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文学にみる障害者像

フィリップ・ロス著
『狂信者イーライ』

櫻田淳

 米国には、600万人前後のユダヤ系市民が生活している。WASPと称される人々が主流を形成している米国社会では、ユダヤ系市民もまた、傍流の存在として差別される立場にあった。その一方で、ユダヤ系市民は、その勉学熱と上昇志向の強さによって、経済、メディア、学術、芸術といった米国社会の各分野で次第に大きな影響力を確保するようになった。現在の中東情勢を性格付けている米国政府の親イスラエル政策が、ユダヤ系市民の影響力に依るものであるのは、周知の事実である。現にウィリアム・クリントン前政権では、14名の閣僚のうち、国務、国防、財務、労働の4長官がユダヤ系の人々であった。ユダヤ系市民は、米国の総人口に占める割合に比べれば、遼(はる)かに突出した権勢を持つようになっている。加えて、ユダヤ系市民の権勢は、他の出自を持つ市民、特に米国社会の中で過酷な状況に置かれているアフリカ系市民の反発を招いていたりする。アフリカ系市民の多くが直面する貧困などの問題の責をユダヤ系市民に負わせようという議論は、アフリカ系市民の側からも示されたことがあるのである。
 フィリップ・ロスもまた、そのような複雑な立場に置かれてきたユダヤ系市民の1人である。ロスは、1932年、ニュージャージー州ニューアークに生まれ、シカゴ大学で文学修士の学位を取得した後、アイオワ大学に籍を置きながら創作活動を展開してきた。それは、「知的なユダヤ系エリート」の典型ともいえる足跡かもしれない。ロスは、1959年に最初の短編集『さよなら、コロンバス』(Goodbye, Columbus)を発表し、それは後に全米図書賞を受けることになる、本稿で取り上げる短編『狂信者イーライ』(Eli, The Fanatic)は、その中に収められたものである。
 ロスの創作活動に一貫して流れる問題意識は、「米国社会においてユダヤ人とは、どのような存在なのか」ということである。ユダヤ民族の伝統的な価値観や作法は、それを純粋なまま社会に押し出せば、周囲の社会と軋轢(あつれき)を生む。その軋轢を、どのように考えるかが、ロスの幾多の作品の基調となっているのである。そして、『狂信者イーライ』もまた、そのような問題意識に則った小説である。その点、「処女作にこそ作家の総(すべ)てがある」という言葉は、ロスについても該当するのであろう。
 『狂信者イーライ』の物語の主人公、イーライ・ベックは、身重の妻を抱えたユダヤ系弁護士である。イーライは、もともとは裕福なプロテスタント市民が住んでいた街にあるユダヤ神学校の立ち退きを求める訴訟に関わっている。ユダヤ神学校の存在は、米国社会の常識とは懸(か)け離れた「異質な空間」が存在することを意味していたため、街の人々の不安心理を刺激していたのである。イーライは、街の住民の意を享(う)けて、弁護士として校長と折衝するけれども、その折衝は難航する。校長の煮え切らない姿勢と住民からの期待は、イーライには重圧となり、イーライの情緒は不安定になる。その様子は、妻に敏感に伝わる。その中で、街に「黒い帽子の男」がたびたび、姿を見せ、住民を不安に陥れる。「黒い帽子の男」は、伝統的なユダヤの衣装を身に付けていた。イーライは、ユダヤ神学校校長を通じて、「黒い帽子の男」がユダヤの衣装を身に付けて街に出るのを止めるように働きかけるけれども、一向に埒(らち)が開かない。イーライは、思い余って、「黒い帽子の男」と互いの服を交換する挙に出る。イーライは、交換したユダヤの伝統衣装に馴染みを感じている自分自身に気付き、それを着て街に出る。しかし、それは、妻や町の人々から「精神異常」の烙印を押されることを意味していた。これが、物語の粗筋である。
