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イベント

日韓TRY2001
『タゴシッタ ギチャ』
(乗りたいねん電車!)
─日韓の障害者、韓国縦断!512kmの旅─

松島裕

 僕たちのTRYの気持ちがだれに届いたかなんてそんなの全然わからない、ただひたすらだれもが気兼ねなく使える電車、ワールドカップ競技場を造ってもらうために僕らは歩き続けた。
 暑い、日差しが痛い、大雨の中、真夏なのにびしょびしょになってとても寒い、駅員やワールドカップ実行委員には本当に僕たちの気持ちが伝わったのだろうか? こうまでして電車に乗りたいのに、ワールドカップを見たいのに、ただそれだけのことが伝わらない。参加者のインジェは言っていた「障害者はほんのちょっとの設備改善で障害者ではなくなる」って。
 この夏、僕らは四つの壁を乗り越え韓国を縦断した。日本の障害者、日本の健常者、韓国の障害者、韓国の健常者という壁を。
 TRYとは1986年に、障害者の自立生活を支援する団体メインストリーム協会の代表廉田俊二が大阪から東京まで『乗りたいねん電車!』を合い言葉に、JR(当時の国鉄)を調査したのがこのTRYの始まりだ。
 ただひたすら炎天下の中を障害者・健常者が一緒になって歩き、夜は銭湯に入り、野宿をしながら歩き、鉄道駅をだれもが使いやすいかどうかを調査し、これをもとに国土交通省(当時の運輸省)やJR本社に設備改善を要望することで『乗りたいねん電車!』をアピールしていく。それがTRYだ。95年10回を期に、このイベントはいったんしなくなったが、今でもメインストリーム協会ではそのときの話が語られる。そんな話を聞いて僕たち若者が去年新しいメンバーを集め、TRYは再会する。
 そして今年初めてのTRY海外進出! そのきっかけは、日本の障害者の自立生活を勉強するために来日した1人の韓国人ソ・ミンスがメインストリーム協会に研修に来ることになったからだ。彼は5歳の時に交通事故で右足を失った。今回は義足では長距離を歩けないために車いすで参加した。
 韓国では今でも活動と言えばデモが多い。ミンスはデモに対して少し疑問に思っていたのかもしれない。TRYは交渉の中で障害者の権利を訴えていく、そういう活動に彼は興味をもったのだと思う。「TRYするか?」と言う廉田さんの言葉に、彼は即答で「やりたい」と言ったのを今でも覚えている。
 来年はワールドカップも日韓共催で行われる。世界中が注目するこのワールドカップを、障害があっても楽しみたい。そのスタジアムを調査できたらおもしろくなるんじゃないかと思った。そう、TRYは進化してどんどん面白くなってきた。
 日本と韓国の状況は最悪だった。教科書問題や反日運動等、何度となくTRYメンバーを不安にさせた。そんな中で僕らが考えた企画はホームステイ。しかもただのホームステイではない、あらかじめ連絡してホームステイさせてもらうのではなく、突撃でTRY。
 汗まみれで日焼けして真っ黒になった顔、韓国ではほとんどコインランドリーがないために手洗いしかできなく、夜に干すので乾かない服を着た僕らは本当にホームレスとたいして変わらない、しかも日本人を韓国の人々は本当に快く迎えてくれた。だいたい4、5人一組で構成したグループで泊めてくれる家を探す。全部でだいたい10グループだったが、すべてのグループが家に泊めてもらうことができた。
 次の日はみんなから口々にいろんな家の話がとびかい、ホームステイのことで持ちきりになった。ヤクザがらみの家に泊めてもらったり、村一番の豪邸に泊まったとか、食事が済んでいたのに僕たちのために新しく作ってくれたり、韓国の風習に触れたり、布団があんなに気持ちいいとは思わなかったとか、心配していたのに、風呂に入れるし、布団で寝られるので、むしろ普段のTRYの生活なんかよりずっといいので毎日やろうと言うやつもいたぐらいだ。
 障害者を見たこともない人たち。いったいどんな気持ちだったのだろう? このホームステイの目的は障害者をいろいろな人に知ってもらうこと、そしてなぜ歩いているのかを知ってもらうためだ。ホームステイは26日間のうち2回やったが、全員ホームステイに成功した。歩いている最中に本当に多くの人から声援をもらった。クラクションを軽快に鳴らしてくる車、韓国語でがんばれ!『ファイティン!』を言って走り去りながらガッツポーズをしてくる車、一緒に歩いてついてきたおじさん、手を振ってくれる人々、僕たちを見つけわざわざ飲み物を差し入れてくれた人までいた。暑い中での飲み物の差し入れは本当にうれしい。飲んでも飲んでも喉が渇く夏のアスファルト、僕らはむさぼるように差し入れてもらった飲み物を飲んだ。
