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新春座談会 新「アジア太平洋障害者の十年」 ~その課題と展望~

上田敏(Satoshi Ueda)
(大阪フォーラム実行委員長)
兒玉明(Akira Kodama)
(日本身体障害者団体連合会会長)
丸山一郎(Ichiro Maruyama)
(RNN事務局長)
山田昭義(Akiyoshi Yamada)
(DPI日本会議議長)
板山賢治(Kenji Itayama)
(日本障害者リハビリテーション協会副会長、本誌編集委員)

「アジア太平洋障害者の十年」をどう評価するか

板山

 新年を迎えて、「アジア太平洋障害者の十年」を振り返りながら、ポスト「新障害者の十年」を考え、将来を展望してみたいと思います。
 第一の柱は、「アジア太平洋障害者の十年」をどう評価するかです。北京で開かれた国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)総会(1992年)で日本と中国が提唱して、1993年から「アジア太平洋障害者の十年」が始まりました。障害者基本法をはじめとする制度改正、障害者団体の活動や市民の意識変革、リハビリテーション分野の進展など、さまざまな動きがありましたが、それぞれのお立場で十年を振り返っていただきたいと思います。

各国の障害者が力を得てきた

山田

 個人的には、JICAにご支援をいただいて、アジア太平洋地域でのリーダー研修が各地で行われて、この10年でリーダーが確実に育ってきたと思います。その中から、障害者インターナショナル(DPI)の世界議長が出たという面では大きな広がりをもってきたと思いますし、各国の障害者が着実に力を得てきた10年だったと思います。
 国内的には、DPIとしては総論の枠はできてきた。しかし各論の、権利に基づいたきめ細かい施策が実現していくことを願ってきた十年ではなかったかと思います。たくさん出てきたメニューの中身が、障害をもつ立場から、ほんとうに使いやすい一人ひとりの身になった制度、サービスになっていくための戦いの十年だったという気がします。
 私事になりますが、社会福祉法人AJUが中部国際空港のユニバーサルデザインのコンサルティング業務を請け負いました。延べ1,000人以上の障害者の声を集めて検討していますが、国家のプロジェクトに企画の最初の段階から障害者が入り、責任ある声を届け、それが実現していく仕組みができたという面では、市民もそこまで変わってきたということを感じます。

兒玉

 ただいま山田さんから主にDPIとしてのお立場から振り返っていただきましたが、私たち日本身体障害者団体連合会としても、悲願であった障害者基本法をはじめ、ハートビル法、交通バリアフリー法など一定の法整備がすすみ、また、国際的にもアジア太平洋地域における当事者団体同士の結びつきを強化し、また、権利条約制定への機運を高めることができた点では、意義深い十年だったと、前向きに評価できるのではないでしょうか。

施策面の大きな質的変化

板山

 丸山さんは、行政から研究者の道へ入られましたが、この十年の変化をどう評価していますか。

丸山

 この十年は、その前の十年に比べますと、大きな変化はなかったと思いますが、国連の「障害者の権利宣言」から四半世紀が過ぎ、ようやく重い障害をもった人が地域で生活することが権利であるという方向に進み出した質的な変化が大きいと思います。具体的には、障害をもった人のサービスが市町村を中心に行われるようになったことや、地域生活を支えるための権利を守る制度や施策が始まったこと。市町村障害者計画で数値目標を含めて、地域生活を実現し促進するという考え方が定着してきたと考えています。

板山

 平成5年の障害者福祉法の制定によって、国、都道府県、市町村が障害者計画をつくることになりました。市町村の計画策定は初めのころは3分の1、このごろやっと90%を超えたと言われていますが、どうですか。

丸山

 身体障害、知的障害に加えて、まだ一部ですが精神障害をもった方にも、市町村が支援の主体であることが明確になりました。それを支える政府の障害者プランなど中身を変えていくことが行われてきました。障害者の介護保険をどうするかの検討もされていますが、社会福祉基礎構造改革で障害をもった人が主体的にサービスを選択できることを目標に掲げたことも、その動きだと思っています。