 『狂信者イーライ』の基本的な焦点は、「米国の生活様式」と「ユダヤ的な生活様式」の軋轢であり、さらに広い見地からいえば、「社会の中で異質な存在とは、どのように扱われるか」ということである。物語中、イーライが「精神異常」と扱われた契機は、「黒い帽子の男」と交換したユダヤの伝統衣装を着て街に出たことにあるけれども、この「衣装」が象徴するのは、人々が依(よ)る「生活様式」なのである。およそ、人間の社会とは、家庭から地域社会、国家に至るまで、もろもろの価値の体系によって支えられている。人々は、そのような価値の体系を受け容れながら、日々を過ごしているわけである。イーライは、「黒い帽子の男」と交換する自らの衣装として、ブルックス・ブラザーズのスーツなどを用意するけれども、そうしたスーツは、「米国の生活様式」を象徴している。そして、ブルックス・ブラザーズを気に入っていたイーライも、妻も友人も、「米国の生活様式」を何の疑問もなく受け容れ、「ユダヤ人」という意識ではなく「米国人」という意識の下で生きてきたのである。イーライの友人が、ユダヤ神学校の人々を「狂信者」と呼んだのは、その事情を示していよう。然(しか)るに、イーライは、「黒い帽子の男」と衣装を交換したことを契機に、街の人々が「狂信者」と呼ばれる側の立場になった。そのことに、「米国人」として生きることに疲れ、「ユダヤ人」であることに平安を実感したイーライの姿を見ることは、強(あなが)ち無理なことではあるまい。「狂信者」とは、「周囲の人々とは相容れない価値の体系を奉じる人々」であるとすれば、「精神異常者・心身喪失者」とは、「価値の体系それ自体を認識しない人々」ということになる。「狂信者」と「精神異常者・心神喪失者」は、本質的に別の存在であるけれども、既存の「価値の体系」の中に身を置く人々には、その違いは、なかなか、判(わか)らない。イーライの末路は、そのようなことを暗示しているのであろう。
 米国では、民族、宗教のうえでの「価値の体系」を巡る軋轢は、日常茶飯事である。従って、この小説を本当に理解しようと思えば、米国社会におけるユダヤ系市民の位置について一定の知識が必要とされる。少なくとも、『ユダヤ系アメリカ人』(本間長世著、PHP新書)、『アメリカ・ユダヤ人の経済力』(佐藤唯行著、PHP新書)さらには『アメリカのユダヤ人迫害史』(佐藤唯行著、集英社新書)のような書は、このような知識を得るためには、参照しておくべきものであろう。
 なお、この小説を「文学における『障害者』像」の枠組みで取り上げることは、私は、本来ならば不適切なのではないかと思う。イーライはユダヤ神学校校長との法律折衝によって神経を刷り減らし、それが「宗教的・民族的な覚醒」の契機になったのは、事実であるかもしれないけれども、生まれたばかりの息子に会いに行き、「自分は父親だ」と叫ぶ件(くだり)は、イーライが「自分が何者か」を判っていたことを示している。前に触れたように、われわれは、「自分が何者か」を判っている人々を普通、「精神異常者・心身喪失者」とは呼ばない。現に、『狂信者イーライ』の原題(Eli, The Fanatic)で使われている単語は、「政治・宗教上の熱狂的な信奉者」を意味する〈fanatic〉であっても、「精神異常者・心身喪失者」を意味する〈lunatic〉ではない。たとえ、イスラム原理主義を信奉するテロリストの行為が、一般の日本人の理解を越えるものであっても、その行為を表す言葉が、〈fanatic〉であっても、決して〈lunatic〉ではないのと同じことである。日本国総理大臣・小泉純一郎氏の姿勢は、わが国の政界の常識では「変人」と呼ばれるほどに特異なものであったけれども、それは、しばしば〈fanatic〉の言葉で説明されているのである。『狂信者イーライ』を「『障害者』を扱った文学」の中に位置付けることへの疑義は、このことに依っているのである。

(さくらだじゅん 評論家)


(注)世の中というのは、自分たちと異質な考え方・理解できない人生観の持ち主で、ある程度の力を備えているものを、精神障害・精神異常というレッテルを貼って片付けようとする傾向が見られます。反抗する場合などは特にそうでしょう。それが原因で精神病院に入れられてしまうケースもないとはいえません。
 今回紹介した、イーライもそうした処遇を受けるであろう可能性は十分あるわけです。そうした現実への警告をも含めて読まれるべき作品ではないでしょうか。(編集部)