 そんなふうに毎日をみんな一緒に歩いて行くうちに僕たちの気持ちはどんどん変わっていく。気づいたら障害者も健常者も日本人も韓国人も当たり前のように一緒に過ごすことができていた。最初は言葉の違い、文化の違い、初めての障害者の介助などでぎくしゃくしていた関係がどうでもいいものに変わっていた。ジェスチャーと慣れない英会話、辛い食べ物、暑い中でのキムチチゲはたまらない。水シャワー、韓国ではお湯をあまり使わないうえ、田舎の水は井戸水のように冷たかった。障害者との風呂で「裸を見ても失礼じゃないのか?」と言っていた韓国のメンバー。本当に障害者とかかわったことがないんだと感じたけど、後半は思いきりあかすりでこすっていた。歩く中で僕たちは壁をいつのまにか克服していた。
 それでもつらいこともあった。野宿しているうちに雨が降ってきたり、大量の蚊やダニや蟻に刺されたり、日焼けがひどくなりすぎて火傷のようになったり、足にまめができて歩くのが本当につらそうなやつもいた。昼食後たいていのやつは1時間ぐらい眠り込む。歩いていくうちに体力もついてきたがやっぱりみんな疲れていた。
 僕たちの目的はだれもが気兼ねなく鉄道とワールドカップ競技場を利用できるようにしてもらうこと。鉄道はともかく、ワールドカップ競技場には本当にあきれてものが言えなかったのが本音だ。ワールドカップは世界中の人が注目する。もちろん障害者も。しかし、調査結果はこうだ。
 車いす席が200近くあるのに障害者用トイレは四つしかない競技場。車いす席の前の手すりが高く、ちょうど車いすに座った状態で目の前にくる所もあった。点字ブロック、点字案内が全く付いていない。付けてほしいと要望したが、返答は視覚障害者がワールドカップを見に来ることは無いと言われる。エレベーターがすぐに閉まってしまう。障害者用トイレが狭く、非常用ボタンもまちまちだった。むしろ当事者である障害者が立ち会っていないために使いにくくなっているところまであった。
 それにすべて地域ごとに作られているために、競技場の中の設備が地域によってばらばらだった。これはちゃんとしたガイドラインが法律として作られていないために、ある地域では使えたものが違う地域では使えないものとして作られてしまっていたりする。 
 鉄道や駅はどうしようもない。駅の乗降人数が少ないこともあるだろうが、それにしてもすごい。車両の入り口には5段以上の階段、無人駅多数、洋式トイレがない駅もたくさんあった。障害者用トイレの前に物が置かれている所まであった。エレベーターのある駅はほとんどない。ソウル駅でさえ改札からホームまでのエレベーターは付いていなかった。点字や点字ブロックもあるほうが少なかった。これではワールドカップ競技場にたどり着くこともできない。駅員の対応のほとんどはメモと聞いているフリはしているが、本当に伝わったのだろうか? 露骨にこれが韓国の今の状況なので仕方がない、と言う駅員までいたぐらいだ。
 調査した後、僕たちは全員で駅員と話す。だれでも一人で利用できるようにと。ほとんどの駅員は一人でなんてとんでもないと思っていたような印象を受けた。それでも政治家の人が僕たちのことを聞き、駆けつけてくれたのにはびっくりした。デモを起こしてもなかなか出てこない政治家が、僕たちのところにワールドカップ競技場に来てくれたのだ。
 韓国でTRYをすることで心配だったことは、調査をしても要望する相手がいなかったらただの旅になってしまうことだった。僕たちの要望したことは、だれもが1人で利用できるようにしてほしいということと、法律として設備の基準を作ってもらうこと、そしてその法律と設備の設計を当事者である障害者の意見を取り入れて行くこと、設備が今すぐ変わることは難しいだろうが、それでも介助をする方法を鉄道駅員とワールドカップのスタッフには身につけてもらいたいということだ。そして設備だけでなく、障害者とコミュニケーションをとり、心の面でもバリアフリーを考えていってほしいと訴えてきた。
 こんな26日間を僕たちは一緒に過ごした。最初は残りの日にちを数えるのもいやだったけど、残り少なくなるにつれて寂しくなってくる。まだまだ歩きたい、ゴールは同時に別れにもなるから。そんな気持ちとは裏腹に1日は残りの日程と一緒に短くなっていった。
 8月15日、韓国の独立記念日に僕たちはソウル駅に到着。ミンスの最後の街頭スピーチは「これから近くの人、友達にこのイベントのことと、このゴールした感動を伝えていってください」。実行委員の海老原さんのセリフは「TRYはこれで終わったけど、心の中でのTRYは一生続けていくものだと思っています」だった。
 僕たちの要望がだれに届いたかはわからない、それでも僕たちはただひたすら訴え歩いていく。

(まつしまひろし 日韓TRY2001実行委員)