板山

 社会福祉法でも地域福祉計画を地方自治体がつくる方向に誘導しようとしています。私は、人口22万の東京、府中市で地域福祉計画づくりの委員長をしていますが、高齢者も子育て支援も障害者も含む地域福祉計画にしようとしています。その動きが、全国的に広がっていくとすばらしいと思います。介護保険と障害者の介護を含む福祉が一体として考えられる時代を迎えようとしているのは、この10年間の大きな前進だったと思います。リハビリテーションの分野では、この十年をどうとらえられますか。

リハ分野、RNNキャンペーン活動に大いに貢献

上田

 リハビリテーションの分野は非常に広いので一言ではなかなかむずかしいのですが、私がリハビリテーション・インターナショナル(RI)日本事務局長になったのが1983年で、「国連・障害者の十年」の最初の年でした。そのときのRI会長は香港のファン先生で、すでにアジアから会長が出ていたように、アジア太平洋地域は障害者の人口も多く、活発な活動を行っていた実績があったわけです。
 私が日本の責任者になってから、アジア太平洋地域の活動をもっと盛んにするためにきちんとした支部組織をつくろうとアジアの地域の人たちと相談をして、86年のRI総会を通して、世界で初めて地域の会則をもったアジア太平洋地域委員会をつくりました。小さな島国へも加盟国を拡大する努力も含めて、毎年会議を開いてきましたが、「アジア太平洋障害者の十年」を迎えるにあたって、社会福祉、職業、教育などの広い意味でのリハビリテーション分野の行動の担い手や、地域活動の基盤をかなり準備できたと思います。それが、「アジア太平洋障害者の十年推進NGO会議(RNN)」という形になり、キャンペーン会議が9か国を巡って毎年開かれて、開催国や周辺の国々に大きな刺激を与えたと思います。その開催にあたっても、RIの地域組織は役に立ったと思います。

板山

 RNNの持ち回り開催は、障害者団体と専門家組織そしてボランティアが手をつなぐすばらしい場で、地域啓発に大きな意味をもっていたと思います。

丸山

 「アジア太平洋障害者の十年」は、日本からの提案でしたが、政府が提案するように障害団体が働きかけたわけです。それは、「障害者権利宣言」を実施する一連の国際障害者年、「国連・障害者の十年」が日本の障害者団体を刺激し、日本国内で大きな前進があったのですが、その成果を中断してはいけない、広げなければいけないという意識から、「アジア太平洋障害者の十年」が日本のすすめで実現しました。日本が提案だけではなく、実際の推進もしたことは、非常に意味があったと思います。RNNが9か国を巡回して行われたキャンペーン会議も、各国の関係者を刺激して、各国でネットワークができました。

新しい障害の捉え方「国際生活機能分類」

板山

 この間に、国連が障害の定義を再吟味しようという動きがありましたね。

上田

 これは世界的な話になりますが、「国際障害分類」が1980年にできて、翌年81年の国際障害者年の行動計画に障害の基本的な概念が取り入れられました。機能障害があっても、それが必ず能力障害を起こすものではない。能力を向上させる方法はたくさんある。また能力の向上に限界があったとしても、それが必ずしも社会的不利になるものではない。社会的不利は独自に解決する方法がある。そういう概念は画期的で、国際障害者年を貫く思想として大きな意味があったと思いますし、リハビリテーションをはじめとして、医学、福祉全般に大きな影響を与え、障害というものの考え方を根本から変えたといっていいと思います。
 ただ、専門的な面からみますと、まだ不十分なところがたくさんありました。一つは、機能障害と能力障害の分類は各200項目以上と詳しかったのですが、社会的不利の分類はわずか七つしかなかった。医学面に携わってきたWHOが、障害を考える場合に社会的な面を考えなければならないと言い出したのは画期的なことですが、蓄積がなかったので、不備なものに終わっていた。そこは充実させなければなりません。また能力障害があっても、社会的不利にならないですむ大きな要素は、環境です。環境には、物理的・人的・社会的・制度的などがありますが、そういうものが抜けているではないかという批判もありました。動き出しは遅かったのですが、92年からほぼ毎年国際的な改定会議が行われ、2001年5月に完成版ができて、「国際生活機能分類」に変わりました。この分類では、障害を先に見るのではなくて、人間が生きることの全体像を見よう。マイナスからではなくて、プラスを重視しよう。プラスの中にマイナスがあるのだから、マイナスを減らすという見方だけでは限界がある。プラスを増やすことによって全体の問題を解決しようという積極的な見方に変わりました。社会的な問題の項目数も増え、環境も詳しい分類が入り、画期的な変化がありました。障害の見方に関してのこの新しい世界的な流れを、地域の活動の基本的な考え方として生かしていくのが、これからの課題だと思っています。

