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ワールド・ナウ

ようこそエジプトへ(2)
─CBR活動とこれからの課題─

山内信重

はじめに

 先月号では、エジプトでの日常生活で感じたこと、障害のある人の生活や社会サービスについて、これまで見聞きしたことなどをもとに記しました。また、さまざまな理由から、施設によるサービスの提供方法を見直していく必要があるとも述べました。
 今月号では、このような状況を打開するために、地元のNGOを中心に一部の地域で始まったCBR活動を紹介し、エジプトが抱える課題などについて記します。

「とにかく、何もわからないのです」

 その男の子には、ナイル川上流のバスタ村で出会いました。村の中心部にあるモスクの集会所では、週に1回、障害のある子どもたちとその家族が集まり、簡単な遊びや手芸などの作業が行われています。
 我々が訪ねた日には、十数人ほどの子どもたちが集まっていましたが、残念ながら一人ひとりとゆっくり話をする時間もなく、追い立てられるようにその場を去ろうとしたとき、1人の男の子が私の視界に飛び込んできました。吸い寄せられるようにその男の子へ近づき、彼のお母さんからいろいろなお話を聞きました。
 もうすぐ10歳になろうというその男の子は、5、6歳程度の発育状況で、明らかに身体発達の遅れが目立ったのでした。脳障害による知的発達の遅れも見られ、手足の筋力も低下し、喘息(ぜんそく)様の呼吸をして、血液循環が悪いのか特に末梢が冷たく、難聴の疑いもあり、といった状況です。お母さんに日常生活に関する質問をすると、ほぼ毎日、家の中で過ごしているとのことでした。外出しても特にうれしがることもないと語り、何をするということもなく、ただ毎日の時間が過ぎていくと言っていました。終始あまりしゃべらなかったそのお母さんは、最後に一言だけ「とにかく、何もわからないのです」と言いました。
 「とにかく、何もわからないのです」。そのお母さんの言葉は、どの国でも私がいつも耳にする言葉でした。日本でも、アメリカでも、ネパールでも、そしてエジプトでも障害のあるお子さんをもつ親御さんから聞く言葉はみな同じでした。ただ、一つだけ違うのは、その言葉を聞いた後に、対応できる手段が社会資源の中にあるか否かだと思うのです。
 そして、1980年代の初頭から、社会資源が乏しい国や地域を中心にCBRと呼ばれる活動が活発になってきたのでした。

試行錯誤の繰り返し

 ここエジプトでも、カイロやアレキサンドリアにあるNGOを中心に、1995年頃からCBR活動が始まりました。CBRとは、Community-Based Rehabilitationの略語で、日本語では「地域に根ざしたリハビリテーション」などと訳されています。CBRでは、これまでリハサービス等にアクセスすることが難しかった障害のある人たちも適切なサービスを受けることができるよう、事前に養成されたフィールドワーカー(ボランティアスタッフ)が、地域のニーズに即した社会サービスの提供を行います。
 さて、アレキサンドリアで展開されているCBR活動について、簡単にご紹介しましょう。
 現在、アレキサンドリア周辺では、7か所の貧困地区でCBR活動が行われていますが、私が訪れたのは7年前に始まったバクス地区です。運営は、キリスト教団体「カリタス・エジプト」の障害者サポートセンターが行っています。日曜日を除く毎日朝10時からお昼頃まで、その地区の中心にある広場を借りて、乳幼児から30歳前後までの障害のある人たちを対象に、遊びの要素を取り入れた身体運動や人形劇、歌や踊りに工作など、盛りだくさんのプログラムが用意されています。また、乳幼児のお子さんに対しては簡単な療育指導も行われています。
 このバクス地区でのCBR活動は、そのほとんどが近所のボランティアの人たちがプログラムの立案から実際の活動までを行っています。このCBR活動の数時間、親御さんは自分のお子さんをボランティアの方たちに任せて、その空いた時間を利用して、保健省の医師がお母さんたちを対象に母子保健指導を行っています。
 このCBR活動に参加する人は、親子で毎回50ピアストル(約15円)を参加費として支払う必要がありますが、その日に手持ちのお金がない場合などは免除されています。この集まった参加費は、ボランティアの交通費などに充てられているそうです。
 それぞれの活動地区によって、独自のやり方が異なるようですが、根本の考え方である「障害のある人たちやその家族に毎日の活動の場を提供する」という点においては、共通しているようです。すべての地区で成功するとは限らないようですが、試行錯誤を繰り返しながらエジプトでのCBR活動は展開されています。

「だからエジプトはだめなのだ」と言われないために

 エジプトに住む外国人は「だからエジプトはだめなのだ」とよく口にします。約束を守らない、権威ばかりを振りかざして自身の過失を棚に上げる、とにかく信頼できない、もうその理由は散々たるものです。私の勤務する社会省を例に取ってみても然(しか)りです。法制度の確立や施設の設置、専門職種の配置等はおおむね整備されているものの、実際にはその役割が果たされていないのです。たとえば、1975年に制定されたリハビリテーション法や障害者手帳の交付といった障害者施策に関連した各種制度は書面上整っているのですが、実際にそれらの制度を運用することができていません。
 その原因として、体面上は財政難という一語で片づけられていますが、その背景には社会慣習的あるいは宗教的要因が大きく介在していると考えられ、最終的には先ほどの「だからエジプトはだめなのだ」に帰結されるのです。
 また、社会的弱者は、イスラムの教えにより富める者からの施しを得て、家族や周辺の人々が面倒をみるという考え方が一般的であるため、障害のあるなしにかかわらず、何か困ったことがある人々自身に「自立した社会生活をめざす」という発想がなく、人に頼って自身の生活を営むことがごく一般的である場合が多いのです。
 そして、貧困地域に居住する大半の人々は、学校教育なども含めた社会サービスを受けていないのが実情です。これは、日常の生活において、子女の教育や文化・余暇活動を求めるよりも、人間として必要最低限の毎日の生活を営んでいくための農工作業、家事や育児などを含めた労働に対して、年齢を問わず家族全員が一致団結して協力する必要があるからでしょう。
 このような状況下において、先進国あるいは民主主義的な考えのもとで成熟し、近年の国際社会において認識されつつある「障害のある人の自立」「地域での社会生活」「完全参加と平等」「QOL(Quality of Life)の向上」といった考え方が、このエジプトで速やかに浸透することは難しいと思います。この国には、これまで長年培われてきた独自の考え方があり、その一部に対して変革を求めようとすることは、時間をかけて丁寧に実行していかなければならず、トップダウンの手法よりも、ボトムアップ的な要素の強い手法を用いて介入していくことが戦略的に必要なのだと考えます。

おわりに

 先月から、省内である検討会を始めました。貧困地域において何らのリハビリテーションサービスも受けていない障害のある人々に対して、どういう手法でリハサービスを提供すべきかが検討会のメインテーマです。施設リハとかCBRなどの既成の概念にとらわれず、今のエジプトの実情に見合った形で、どういうプログラムが最適なのかを検討しています。この検討会は、まだ私と同僚職員のみという2人だけの小さな会合ですが、いつの日か2人、3人と賛同者が集まって、実行可能でかつ裨益効果の高いプログラムを作り上げることをめざしています。
 我々の挑戦は今、始まったばかりです。

(やまうちのぶしげ エジプト社会保険・社会問題省)