、障害者リハビリテーション分野において、日本とエジプト両国政府間での将来的な国際協力の可能性を探るため、JICA(国際協力事業団)技術協力専門家として、ここエジプトの社会保険・社会問題省に勤務しています。
 本稿では、エジプトでの日常生活で感じたこと、障害のある人の生活や社会サービスについて、これまで見聞きしたことなどをもとに記します。

公の規則と気まぐれな規則

 カイロの町でまず驚くのは、信号機を守る車は1台もいないということでしょう。信号機のない町は、アジアやアフリカの国でも、そう珍しくはないのですが、国際都市でもあるこのカイロで、しかも数多くの信号機がきちんと設置されているにもかかわらず、だれ一人として守らない国というのは、かなり珍しいと思います。
 さらに奇怪に思えるのは、信号機のあるところには、必ず複数の警官がおり、手動で車の流れを統制しています。もちろん、信号機が赤、青、黄とちゃんと作動している場所でも同じ光景です。もし、警官を配置するなら、信号機を設置しなければいいと考えるでしょうし、またその逆も言えるのでしょう。特に不思議なのは、新たに信号機を設置したところへ、新規に警官も配置されることです。
 エジプトの生活では、一事が万事この信号機のようなのです。つまり、規則は一応あるのですが、その公の規則(信号機)にはだれも従わずに、その場の規則(警官)には従うのです。その場の規則のことを、私は秘かに「気まぐれな規則」と呼んでいます。
 この「気まぐれな規則」は、町中の至る所で目にすることができます。スーパーの肉売り場で、店員さんにそっと心付けを渡します。そうすると、1キロの値段で2キロ、3キロのお肉を買うことができるわけです。この場合、「公の規則」は正札ラベル、「気まぐれな規則」を操る人は店員さんというわけです。
 こんなことばかり書いてしまうと、エジプトはなんていい加減な国だと思われるでしょう。そうです、いい加減な国なのです。だからこそ、人間臭く、義理人情を重んじ、時には私欲のためにだまし合い、そしてある時には助け合うわけです。

義足と物乞いのシーソーゲーム

 こんなカイロの町を歩いていると、上肢や下肢に障害のある人に多く出会います。使っている杖や車いすは、お世辞にも機能的なものとは言えませんが、視覚や聴覚も含めて、身体に障害のある人たちは、障害のない人とほぼ同じような日常生活を送っています。この一節だけ読まれた方は、日本よりもエジプトのほうが障害のある人の社会参加が進んでいると思われるでしょう。しかし、そうではなくて、社会参加うんぬんを論議する以前の問題として、明日の食べ物をいかに確保するか、生活必要物資や現金をどうやって得るかということこそ、庶民が直面している大きな問題なのです。少々言葉が悪いかもしれませんが、障害があるとかないとかが原因で学校に行けない、あるいは仕事に就けないという状況にはならず、その前段階として、経済的に裕福か貧しいかが最大の焦点となります。
 ですから、貧しい階層の人たちが事故で片足切断となった場合、公的に義足は無償で提供されるのですが、申請されるケースが少ないのです。その理由の一つとして、義足をつけても現金を稼ぐだけの仕事に就けないのであれば、片足切断を自己のPR材料として路上で物乞いをしたほうが、確実に現金を得ることができるからなのです。貧困層の人たちが、月給100ポンド(1ポンド=約30円)の職に就くことは非常に難しいのですが、物乞いをして1日に10ポンドを得ることは、イスラムの教えに従って喜捨の精神があるこの国では、いとも簡単なことなのです。
 長年カイロに住んで、こんな実情を日々目の当たりにしているある外国人は、「それでも僕は、義足を選ぶと思うよ。だって、義足をつけたほうが、移動も自由になると思うし、そのほうが人生楽しいもの」と言っていました。こうなると、ものの考え方というのは、その国や地域によって、あるいはその人の宗教や価値観によって異なるのであって、何がその人にとって幸せかというのは、永遠の課題になってしまいます。

すべてが金次第?

 さて、経済的に恵まれた家庭に住む障害のある子どもたちは、民間施設や団体に高額な利用料を支払うことで、日本や他の先進国と同等、あるいはそれ以上のリハビリテーションや必要な社会サービスを受けることができます。お金を払った分だけ、それに見合うサービスを受けることができると言っていいでしょう。また、経済的にそれほど裕福でなくとも、知り合いの裕福な親類や知人に頼って、その利用料を支払ってもらうケースもあります。その反面、経済的に貧しく、頼れる親類や知人もいない家に住む障害のある子どもたちの大半は、何らのサービスも受けずに自宅やその周辺で終日過ごす場合が多いのです。
 今年1月にユニセフ(国連児童基金)が発表したリポートによると、エジプトには16歳以下の障害のある子どもたちが約200万人いると推定されており、日常的に何らかの教育も含めた社会サービスを受けているのは、その5%に満たないとのことです。また、このサービスを受けることができない数値は、16歳以上の成人に関しても、ほぼ同値であると言われています。
 私は、これまでに全国約20か所の施設を調査しましたが、それらの施設は経済的に裕福な人たちを対象にした施設と、一般庶民を対象にした施設に二分することができます。
 先日もある施設を調査しました。そこは、裕福な経営陣たちが、自らと同程度の社会経済レベルの人たちを対象にサービスを提供している施設です。その施設では、知的障害や重複障害の子どもたち向けに、日常生活に必要な学校教育を柱として、理学療法、アート指導、職業訓練など、その年齢に応じて作成された個々のカリキュラムに基づいた教育活動が行われていました。おそらく、この施設のカリキュラムは、日本の障害児教育の概念を超越したものでしょう。その子どもに必要な教育、医療的ケア、余暇活動などが一つの学校と称する建物内で提供されているのです。
 もし、本稿の冒頭で記した「公の規則」に従うのであれば、エジプトに住む障害のある子どもたちは、すべて公立の養護学校に通学すべきなのです。しかし、そこは「気まぐれな規則」の国。日本のような児童全員就学の義務もあるのですが、それも「公の規則」によるものです。つまり、もし親がわが子をある民間施設に通わせたいと考えれば、それは親が操る「気まぐれな規則」により可能なのです。ただし、高額な授業料が支払い可能であればという条件付きですが。
 一方、経済的に貧しい人たちを対象にした施設では、残念ながらそのサービス内容もお粗末な状態です。指導員の資質が低く、さらに、その施設自体の運営体制、管理方法にも問題があるように感じます。ただし、こういった施設に通ってくる子どもたちに何の罪もありません。エジプト全土にある障害者関連施設366か所のうち、おそらく大半はこのような施設ばかりでしょう。いかにして体質を改善していくのかが課題となります。
 現在、施設によるサービスの提供方法は、資金的にも人員的にも見直さざるをえない局面に立たされています。政府の財政難を理由に、公立の障害者関連施設はすべて民営化(当地ではすべての施設をNGOと呼んでいます)されており、資金力による施設間のサービス内容の格差は、ますます拡大する一途にあります。
 次号では、このような状況を打開するための試み、また外国の援助機関が果たす役割などについて記す予定です。

(やまうちのぶしげ エジプト社会保険・社会問題省)