自立生活運動の変化

板山

 自立生活運動は、この十年でどんなふうに変わってきましたか。

山田

 定義が大きく変わったプラス指向には基本的に大賛成ですが、日本の身体障害者手帳はまだ機能障害だけで考えられている。この矛盾は制度的な問題であるにもかかわらずと考えますが、この十年手を着けなかった。非常に遅々としています。逆に言うと、自立生活運動はまさにその戦いで、社会に環境に問題があることを訴えて、能力をプラス指向してきた最たるものではないかと思います。

板山

 ハートビル法、交通バリアフリー法ができ、情報のバリアフリーが主張されるようになっています。それらの動きは、障害者の生活、運動にどうかかわってきますか。

山田

 聴覚障害者の世界が最たるものだと思います。電話はまったく不便な世界でしたが、いまは聴覚障害者は携帯をもたないことが障害になるというように、大きく変化をしてきました。

丸山

 日本も、脳性マヒの人々など重い障害をもつ人たちが強く主張してきた障害の新しい考え方を受け入れたことで、ノーマライゼーションの動きを促進できたのだと思います。所得保障の改善やバリアフリーの推進などの明らかな成果が自立生活をすすめて一定のレベルに達したことが、「アジア太平洋障害者の十年」を日本から生み出す要因だったと思います。

「最終年記念フォーラム」の評価

板山

 「アジア太平洋障害者の十年」をこれきりで終わらせてはいけないと、国内的には「ポスト十年を」という声を関係団体等が盛り上げてきました。アジアの国々に呼びかけ、ESCAPに提案したら、最終年記念の大会は言い出した日本で開催してほしいとなりました。最終年ということで、昨年1年間、三つの国際会議、三つのキャンペーンが行われました。「DPI札幌宣言」、大阪フォーラムの「大阪宣言」、これらを踏まえて、ESCAPの最終年ハイレベル政府間会合の「びわこミレニアム・フレームワーク」に結びつくわけです。社会参加推進の立場に立って、都道府県レベルのキャンペーンも行われました。兒玉さん、ご紹介いただけますか。

当事者主導の国内キャンペーンの展開

兒玉

 これは、最終年記念フォーラムで提唱した三つの国内推進キャンペーン(「欠格条項」の総点検キャンペーン、「市町村障害者計画」策定推進キャンペーン、「情報バリアフリーとIT環境の整備」推進キャンペーン)を全国展開するにあたり、各都道府県・指定都市の障害者活動のハブ組織である「障害者社会参加推進センター」のご協力を賜り、各地域で最終年を記念する会合やキャラバン等の多様な活動を実施していただき、広く一般市民へ障害と障害のある人々についての理解を深めてもらおうという取り組みが全国各地で行われたものです。行政主導ではなく、障害当事者団体が主体性をもって運営する「障害者社会参加推進センター」の機能がいかんなく発揮されたところに、大きな意味があったのではないでしょうか。

草の根運動から権利条約への流れをつくるDPI札幌会議の開催

板山

 「ポスト十年」の声が出始めたころ、DPI世界会議を札幌で引き受けることがDPIメキシコ大会で正式決定されましたが、その経緯をお願いします。

山田

 私はあまり深くかかわっていなかったのですが、日本は1994年のシドニー大会で参入し、当時の世界議長だったヘンリーエンズ氏が日本に来たときに、日本で開催したらというアドバイスがあり、札幌から手が上がってきたという経過があったと思います。私が日本議長になった当時は、日本でやる意義が本当にあるのかという議論がありました。
 しかし、議論を重ねてきた中で、障害者権利条約は一人ひとりの問題である。いろいろなメニューは出てきたけれど、一人ひとりのものになっていない部分を具体的にどうしていくか、一人ひとりのよって立つところの権利がきちんと確立されている社会を築くには、障害者権利条約が必要だということだと思います。各市町村で障害者計画をつくることになったら、地域間格差がすごく出てくるでしょう。そういう部分では、各地のJILやDPIが草の根運動を起こすのが大きな役割ではないかというところに集約されて、札幌をめざしてきたのではないかと思います。

丸山

 1988年にはリハビリテーション世界会議が、また、93年には世界ろう者会議が日本で初めて開かれまして、日本を中心にアジア地域で障害関係団体の世界会議が開かれることになりました。DPIはリベラルな新しい世界団体ですが、日本やアジアが引き受ける素地は高まっていたと思います。

板山

 DPI札幌会議開催をDPI日本会議が引き受けたとき、障害者関係団体の中には冷ややかにみるグループもありました。そのとき、それではいけないと関係者が考え始めた。最終年だから、RNNキャンペーン会議に加えてRIのアジア太平洋地域会議も日本で一緒にやろうという流れがある。ホスト国日本としての危機感もありました。DPI札幌会議とRNN、RI地域会議をドッキングさせて、全国の障害者団体、専門家が一緒になって開催して初めて意味があるのではないかと話が始まったんです。その辺の動きは、どう見ておられましたか。

丸山

 日本では、JICAが協力して障害関係だけで12コースを設けて、主にアジア地域からのいろいろな人を受け入れました。その中の一人にDPIの世界議長になったイラガンさんもいます。また、RNNには各国のDPIの人たちも参加して大活躍していましたので、日本国内がバラバラでは最終年が成功しないと思いました。

板山

 今回、日本での会議開催に向けて、日本の障害者関係団体やリハビリテーション専門家団体が団結できたのは画期的なことだったと思います。

上田

 おっしゃるとおりだと思います。共通する立場の人たちが力を合わせなければ、問題は解決しません。DPI札幌会議で障害者団体がまとまったことも大事ですが、大阪フォーラムでは広い意味での障害問題に関する専門家を中心に、DPIの当事者とも手を結んで一つの大きな事業ができたことは意義があるし、今後もその気持ちを忘れずにぜひ生かしていきたいと思っています。

板山

 「DPI札幌宣言」が採択され、それが「大阪宣言」となり、ESCAPの「フレームワーク」にも反映し、国連その他に発信されていったことをどう評価をし、どう発展させていきますか。

山田

 世界的にみると、アジアは非常にうまくいっている地域だと思います。RNN、RIのブロック会議、JICAもあるし、DPIもアジア太平洋ブロックがいちばん活動が活発です。次回は南アフリカでの開催が確定していますが、世界の人たちにどう広げていけるかが、次回までの大きな命題だと思います。
 JICA、日本政府も力を入れて応援をしてくれて、アフリカでリーダー研修をやろうという動きがあり、DPIが担うことになっています。確実に実行していくことが、具体的な成果につながると思います。いろいろな団体が昨年の7、8月とニューヨークへ行きましたが、国連の権利条約も実現させなければいけない。4年後には成果を高らかに祝えるようなものにしていけるかどうかが大きな役割だと思います。

上田

 RIも1988年の東京開催の次がケニアでした。アジア太平洋で発信して、アフリカが受け止めるというパターンが軌を一にしておもしろいですね。

兒玉

 このことは世界におけるアジアの役割、とりわけ日本のもつ力、役割の大きさを象徴しているのかもしれません。ともすると、日本国内での活動に終始していると見落としがちなのですが、アジア太平洋地域において日本は間違いなく「すべての人々の社会」の実現のためのリーダーシップを担ってきた一国である、ということです。
 DPI札幌宣言、大阪宣言、びわこミレニアム・フレームワークがすべて日本から発信されたことで、望むと望まざるとにかかわらず、その責任は一層重くなることも考えられます。権利条約実現への取り組みが今後の最重点課題のひとつとなるでしょうから、わが国の障害者団体が協調・連携を保ち、他の国々との情報交換を密にして、条約制定の必要性を内外に訴えつづけていかなければならないと、決意を新たにしているところです。

RNN・十年推進キャンペーン会議の成果

板山

 RNNでは、今日までの活動をどう評価されていますか。

丸山

 RNNにはWFD(世界ろう連盟)、WBU(世界盲人連合)、DPIも入っているように、リハビリテーション専門家だけではなく障害団体が入っています。各国内の初めて合同したグループと国際的なグループが混ざったたいへんユニークなネットワークをつくったのです。しかも、形だけではなく実際に共同して活動したことが大きな成果だと思います。RNNの最終年キャンペーンでは、ESCAPがつくった行動項目に沿って、各国の障害団体を中心に、この10年間の評価をしました。評価するには十分な準備と情報収集と論議がされなければなりませんから、各国で政府評価とは違うNGOの詳しい評価ができたのは、たいへんな成果だと思います。
 アジア太平洋障害者の十年の最初で、国連の障害者権利条約も、国際障害者年も、「完全参加と平等」も障害のある人々はもとより関係者も知らないという状況が各国にありました。RNNのキャンペーンは、国連の障害者問題の取り組み、世界行動計画などの情報提供だったのです。最終年になって当事者を含めたNGOが自国の障害者の状況をレポートできるまでになったことは大きな成果で、次につながることは間違いありません。

びわこミレニアム・フレームワークと今後の日本の役割

板山

 政府が大津市でESCAP総会をマネージメントして、「びわこミレニアム・フレームワーク」を発表しました。「フル」と「オール」のとらえ方について、外務省が各国のひんしゅくを招くような発言もしたそうですが。

丸山

 障害に関するよく知られている決議などの慣用句を理解していなかったんです。「完全参加と平等」の「フル」は行き過ぎであると言ったり、国連の「すべての人の社会」の「オール」などです。アジアの国々からブーイングがありました。

上田

 ちょっと恥ずかしいですね。日本の行政はいかに当事者や専門家の声を聞いていないかということです。逆に言えば、聞かせる、「教育」するわれわれの努力が不十分であったと反省しなければなりません。

山田

 外務省に当事者の声が届いていなかったのだと思います。そういう意味では、当事者が中心となり専門家にサポートしていただきながら、どう届けていくか。当事者の役割は大きいし、21世紀はそれに尽きるだろうと思います。逆に、いたるところで当事者と専門家はぶつかってくるだろうと思います。それは成果の一つだと思いますが、ときには敵対して緊張関係をもたないといけない。そういう意味では、どうやって専門家とうまくやっていくのか、リーダーの資質が問われるだろうと思います。
 アジアでは日本の果たしてきた役割は非常に大きかったと思いますし、これからも大きな役割を担っていくだろうと思います。21世紀はあらゆる分野で中国の世紀だと思いますので、これからは中国との連携をきちんと結んでいくことが大事だと思います。バンコクにアジア太平洋障害センターができますが、日本だけでやる時代ではなくなってきたと思います。

上田

 私も山田さんがおっしゃったことに賛成です。RNNは、日本が提唱し最後も締めくくりましたが、日本政府からESCAPを通じてかなりの資金が提供されたことが、大きな意味を持ったと思います。今後もますますやらなくてはいけないのですが、ほかの国々が日本だけに顔を向けるという風潮にならないようにしなければと思います。中国をはじめとして、アジアの国々は経済的社会的文化的にも急速に進んできています。リハビリテーション医学では、特に韓国・中国・日本の3か国の間で、学問的な協力関係が進んでいます。日本の役割が期待されていることは間違いないですが、日本だけがやる時代ではないことを意識して取り組まないと、孤立するおそれがあると思います。

兒玉

 ご指摘のとおりですね。先程は日本の役割の大きさについて触れましたが、一番理想的な姿は、各国が協調しあって、すべての人々が住みよい社会を築くことです。日本身体障害者団体連合会としても近隣国とのよりよい連携のあり方を模索しているところですが、アイデアや技術の伝達が一方通行にならず、相互交換でき、共に支えあう関係ができるといいですね。
 ESCAPハイレベル政府間会合に出席したある国では、政府代表者と障害者NGOの代表が同じテーブルに座り、フランクに相談しあいながら、発言されていました。おそらく日常的に相互の情報交換があり、信頼関係ができあがっているからこそできることだと思います。
 私たちは障害者施策を実現していくうえで、「連携」のあり方やその対象を、今一度しっかりと見つめ直す必要があるのではないでしょうか。

「ポスト十年」にどう取り組むか

板山

 最後に、ポスト十年にどう取り組むか、今後の課題に触れていきたいと思います。RNNでは、今後のステップはどんなふうにお考えですか。

RNNからAPDFへ
~広がるアジア太平洋地域のネットワーク~

丸山

 RNNは役目を終え、さらに拡大されたネットワーク「アジア太平洋障害者フォーラム(APDF)」が生まれました。これは最大の成果だと思っていますが、運動のターゲットは、具体的な目標を出している「びわこミレニアム・フレームワーク」です。教育は、7年後に障害児の75%は初等教育を受けられるようにするとか、障害者の雇用データは10年までにそろえるとか、非常に具体的な目標をつくっている点に価値がありますので、APDFのネットワークで各国政府に迫る運動をしていこうという明確な目標ができたと思います。政府間で合意された「びわこミレニアム・フレームワーク」の文書の中でも、各国政府にAPDFと協力してすすめるよう記述されています。
 また、国連の権利条約を実現するためのアクションを共同で行うことも大きな目標ですので、APDFは当事者を中心に活動を継続するための強い基盤になると思っています。ヨーロッパも、ヨーロッパ障害者フォーラムをつくり、権利条約の推進などを図るために国連にロビー活動をしに来ていましたが、呼応できると思います。

板山

 APDFをつくるとき、アジア太平洋地域のリハビリテーション組織と一緒にやることが合意されていますね。

上田

 RI副会長の松井亮輔さんがアジア太平洋地域委員会の委員長ですので、アジア太平洋地域委員会はRIの総会のときに集まりまして、地域における活動を相談してきていますが、我々が考えているのは非常にゆるやかなネットワークです。各国の事情によって障害別の組織もあれば、そうでない形もあり得る。それらを全部認めあうゆるやかな組織であるべきで、集まって話し合う意味の「フォーラム」という形のものがいちばん適切なのではないかということです。

板山

 どのくらいの国々、地域に広がっていく可能性がありますか。

丸山

 これまでのRNNは、国内組織としての加盟は20、国際組織は八つでした。これらをベースにAPDFはスタートしました。大阪宣言では、国のメンバーと国際メンバーでやるということで、新DPI世界議長のビーナス・イラガンとRIアジア地域の長である松井さんの2人でAPDF宣言をしましたが、大阪フォーラムに参加した太平洋の小さな国々もぜひ入りたいと言っています。これまでは東南アジア中心でしたが、南アジア、太平洋地区、北中央アジア、西南アジアに広げていく。ESCAP域内国は43だと思いますが、そのくらいが参加できるようにするのが目標です。

板山

 APDFに、日本の障害者関係団体、リハビリテーション関係団体、国際組織の日本国内組織委員会がどう対応するかは一つの命題です。RIの日本組織委員会あるいはアジア太平洋地域委員会は全面的に協力しようとなっていますし、今度のフォーラムを推進した人たちはだいたい賛成だと思いますが、DPI日本会議は参加を決定したのですか。

山田

 いま詰めているところです。賛否両論あるのは事実ですが、これからどうしていくのかの議論はしていくべきです。
 権利条約の実現は、地球市民を確立させていくことだとなると、日本のいろいろな団体と無縁でできるとは思いません。DPIでは10月、11月の2か月の動きとしては、国連に我々の代表としてどういう人を送り込むかという人選をしています。
 どういうスタンスでものを言っていくのかがありますが、世論のバックアップがなければできないことは十分に承知しています。

兒玉

 これまでの事業推進体であったRNNがベースになって、さらに緩やかな連帯により活動を展開していくのが望ましいでしょうね。現在のアジア太平洋地域の障害のある人々が置かれている現状もあわせて考えますと、やはり日本としては、しっかりした体制を整えていくべきだと思います。
 また、リハビリテーションの専門家組織のAPDFへの参加についてのお話がございましたが、これからの10年間では、こうしたリハビリテーション組織の関係者と、全国各地域の障害当事者団体との結びつきを強めていく努力も欠かせないのではないでしょうか。
 もちろん現在、アジア諸国でCBR(コミュニティ・ベースド・リハビリテーション)の考えに基づいた画期的なアプローチが図られていますが、残念ながらわが国においては、専門家の方々と障害当事者団体との交流は乏しく、リハビリテーションそのものに対する正しい理解とその重要性が十分に浸透しなかったと言わざるをえません。
 障害のある人々を取り巻く環境はグローバル化する一方で、地域においては地方分権が進んでいる時代です。リハビリテーションの専門家組織が一人ひとりの障害当事者の思いや熱意をしっかりくみ取り、幅広い見識や人脈を兼ね備えた障害当事者を地域の中で育成することが緊急の課題です。
 ですから、上田敏さんや松井亮輔さんをはじめとするリハビリテーション分野のリーダーの皆さんに対しては、とても期待しています。

関係専門職の質の向上を

板山

 障害者関係専門職団体をどのように巻き込んでいくかについてはいかがですか。

上田

 それは大きな課題です。リハビリテーションでは、心も体も環境なども含めて人間全体を見て取り組まなければならない。一つの職種だけでは全部をカバーしきれなくて、チームをつくってやらなければならないのに、学問が専門分化していて非常にやりにくいんです。一種の専門バカになりがちですが、自分の専門だけではなく、1割2割は常に全体を見て広い視野をもっていないと、人間を相手にする仕事はできません。マイナスの修理屋ではなくて、元気に健康に生きられるようにするためのプラス面を助ける職種だという認識が大切です。
 もう一つは、日本障害者リハビリテーション協会が主催して25年間、毎年総合リハビリテーション研究大会を続けてきました。この研究大会では、全人間を対象として、主体性を尊重し、環境にも目を配る、総合的な目をもつ専門家を育てようとしてきました。この十年でリハビリテーション専門家は数的には急成長して、PT、OTを合わせると5万人近くで、毎年、数千人ずつ増えています。介護福祉士なども急激に増えています。そういう人たちもリハビリテーションのメンバーにならなければいけない。多くをまとめていくのはたいへんですが、これからの十年の大きな課題です。

山田

 私たちの立場から言うと、当事者がどんどん育って、専門家にものが言えるようになってきて、専門家と当事者運動の葛藤はいたるところで出てくるようになりました。20年前には考えられませんでしたが、対等にものが言えるようになったことは成果の一つだと思います。これからの十年は、専門家がどういうスタンスで障害者あるいは障害者団体に向き合うかが大きな課題だと思います。リハビリテーションの専門家がどんどん育っていくわけですから、だれのために何をというときに、当事者運動の役割と専門家の役割分担がきちっと議論されて、しかるべきシステムができてくればと思います。

当事者、専門家、ボランティアの協力

板山

 今年は、日本国内の専門家集団と当事者集団、ボランティア関係団体、アジアの国々との手のつなぎ方が問われる年になりそうですね。

兒玉

 昨年の「アジア太平洋障害者の十年」最終年記念フォーラムと称して日本で開催された三つの大きな国際会議は、障害関係団体や障害当事者団体、とくに当事者団体間で、幅広く手をつなぎ結集したことにより、初めて成功に導かれたのだと思います。
 こうした実績により、団体のバリアはかなり解消された。少なくとも共通する課題については、小異を捨てて話し合う素地は完成したものと確信しています。
 大イベントが終了してからまだ間もないので、各団体とも次なる取り組みへの実行体制を整えるのにもう少し時間がかかるかもしれませんが、新しい「十年」のスタートを飾る年ですから、国の内外を問わず昨年以上に積極的な連携事業を展開していきたいと思っています。

丸山

 昨年、国連の権利条約の特別委員会に日本の障害関係団体の方たちがフォーラムの派遣として行かせていただきました。そのとき、国際障害団体がNGOとして初めて発言を許され、賛同を称しているところを見て、日本も、ようやく恩恵をいただくだけの側から、世界に貢献する場に参加したと思いました。また、参加することが困難なアジア各国の人々の代弁をする必要も思ったのです。
 これからは団結して、国民を説得するような運動をしなければいけないと思います。びわこフレームワークでも、障害問題だけを言っているわけではないし、障害者権利条約もすべての人に必要なものです。世界の障害運動は「すべての人の社会へ」という段階に入っています。障害の概念も変わりました。日本の障害関係者の運動は、新たな段階ではどういう協力をするかを考えなければいけないと思います。障害団体が一致して協力しなければ、外向きにはならないでしょう。

上田

 私はアメリカで勉強していたとき、アメリカの患者さんと話をするのは気持ちよかったんです。納得するまでとことん訊いてきて、納得すると、「わかった、やりましょう」ときちんとやってくれる。日本に帰ってきたら、「お任せします。よろしくお願いします」がほとんどで、がっかりしました。日本では、寝たきり老人を大切に扱うことがリハビリテーションだという。とんでもない。人間として前向きに新しい人生を築いていくことを助けるものです。
 日本の専門家は、ちょっと質問すると、素人はだまっていればいい、専門的なことだから説明してもわからないと言わんばかりの態度が多かったと思います。アメリカの障害者のようにどんどん質問して、批判もしていただいて、それを受け止められない医者やリハビリテーション専門家はダメだということにすべきです。逆に関係者には、いかに障害者の本当の気持ちを理解して役に立つ仕事をする人間になれるかの教育をしていきたいと思います。

リハビリテーションと自立生活運動との連携

上田

 もう一つは介護との連携です。リハビリテーションがうまくいかなかった人が介護の対象になるという考え方がありますが、それは間違いで、相補うものであり、表裏一体であると思います。介護の世界にリハビリテーションの精神と技術を導入しようという動きは始まっています。
 さらに重要なこれからの課題は、自立生活運動とリハビリテーションが手を結ぶことだと思っています。たとえば、病院のリハビリテーションチームの中に自立生活の専門家が入ってきて、障害者になったばかりの方に、生活の仕方などを先輩として指導する。同時にリハビリテーションの専門家が学問的な立場からアドバイスする。とくにピアカウンセリングは、先輩である障害者が障害者にカウンセリングをして、生活の仕方を教えていくことです。将来的には、リハビリテーションのチームの一員として、障害者自身がIL的なピアカウンセリングをしたら、健康保険の点数をつけるところまでいくべきだと思います。リハビリテーション・自立生活・介護が一対となることが、これからの障害者へのサービスのあるべき姿だと思います。

山田

 これからの専門家と当事者運動の葛藤は、まさにそこにあると思います。その辺の先進的な部分と、現場の専門家のギャップがあるからぶつかるわけで、トップレベルの話になると共通項があるわけです。福祉の現場で働く専門家の人たちがそこまでグレードアップしてくれるかが課題だと思います。

丸山

 質の向上ですよね。今度の政府計画の中に、新しいことが二つ提言されています。一つは、障害をもった人たちの権利をきちんと守る、地域生活は権利なのだという観点を入れて、施設から地域へという言葉が入り、施設は必要なものにとどめるという言い方をしています。同時に、障害者の責任ということも言われました。障害のある人々の貢献を期待するということだと思います。

板山

 札幌フォーラムから大阪フォーラムへ、その背景にある十年を通して、権利に基づく社会の発展を、障害者権利条約の実現をという障害者団体、専門職団体、関係者の一致した歩みが始まろうとしています。RNNからAPDFへ発展したのと同じように、日本国内でも障害者団体、専門職団体、ボランティア団体等を含めて着実に歩みを進めることを決意されるよう強く希望して、この座談会を終わりたいと思います。ありがとうございました。